青い煙


 その夜、(みやび)が珍しくカクテルを飲みたいと言い出した。珍しくというよりは、(ひろし)ははじめて聞く台詞(せりふ)だ。彼女はアルコール類はビール以外であればなんでも美味く飲むが、中でも清酒を好んでいる。家にいるときも大抵清酒か、でなければ焼酎、あとはワイン程度で、ウイスキーを飲んでいることも(まれ)だった。話にも出ないから気にしたことがなかったわけだが、カクテルも(たしな)むとは。
 とはいえ、こんな田舎にカクテルを出してくれるようなバーがあるだろうか。居酒屋ですら数える程度しかないというのに。
 と、思ったのは博が甘かったようで、雅はきちんと店を知っていた。
 その店は柘植(つげ)家最寄りの駅――といってもそれなりに歩くが、ともかく最寄駅から電車に乗って次の駅で降りた、(さび)れた駐輪場しかないようなところにあった。言及するまでもなく無人駅だ。夜の風景は森閑(しんかん)としている。
 住宅もない。
 ほかの店が並んでいるでもない。
 隠れ家めいているといえるほど奥まっているわけではないが、これでよくも営業に支障が出ないものだと思う程度には周囲に何もなかった。
 古い扉に、小さな金文字で〈サンドリヨン〉とあった。
 夜が勝負のバーに、なんとも思いきった名前をつけたものだ。まさか十二時で閉店するのだろうか。
 雅がそっと押し開いた扉についたベルが、低い音を立てた。
 店内は狭かった。カウンター席が五席、四人掛けのボックス席が二組。先客は、店内最奥のボックス席にひとり、壮年の男性がひとりいるだけだった。
 ほどよく落とされた照明と、点々と置かれた目隠し代わりの観葉植物は、なるほどバーらしい。テーブルも椅子も(つや)めいていた。いつからある店なのかはもちろん知らないが、去年一昨年(おととし)に新しくオープンしたばかりではないだろう。すべてがしっとりと馴染(なじ)んでいる。
 店内は無音だった。
 スローなジャズでもかかっていてよさそうなものなのに、しんとしている。
 それを居心地よく思うものだけが、ここの客になるのだろう。
 博は雅に続いて入り、慣れた仕草でいちばん奥のカウンター席に座った彼女の隣に腰を落ち着けた。
「ギムレットをお願いします」
 道すがら聞いた話ではホワイト・レディが好きだと言っていたくせに、ギムレットとは。どうやら雅は(しょ)(ぱな)からトップギアで飲むつもりらしい。
 彼女は大抵、贔屓(ひいき)の酒やつまみは二番目、三番目に注文する。裏を返せば、贔屓の酒を最初にオーダーするときは、あまり量を飲まない。つまり、贔屓のものではないものを注文したということは、今日の雅は好きに飲むつもりなのだ。
 だが、それももうじきしばらくのお預けになる。
 先日夫婦会議をしたのだ。雅は(ひろむ)妊娠、出産、授乳期間は当然のこと、これから生まれてくるであろうかわいい我が子が小学校を卒業するまでは、きっぱり酒をやめると決めた。
 だから、最近の雅は名残惜しむように酒を楽しんでいる。
 博も否はない。博もまた、社会的な付き合い酒でもない限り、雅とともにひとときの禁酒をすると決めている。それを彼女に告げはしなかったが、雅は恐らく気がついているだろう。
「キールをお願いします。……それから、カナッペとクラブハウスサンドも」
 雅がフルスロットルで飲むつもりでいるのだ。博は内心慌てて軽食を頼んだ。なんといっても彼女、とんでもない酒豪(しゅごう)なのだ。飲んでいる(すき)から酒精(しゅせい)が抜けて逃げ出して追いつかないようで、いくら飲んでもけろりとしている。博は雅が酒に呑まれたところなど、今まで一度たりとも見たことがない。雅に合わせてのんきに飲んでしまったら、博は明日起き上がれなくなってしまう。
 年齢不詳のバーテンダーは壮健(そうけん)な様子だったが、髪の色だけはきれいに抜けてしまっていた。背筋のしゃんとした(たたず)まいが快い。目尻の笑い(しわ)が深く、人柄がうかがえた。
「雅さんは今日はお飲みになる気でいらっしゃる」
 カウンターの向こう側、バーテンダーが低い声で笑った。声は(しゃが)れている。ますます年齢不詳だ。
「いいんですよ。もうすぐしたらお酒はちょっとお休みする気でいますから。こちら、夫です」
 挨拶(あいさつ)からして馴染みだったらしい。紹介された博は頭を下げた。
「妻がお世話になっているようで、ありがとうございます」
 博が言うと、バーテンダーは目を細めた。
「雅さんはいいお客様ですよ。とてもおいしそうに飲んで、笑顔でお帰りになる」
 想像するのは容易だった。
 それから待たずカウンターにグラスが並んだ。軽く乾杯をして、まず雅がグラスに唇をつける。
