コキュートスの蛇

 ソファに鞄を放り投げ、コートから器用に腕を抜いて、実にいい加減にその場所に落とす。いつも脱ぎ散らかしてあるから予想はしていたが、実際に見て鷹羽(たかは)唖然(あぜん)とした。大体にして彼は玄関を開けてすぐに靴を捨てた。捨てたとしか言いようがない。どうすればそんなに滑らかに足を抜けるのか、八代(やしろ)は靴をするりと脱いで当然(そろ)えず、一瞬も止まらずに部屋に上がっていった。
 信じられない。
 八代は立ち尽くす鷹羽になどまったく構わず、薄暗い室内をすいすい歩いていく。雑に学生服の(ぼたん)を外しながら。
 遮光(しゃこう)カーテンが引かれっ放しの、温度調節の異常な部屋。電気のスイッチも素通りして、八代は寝室に一直線だった。
「ちょっと……八代」
 根が真面目で、ものの管理が整然とできていないと落ち着かない鷹羽は、服を脱ぎ捨ててその場に放置したままというのが我慢ならない。八代の怠惰(たいだ)や不摂生を見るだに苛立(いらだ)って、何故こんなことで腹を立てる必要があるのかと自分にも腹が立つ。
 要するに――
 ――本当に、プラスになるものなどひとつもないのだ。
 それを確認するたびに茫漠(ぼうばく)とした思いに(とら)われる。暗いのか明るいのかもわからず、途方に暮れるしかないほど広く乾いた何もない場所そのもののような感情。何もないから、何も見えない。
 ――楽だ。考えなくていい。
 けれど、ともすれば叫びだしてしまいそうな不安と狂気が背中に張りついている。影のように離れてくれない。
 それなのに、――どうして(きびす)を返さないのだろう。
 ()()り込まれているわけではない。八代は平素と同じく鷹羽をぞんざいに扱って、恐らく平素と同じく自宅のマンションに帰ってきただけなのだ。帰ろうと思えば帰れる。監禁されているわけではない。そんなわかりやすいことを、あの男はしてくれない。
 鷹羽は既に、自身がどうして八代の自室の玄関に立っているのかがわからなくなっていた。扉を開く八代の背中を見ていたのだから、多分――認めたくはないが――ついてきたのだろう。何故ついてきたのだろうか。判然としない。ここまでどうやって歩いてきたのかもよく思い出せなかった。
 八代は、鷹羽から時間の感覚さえも奪う。
 茫洋(ぼうよう)としたまま靴を揃えてやり、捨ててあるコートを拾い上げていると、奥から声が放られてきた。
「早く上がって灰皿持ってきて。ベッドが焦げる」
「煙草はやめろ!」
 怒鳴った声の大きさに自分で驚いた。苛々(いらいら)しながら廊下を進み、リビングにあった灰皿を掴む。顔面めがけて投げつけてやりたい気分だった。
「いい加減にしろ、煙草はやめろって言ってるだろう!」
「俺の制服踏まないで」
 ぶち破りそうな勢いで開けた寝室のドアの足もとに、とぐろをまいたような学生服が落ちていた。(わず)かだが確かに踏んでいる。黒い蛇のようだ。今にも巻きついてきそうな。
「灰皿」
 当然のように言ってくる八代はとうにベッドの上で煙草を(くわ)えていた。いつものようにシャツを肌蹴(はだけ)て、素足になった片膝を立てて紫煙をくゆらせている。鷹羽に一瞥(いちべつ)をくれることもなく、再度、灰皿、と繰り返した。
「……焦げるのが困るならやめればいいだろう」
 まただ。
 何かせり上がってくる。
 抑制し難い、言葉にならない何か。呼吸が乱れるほど激しいのに、それがなんなのかわからない。
 ――一過性のものだと信じたい。
 八代のだらしない一挙手一投足に苛立っているだけだ。
 部屋が暗く、温度もおかしくて季節も時間帯すらもわからない、(おり)に入れられたような閉塞感(へいそくかん)と恐怖に平静を失いかけているだけだ。ここでは陰影もよくわからない。仄暗(ほのぐら)(まと)わりついてくる闇にも、混沌(こんとん)と呼べる純粋さは(ちり)ほどもない。
 あるのはひたすらな混濁(こんだく)
 それしかないとも言える。聴こえてくるのはノイズばかりで、鼓膜が引き裂かれそうだった。
 誤魔化(ごまか)したくて灰皿を放る。目測など存在もなかったが、どうやらベッドの上には載ったらしい。少なくとも、絨毯(じゅうたん)に落ちる音はしなかった。
「具合悪いの」
 心配するふりの言葉に顔を上げる。八代はやはり鷹羽を視界に入れてすらいない。退屈そうに灰皿に煙草を押しつけていた。
「……ほっといてくれ」
 一度固く目を(つむ)って、手探りで足もとにあるはずの八代の学生服を拾う。深呼吸のような息をつくのが苦い。
「制服は」
「脱いだらハンガーにかけろ?」
 ふ、と吐息だけで(わら)う声が耳を撫でた。
「わかってるなら、……っ」
「そんなのどうでもいいから、遊んでよ」
