紅茶に落とされた角砂糖の運命

 五月の下旬に梅雨入りが宣言されてからというもの、晴れ間は三日と持ったためしがない。風は強いが気候は温暖で、常春の国と呼ばれるこの地域は梅雨に入れば雨が多い。本当に多い。
 つまり八代(やしろ)にとっては地獄の日々が続く。
 園芸部でさえなければ、園芸に楽しみを見出してさえいなければ、正直学校はサボり倒しているところだ。
 だが哀しいかな、八代は園芸は好きで園芸部であることを苦痛に感じたこともないのだった。
 好き、と言える数少ないもののひとつで、真面目に取り組める数少ないもののひとつだ。
 だからつらい。園芸部に暇などない。梅雨は湿気が多いから、病気が心配に過ぎる。なのに偏頭痛はひどくて、いつもいつも眠いような気がして意識がはっきりせず、身体が重くて仕方がない。
 この重さは外の湿気を過剰に吸ってしまっているからだ。絶対そうだ。とにかく疲れて何もかもが面倒くさい。
 これまではそれだけでよかった。学校に辿(たど)()けさえすれば誰にも邪魔されず温室で眠れるし、仕事も出来る。それだけで生活を回していけた。難しいと思ったことはない。
 でも今は、どうして簡単だったのかすら思い出せないでいる。
 原因が明らかすぎて恥ずかしい。八代に、恥ずかしい、と思わせられる人物は今のところひとりだけだ。
 ――柘植(つげ)サン今頃何してるんだろう。
 リビングの絨毯(じゅうたん)にだらしなく脚を投げ出して、ぐったりとソファを背凭(せもた)れにしている八代は横目でちらりと壁掛け時計を見遣った。
 濃い茶のやわらかい癖っ毛の、鳶色(とびいろ)の瞳の、学業に関しては抜群なのにその他の能力が欠如と言って差し支えないほどに抜けている後輩のことを考える。
 後輩、というよりも。
 ――今の関係は何なんだろう……婚約者?
 (ひろむ)にプロポーズされて、八代も八代で受けたので、そうなるのだろうなとは思う。恋人という過程ははじめから完全に抜け落ちている。弘の両親も大歓迎状態で、八代としては信じられない。それでいいのか。成人してもいないかわいい一人娘が、成人してもいないこんなろくでなしと結婚すると言っているのに、それでいいのか。止めた方がいいのではないだろうか。
 ――婚約者なんて言ったって、そんなの建前だ。
 弘が本気なのは知っている。八代だって疑っているわけではないし、拒絶の気も起こらない。ただ、現時点では社会的にも世間的にもたいした影響力はないだろうと思っているだけだ。
「……あー……」
 がくん、と上を向いて、無意味な声を発した。
 弘や彼女の両親のことと、世話している植物のことなんかが混然として収拾がつかない。これだから梅雨は嫌いだ。
 休日でも当然のようにある部活動だけれど、連日の雨による偏頭痛とそれに伴う疲労のせいで、どうにもこうにも身体が動かなかった。動けなかったから休んで、八代はただだらだらと時間が(つぶ)れていくのを傍観している。
 ――弘がいるから、甘えたのだと思う。
 確かに部員は入った。ひとりだけとはいえ新入部員に恵まれて、しかもかなりの有望株だ。園芸に関してまったくの初心者ではない。それでも引き継ぎをしなければならないのが現実で、そうなると彼女がいなければ八代しかいないのだから、休むわけにはいかない。なんでこんなに真面目に取り組んでるんだろうな、それさえなければもっとだらだらできるのに。そう考える一方で、
 ――まさかアレやらコレやらの剪定(せんてい)なんかはしてないと思うけど……。
 とか思考を巡らせていたりもする。弘は勝手な自己判断で余計な行動をとることをしないので、そういう部分では安心だ。だが如何(いかん)せんトロいので別の心配事は山とある。帰り道、雨で濡れた道路で滑って転んで額を割っている想像をしても、冗談にならなくて笑えない。
 ――ちゃんと帰ったかなあ……五体満足で。
 昼下がりには遅いが、夕方にはまだ早い時刻だ。中途半端な時間だ。閉めている遮光カーテンの隙間から(のぞ)く空は鈍色(にびいろ)で、雨は細い。朝よりずいぶんいい。仄白(ほのじろ)い部分もあるから、久しぶりに天候が回復するかもしれない。
 頭痛いのも大分よくなってきたし、と思いながら、眼鏡を外して目頭を()んだ。
 電話の一本も入れてやりたいところだが、弘は携帯電話を持っていない。このご時世に。かく言う八代も実は持っていない。必要ないからだ。嫌いでもある。下手に所持していて、(とき)ところ構わず他人に自分の時間を(さえぎ)られたり、行動を把握(はあく)されたくない。
 でも弘のことは心配で、――そんな弘のおかげで八代の思考と生活は乱れに乱れまくっていた。
 規則正しく栄養のある料理を食べて、右から左とはいえそれなりに授業に出て部活だけは真面目にやって、惰眠(だみん)(むさぼ)ることはせずにきちんと眠る。しかも部屋が片付いている。
 ありえない。
 こんなに乱れた正しい生活があるだろうか。そんな馬鹿な。
 それもこれも全部弘のせいだ。
 「衣服やお部屋の乱れは心の乱れです。怠惰(たいだ)な生活になってしまいますよ、健康によくありません」とか言って、弘が叱るから。
 「冷蔵庫にお水しかないなんてどういうことですか! 保存食もないなんて! お水とお陽様だけでいいなんて、いつからお花だったのですか!」とか言って、弘が怒るから。