 雅は今日は薄青磁(うすせいじ)小紋(こもん)を着ている。ごくごく薄い濃淡のよろけ(じま)のものだ。縞は、店内の照明が落ちているせいでよくは見えない。
「少し、昔話をしようか」
 一杯目のギムレットを()けて、雅がぽつりと言った。
 これもまた珍しい。彼女は過去を話すことしない。内緒にしたいのとは違う。ただ話さない。
 だから博は、雅が十代の頃から海外を飛び回っていたことは知っているが、彼女が具体的にどこへ行き、どんなひとと出会い、何に心を動かされたのかを、ほぼまったく知らなかった。
「うん。聞かせて」
「お伊勢(いせ)さんにお参りに行ったときのことなんだけどね」
 お伊勢さん。神宮(じんぐう)。なんて近い。
「みーさん国内も行くんだ」
 意外に思った本心は、ぽろりと口から落ちた。雅がくすりと笑う。
「行くよ。放浪はしないけど」
 なるほど。
 国内は旅行、国外は放浪なわけか。
「博さん、行ったことある?」
 ギムレットのお代わりを頼んで、雅が(たず)ねてきた。博は少し考える。
「ないなあ。卒業旅行に日光(にっこう)に行ったくらいで、そういえば旅行ってあんまりしない」
 博は高校の卒業記念に、ひとりで日光に行ったことがある。小遣いやお年玉を貯め込んでいて本当によかったと思ったものだ。
 それも当初は近場の温泉旅行に行くはずだったのに、何故また遠い日光に予定変更をしたのだろう。そのあたりのことは忘れてしまった。
 二杯目のギムレットはあっさりと空けて、雅は今度はホワイト・レディをオーダーした。
「おかげ横丁(よこちょう)は知ってるでしょう」
「知ってる。あっちこっちに猫がいるんだよね」
 雅はくちもとに手を当てて小さな笑い声を立てた。
「そうそう。大きな石の招き猫も立ってるしね。招き猫のお祭りもやるし。私が行ったのは五月だったから、残念ながらお祭りの様子は知らないけど」
「お祭りはいつ?」
「九月。九月の二十九日が、『来る福』の語呂(ごろ)合わせで招き猫の日なの。結構長い期間やるんじゃなかったかな? 覚えてないから、気になったら調べてみて」
 グーグル先生に()いてね、と言ってまた笑う。
「あちらの男性がね」
 雅が少し肩を寄せてきた。
 今さらその程度何もないはずなのに、博はどきりとしてしまう。
 まったく、雅に対しては、博はどうしても慣れない。
 ――それはたぶん、恋だから。
 博は未だに、雅に恋をしているのだ。
「お煙草(たばこ)に火を()けられたから思い出したの。ちらっと目に入って」
 あのボックス席は、唯一の喫煙席らしい。
「おかげ横丁にね、『つぼや』さんっていう煙管(きせる)を売ってるお店があるの」
 店の前には、悠々(ゆうゆう)と伏せて煙管を吹かす猫の置物があるらしい。その表情がなんともいえないの、と言って、雅は思い出したらしく、ふふっと笑った。
「私は煙草は()まないんだけど、煙管の形状が好きでね。なんだか不思議な感じがして……お値段もお手ごろだったし、そんなに長くもない短いものだったしで、お土産(みやげ)にと思って買おうと思ったの。そうしたらね、」
 ――お煙草を嗜まれるんですか。
 若い男性の声に、唐突に背後から話しかけられた。とはいっても、雅はすぐには気づけなかった。まさか自分に向けられた問いだとは思わなかったのだ。気ままなひとり旅だし、もしも運命的な偶然で鉢合(はちあ)わせした友人なら、まず名前を呼んで声をかけるだろう。
 それでも一応ふり向いたのは、その客の邪魔になっているのかと思ったからだ。頭のひとつも下げて挨拶し、場所を譲ろうと思った。
 声をかけてきた男性は、(こん)(かすり)姿だった。締めている帯も紺、ぶら()げている信玄袋(しんげんぶくろ)も紺だったから、ぬうっと影が立っているようだった。逆光だったからというのもある。
 それから何故だか雅はその男性と団子を食べた。
「ナンパ?」
「とは思わなかったね。ナンパなんてイタリアとフランスでしかされたことないわ」
 並んで歩いてしまった、あれは五月の陽気がいけなかったのだろうか。とてもきれいに晴れていた。雲ひとつない快晴で、気温もちょうどよく、絶好の散歩日和だったのだ。
 その日は金曜日だった。京都と異なり一応静かな時期や曜日があるらしく、雅がおはらい(まち)やおかげ横丁をそぞろ歩きしていたその日は、観光客の姿はそれほど多くはなかった。店の行列も少なく、どこまでも明るい道が開けていた。
 丁寧(ていねい)に掃き清められたような道と、両側にずらりと並ぶ古い家屋、店の看板、年中飾ってある注連縄(しめなわ)。複雑に入り組んだ、そのくせどこを歩いてもどこかにひょこりと出られる細い路地。
