ステラプレイス

(あや)ちゃん、サンタさんからのプレゼント、何が欲しい?」
 唐突に(ひろむ)に尋ねられ、綾野(あやの)は硬直した。
 時は放課後、綾野は弘と関係者以外立ち入り禁止のやたらと大きい温室内にてお茶の時間の真っ最中だ。温室内の片隅に設えられている、透かし彫りが美しい白い円卓と二脚の椅子。八代(やしろ)()れてくれた香りの素晴らしい紅茶と、弘のお手製おはぎ(取り合わせの妙にはもう慣れた名瀬(なせ)綾野、高校一年の秋)を挟んで、ふたりは向かい合って(くつろ)いでいた。
 綾野の位置から少し視線をずらしたところにある長椅子には、園芸部部長の八代(やしろ)が、間延びしているとしか表現しようのない気の抜けた様子で居眠りを決め込んでいる。長い手足が椅子からはみ出ていて、なんというか……公園のベンチで酔い潰れた新入社員のような。だらしないとかみっともないと感じさせないのが不思議でならない。綾野はこういう怠惰(たいだ)な感じは嫌いなはずなのに。薄い銀縁の眼鏡をかけたまま微動だにしない、というのが砦になっているのだろうか。鳩尾の辺りで両手を祈るようなかたちで組んで、まるで眠れるお姫様みたいだ。
 ――悪魔みたいなやつなのに。
 正しくは、悪魔だと思っていた、だが。綾野はまだ、自身のその心境の変化を素直に認められずにいる。
「綾ちゃん」
 弘が少し声を落として、名を呼んだ。
 無視したと思われるだろうか。きっと数ヶ月前なら不安に揺れただろう心も、今では静かなものだ。ほんの少しの、甘い痛みが胸を刺すだけで。
 視線を弘に合わせると、案の定弘はいつものように微笑んでいるだけだった。
「起こさないでさしあげて。昨夜頭痛で眠れなかったっておっしゃってたから」
 当然のように言った。きっと、これまで何度もあったシチュエーションなのだろう、これは。けれど綾野は、弘はともかくとして、八代が綾野の前で寝ているという現状が信じ難かった。
「ね。それはそうと綾ちゃん。サンタさん」
「ああ」
 目の前の弘はなんだかわくわくしている。
 綾野は罪悪感と、やるせなさに襲われる。
「別に。ないよ」
 冷たい声だった。
 そのことに綾野は傷つく。どうしてこんなに冷たいのだろうと思う。もっと言葉は他にあるはずだ。弘がいつも使っているような、ほんのりとぬくもったやわらかな毛布のようなやさしい言葉が。
「……綾ちゃん。サンタさんがくれるのは、ものじゃないよ」
 テーブルに(あご)がつくほど上体を(かが)めて、鳶色(とびいろ)の大きな瞳が綾野の黒い瞳を上目遣いに見つめていた。自分が(うつむ)いていたことに気付いて、綾野は恥ずかしくなる。自分はいつもこうだ。つらいと俯いて。苦しいと俯いて。逃げたいと俯いて。下を向けば、目の前にある嫌なものを見ずにすむから。
 (おもて)を上げられないままの綾野に向かい、弘はにっこりと笑う。綾野は耐えきれずに吐き出した。
「サンタクロースなんていない。一回も来てくれたことなんかないもの」
 サンタさんは良い子のところに来てくれるんだよ、と聞いたことがある。
 クリスマス・イヴの夜、枕もとにプレゼントを置いてくれるのだと。
 赤い鼻のトナカイを先頭にした(そり)に乗り、世界中の子どもたちにプレゼントを届けるというのだ。
 ――でも、あたしのところには。
「俺もサンタクロースにプレゼント貰ったことないなあ」
 突然の声に、綾野は驚いて首をめぐらせた。いつの間にか、寝転んでいる姿勢はそのままに、八代がぼんやりと硝子張(がらすば)りの天井を見上げている。
 弘は動じることなく、おはようございます、ご気分はいかがですかと問うた。八代は喉の奥でくぐもった音を発しただけで、再び目を閉じる。それでも弘は気分を害した様子もなく、まだ休んでいてくださって大丈夫ですよ、と(ささや)くように言った。寝ぐずりする子どもをあやす母親のような、甘やかな声音で。
「サンタさんはいるよ」
「いない。見たことないし」
「わたしも見たことはないよ」
「それでなんでいるって言えるのよ」
「プレゼントを貰ってるからだよ」
「あたしは貰ったことない」
「俺もなーい」
「気付かないとわからないんです」