 腹立ちまぎれにまた怒鳴ってやろうと思ったら、いつの間にか背後に来ていた八代に手首を掴まれた。持っていた制服が滑り落ちる。闇のようだ。落下していくのに反比例して、(くら)いものが指先を伝って()()がってくる。
 蛇のようだ。
 (ひそ)やかで断続的な雑音に生息する、混濁を()む冷たい生き物。情報で攪乱(かくらん)し知識で籠絡(ろうらく)させようとするそれは、いちばん古い生き物だった。
 ぎり、と締めつけられて眉を(ひそ)める。
「放せ。痛い」
「遊んでくれるなら放してあげる」
「何様のつもりだ。冗談はやめろ」
 手をふり払ったら、今度は腕を捕らえられた。先ほどより強く掴まれ、引き寄せられる。
 ――駄目だ。
 思い出してしまう。
 ――嫌だ。
 駄目なのだ。足が(すく)んだら、鷹羽はもう動けない。視線を合わせたら取り込まれてしまう。身体が震えだしたら、――口先の抵抗すらできなくなる。
 鷹羽はまるで()びついた発条(ぜんまい)仕掛けの人形のようにぎこちなく顔を背けた。眼を閉じて(うつむ)く。何も見たくなかった。
 ――見てしまったら、逆らえなくなる。
「……やめてくれ……頼むから……っ」
 発せられた声の弱々しさで、すでに膝を折ってしまっていることを思い知った。とっくに怯えてしまっている。ふうん、とつまらなさそうに八代が目を(すが)める。
「じゃあ何しに来たの」
 言われた瞬間、なんの前兆もなしに激しく()(かえ)った。突如として無理矢理に水に沈められたかのようだった。酸素を求めて、
 ――たったひとりの甘いひとを想ってもがいた。
 呼吸の仕方を忘れたのか。思い出したくもないあんなことは憶えているのに。
 八代は慌てることもなく、嘔吐(おうと)しそうな(せき)を繰り返す鷹羽を眺めていた。
 咳が治まりはじめたら崩れ落ちそうになって、ようやく腕を解放された。無意識に喉と口もとを押さえにかかった身体を、力任せに突き飛ばされる。
 息が止まる。
 誰も助けてくれない。
 鷹羽も鷹羽自身を助けようとしない。
 強い力で肩を押さえつけられ、ベッドに投げられたのだと気づいた。なおも咳き込みながら、
 ――震えてしまった。
 なんの表情もなく冷徹に見下ろす八代の瞳を、見てしまった。
 戦慄(せんりつ)する。指先から、つま先から冷えて凍っていく。自分はこれから限りなく卑怯になる。
 やわらかい手に触れて、繋いで帰ったのは昨日のことなのに。何もないところで(つまず)いてずれてしまった彼女の眼鏡を、笑いながらかけ直してあげたのはたった数時間前のことなのに。
 明るい、あたたかい場所にいる選択肢を持っているのに、選び取らない。
「帰ればよかったのにね」
 薄く嗤う八代の睥睨(へいげい)は見慣れたもので、それが一層鷹羽を追い込む。肩にある手にさらに力が込められ、爪が喰い込むほど掴まれ締め上げられる。
「……いやだ……っ」
 痛いとは思わなかった。
 恐怖だけだ。
 自己嫌悪に目がくらむ。
「そんなに嫌なら帰ればよかったんだよ。今日は俺はなんの強制もしてないよ」
「違う……僕は何も……」
 自分自身ですら理解できていない感情を説明出来るはずがない。理解できていたとしても、八代を説き伏せて黙らせるなど無理に決まっていた。狡猾(こうかつ)で残忍なのだ。
 彼の心は動かない。何を言っても届かない。()(にじ)られて終わるだけ。
 八代の領域に踏み込んだ途端、弘も、彼女からもらった言葉も安堵も、すべてが真の黒に塗り潰されていく。
「まだなんにもしてないんだけどなあ。そんなに泣かれても。今日は機嫌がいいからやさしくしてあげようか」
「嫌だっ」
「それは何に対しての嫌? したくてたまらないことはあっても、できない日なんてないでしょ。女の子じゃあるまいし」
 何もしてほしくない、触るな、と言うより早く、八代に(あご)を捕らえられた。鷹羽を映してもくれない黒瞳に深く覗き込まれる。
 ――嫌だ。
 あらゆる醜いものが引き摺り出されて(さら)される。
 気まぐれに引っ掛けた獲物を(なぶ)る関心のなさと残酷さで、八代が(あざけ)った。
「それとも、女の子扱いしてほしい?」
 思いきったつもりだった。
 けれど実際は、力はまったく入っていなかった。自由に動かせられる片腕、容赦なく殴ったつもりだったのに、脆弱(ぜいじゃく)な衝撃は八代の眼鏡をほんの少しずらした程度だった。拳を握ってもいないのだ。愕然(がくぜん)とする。
 あんな侮辱を受けて、その反発が非力な平手打ち。その上、八代に責められる理由を自ら作ってしまった。
 蛇が()(のぼ)ってくる。
 禁断の木の実は既に落ちた。
「――やってくれるね」
 眼鏡を外しながら言った八代の声に、全身が粟立(あわだ)つ。
 冷たい微笑だ。
 氷の方がずっとやさしい。





end.



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