 雅が薄暗いと思ったのは、『吉兆招福亭(きっちょうしょうふくてい)』裏手にある、小さな(ほこら)だけだ。あそこだけは、まるで鎮守(ちんじゅ)の森に囲まれているように喧騒(けんそう)が遠く、(きよ)らかな(かげ)に守られていた。
「喫煙できるところまで行ってね、――ほんとう、どうして付き合う気になったのか、今じゃもうわからないけど、私の旅の空なんていつもそんな感じだからね。ふたりきりになりそうだったら形振(なりふ)りかまわず逃げたけど、そうじゃなかったから」
 それでも不用心すぎやしないかと思いかけたが、それを言うならナンパなんてみんなそんなものだ。だからいいのだとは言わないけれども、雅の危機管理能力と(かん)のよさは物凄い。
 だから、やはり天気がよかったからなのだろうと、博は思う。
 景色が明るかったのだ。
 道行くひとが、皆穏やかだったのだ。
 雅はきっと、五月の()の光の筋に、白いつま先を(さら)して遊んでいたのだ。
「これもやっぱりなんでだか並んで座ったの。で、煙草を吸ってもいいですかって訊かれて。煙はものすごく苦手なんだけどね、喫煙スペースに座っておいて、ノーもないでしょう。だから、どうぞってお答えしたの」
 もしや煙管でも出すのだろうかと思ってしまったが、絣の男性は、さすがにそれはしなかった。
 博はキールのお代わりを頼む。クラブハウスサンドがやたら美味い。
 雅は当時を思い出しているのだろう、ホワイト・レディの(おもて)を見つめていた。
「両切りのピースだった。三十代の半ばくらいで若かったから、なんとなく珍しいなあって思ったからよく覚えてる。煙草と無縁で、どの年代がどんな銘柄(めいがら)を好む傾向にある、なんて、何も知らないのにね」
 絣の彼との間に、会話はほぼ何もなかった。
 ただ、時間だけがゆっくりと過ぎた。
 絣の男性の指にある煙草から、細く長い青い煙が流れていた。
 煙はすうっと立ち上り、うっすらと広がって青空にほどけてなくなった。
「なんとなく横顔を見て、――見惚(みと)れたの。男のひとの横顔に見惚れたのは、あれがはじめてだった」
 顔立ちに見惚れたわけではない。美形なわけではなかったのだ。印象に残るような特徴は何もなかった。少なくとも、雅にとってはそうだった。
 事実、雅はもう、彼の顔を思い出すことができない。
 そもそも、彼と別れた瞬間、お互いに背を向けた瞬間に、絣の男性の顔立ちは雅の記憶から消え去った。
 先ほどまで見ていた、彼の指の先から流れていた青い煙が消えたのと同様に。
 雅がホワイト・レディを飲み干して、またお代わりを頼んだ。一枚カナッペを(つま)み、くちもとに持っていく。
 淡い紅を差した唇が、(しと)やかにそれを()んだ。
 博は無言で、カウンターテーブルの上に置かれている雅の手に自身の手をそっと重ねる。
 (わず)かに握ってしまったのはちょっとした油断からだ。けれども、こんな時間、こんな場所で、こんなてのひらの()かれ方をからかうものは誰もいない。
「ほんの一瞬見惚れただけだよ。()れたわけじゃない」
 微苦笑して言った雅の声にどんな他意も見つけられなかったから、博はなおのこと胸につかえる。細い白い指をそっとなぞると、
「博さんは変わった焼きもちの()き方をするね」
 と(かす)かに困ったふうに笑われた。
「惚れたわけじゃなくても、――雅が見惚れたなんて、……気になるよ」
「そのひとの顔どころか、もう何年前のことだかすら覚えてもないのに」
 雅は何も感じていないらしい。その程度のことだったのだ。
 それはわかるけれど、博はそういうわけにはいかなかった。
「そういう問題じゃないよ」
「旅の空なんてそんなことの連続よ。たいしたことじゃない」
 ――もし本当にそうなのだとしたら。
 もしも本当に、通りすがりの誰かや何かに見惚れるのが旅の真実なのだとしたら、雅からすれば、博のこんな嫉妬(しっと)はとても幼いものだろう。
 旅の空は孤独で気ままで、少し寂しく、美しい。
 博が帰りを待ち()びていることを、雅はきちんとわかってくれているのだろうか。
「雅は妬かない? 俺が誰かに見惚れても」
 雅は微笑んだだけで、何も答えてくれなかった。
「煙草の煙は青いのね」
 雅が小さく(つぶや)いた。
「見果てぬ夢みたい」
 長い(まつげ)を伏せて静かに笑った雅の言葉の意味を、博は判じることができなかった。けれど、それでもいいと思えたのは、結び合わせた彼女の小指があまりにもやわらかかったためだ。




end.



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