「そもそも一晩で世界中回れるわけないし」
「その夜だけは、サンタさんがプレゼントを配り終わるまでお日様が待ってくれるんだよ。だからイブの夜は長いの」
柘植(つげ)サンそれ新手の頓智(とんち)?」
 濃い茶の髪と、鳶色の瞳の魔法使いは、明るく笑った。
 この頃にはもう、八代も綾野も、弘が魔法使いであることを知っていた。
「なんの難しいこともない、ただのほんとのことです。証明できます」
 言い切った。
 八代と綾野はそれぞれに、口には出さなかったけれども、既に信じていた。
 サンタクロースではなく、弘と、彼女の魔法を。
「今年のクリスマス、綾ちゃんも久我(くが)先輩も楽しみにしててくださいね。サンタさんからプレゼントが届きますから! サンタさんはほんとにいますから!」
 そして。
 クリスマス・イヴの早朝。自宅の郵便受けにエアメールが入っているのを綾野は見つけた。
 スウェーデンからだった。
 もちろん心当たりはない。(いぶか)りながらも封を切ると、中にはカードが一枚。
 綾野は泣いた。
 弘に今すぐ逢いたかった。抱き締めたかった。
 ――こんな。こんなの。
 あんたの目に映る世界は、どれほど綺麗なの。
 どれほどやさしいの。
 どうしてあんたは神様じゃないの。
 あんたが神様なら、あたしはこんなに苦しくなかった。
 同居している両親からは、メリークリスマス、の一言すらなかったのに。綾野自身ですら、もう期待していなかったのに。わかっている、長い年月をかけて深まった溝は容易には埋まらない。それでも寂しかった。そんな自分がかなしいとはじめて思ったのは、弘や弘の世界を知ったからだ。触れたからだ。
 どうしようもない恋しさと、耐え難い孤独から、綾野は弘に電話をかけた。弘の声を聞いた途端に頭の中が真っ白になる。何を言えばいいんだろう。言いたいことならたくさんある、でも出てこない。
 弘が口火を切った。
 どこまでもやさしく。
「ハッピークリスマス! サンタさんからカード届いた?」
 どんな表情をしているのか、まるで見ているようにわかった。
「届いたよ」
 それだけ言うのが精一杯だった。
 うん。届いたよ。
 ちゃんとサンタさんから届いたよ。“I wish your Happiness.”って書いてある。
 言葉を探しあぐねて。綾野はまだ少し泣いていて。でも弘は気付かないふりをしてくれる。
「綾ちゃん嬉しい?」
「嬉しいよ」
 あなたが幸福でありますように、なんて。ずっと綺麗事だと思っていた。
 それが今は、こんなにも心に響く。
 聖夜に鐘が響き渡り、不思議な和音となって広がっていくように。
「それがサンタさんからのプレゼントだよ」
 綾野は口もとをてのひらで覆って嗚咽(おえつ)を抑え、思う。
 ――あんたが神様じゃなくてよかった。
「本当に大切なものは、いつも誰にも見えないし、誰にも触れられないんだって。見たり触れたりできたら、きっと不安なんてないのにね。――でも。でもね。……不安だからいろんなこと考えるし、誰かと一緒にいたりして。ほんとのほんとは大切なものはいつも(そば)にあって。気付かないとわからないけど、でも。綾ちゃんが苦しいときに下を向くのはきっと、足もとにお花が咲いてるかもしれないって心のどこかで思ってるからだよ。前や上しか見てなかったら、足もとの小さなお花には気付けないから……だからね、諦めないことができるのは、すごいよ」
 綾野がすぐに俯く癖を。それがつらいときや苦しいときに出るものだということを、弘は当たり前のように知っていた。口に出したとなど一度たりともないのに。それでいながら、否定もしない。
 あんたが神様じゃなくてよかったよ。
 あんたがもし神様だったら、抱き締めに行けない。
 どこへだって行けるよ、と弘は言った。綾ちゃんが行きたいところに、どこへだって行けるよ。
 だったら。
 あたし、今からあんたを抱き締めに行くわ。
 この手で幸福に触れに行くわ。
 この目で光を見に行くわ。





end.



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