 ……きちんと食事を取ったあとに、ぎこちなくでも「ご馳走様でした」と言うと、嬉しそうに笑うから。
 だから全部弘が悪い。叱るだけ叱って突き放すくせに、抱き締めてキスをしておなかいっぱいになるまで甘やかしてくるから。
 ――なんだか嫌になってきた。恥ずかしい。弘はずるい。無防備な笑顔で八代の邪心をすべて綺麗に溶かしてしまう。
 ――ずるい。
 耳朶(みみたぶ)が熱い。何の対象もなしに漠然と、もう嫌だと思う。弘のことを思い出すだに自分のすべてが恥ずかしくて、帳消しにしたい。思い出したくない。だから、思い出す必要がない状況であればいいのにと思う。早い話が(そば)にいてしい。でも、思い出したくないから傍にいてほしいのか、単純に傍にいてほしいのかがわからなかった。
「……?」
 気がつかないまま、真剣に考えていた。
 身体を起こして胡坐(あぐら)をかいて、膝を台にして右手でくちもとを覆っている。右手でくちもとを覆う、これは本気で考えているときの癖だ。八代自身は気づいていない。この状態にある八代は外ではほとんど見られないから、知っているものもいない。
 不意に玄関のチャイムが鳴って、
「……ああ」
 一拍あとに反応した。
 誰だろう面倒くさいなあ……鷹羽(たかは)だったら無視しよう、などといい加減なことを考えていたのだけれども――
 ――喜ぶべきか、哀しむべきか。
 訪ねてきたのは弘だった。
 キッチンに立って手際よく茶を()れている弘の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、なんでこのタイミングなんだろう、とどうしようもないことを考えていた。
 嬉しいような、――今は会いたくなかったような。
 これについては弘の両親がどうかしていると思う。特に母親が。
 ――どうしても無理ならそれでもいいのよ。誰にも入って欲しくない場所は物理的にも心理的にも何らかのものがあるのは当然だから。……でも、努力をするなら――そうね。君の場合縄張りに入られても大丈夫かどうかの見極めでかなりのとっかかりになるんじゃないかしら。
 黙ってさえいれば文句のつけようのない大和撫子はそう言ってたおやかに微笑んだ。弘さんを傷つけるかも知れません、と言ったら、弘を見縊(みくび)らないでと返された。
 弘は泣き寝入りをする人間ではないのだ。そして、愛情や信頼を疑わない分、慧眼(けいがん)も持ち合わせている。
 いつもはこれ以上なく鈍くさい弘は、キッチンではきりきり迷いなく動く。手元が狂うこともない。ひとの好みを覚えるのも早く、綾野(あやの)用と八代用の卵焼きはほんの少しだけ塩加減が違う。全部同じでいいのに、きちんと作り分けてくれる。そんなこと気にしなくていいのに。
 いつもならふわふわした髪が、しっとりと濡れていることに今さらながらに気づいた。傍まで寄っていくと、後ろ髪をつんと引く。
「もう少しでお湯が沸きますから。すぐに熱いお茶をお淹れしますから、もう少しだけお待ちくださいね」
 ふり向いて、微笑んで言う。案の定勘違いしている。
 多分、普通なら八代が茶を淹れる立場だろう。それでも弘は文句を言わず、きっと本当に最初からそんなものは心にない。
 どうしてこんなに出来ているのだろう。もっと(けな)せる部分があればいいのに。大嫌いだとか、許せないとか、そういう部分があればいいのに。
 思い当たらないからもどかしくて、届かないから哀しくなる。
「……あとでいいよ」
 (つぶや)くように言うと、再びふり向いた弘がきょとんとした。
「おなかいっぱいですか? ――あ、お抹茶ですか……紅茶?」
 ひとりで考えはじめた弘の頬に、てのひらを当ててみた。
「冷たい」
「あ、はい。今日は少し冷え込みましたから。先ほど雨足が弱まって、それで――ええっ」
 ぐい、と腕を引っ張った。反対側の腕を伸ばして火を消し、そのまま弘を連れてリビングに戻る。ほんの少し前までそうしていたように、絨毯の上に座った。
 弘はわけがわからないようで、おとなしくついてきたものの立ったままだ。思案しているらしい。
「ここ。座って」
「え、」
「座って」
「う……」
 脚の間を指差すと、冷たいという言葉そのまま白かった頬を少しだけ染めた。
 困ったように眉尻を下げて、(わず)かに(うつむ)かせた視線を彷徨(さまよ)わせる。
 ――困らせるのは簡単なんだけどなあ……。
 色々なことが、色々と難しい。
 座って、と三度(みたび)言うと、観念したらしい弘が「失礼します」と小さな声で応じた。向き合ってはいるものの、少し離れた場所にちょこんと正座する。
「……もっと、傍に来てくれないの?」
「うう……あの、……あ、」
 唐突に恥じらいを引っ込めて、ぱっと(おもて)を上げた。
「何?」
 突飛(とっぴ)すぎて八代が驚く。
「頭痛はもう大丈夫ですか? 今夜からお天気が少しよくなるそうですよ」
「あ、……ああ……頭痛ね」
 忘れていた。
 それを心配してやってきたのか。
 気遣ってくれたのは嬉しいが、純粋に会いたくて会いにきたわけではないのだと知ると少しだけ腹が立つ。幼稚なのは百も承知だ。――きらいなところはあった。
 肝心なところで鈍感だ。
「もう治ったよ。柘植サンが来る少し前に。ひと眠りしようかと思ってたところだった」
「えっ」
 腹が立ったし頭痛が治っていたのも本当だったので、いじめることにした。
「そしたら柘植サンが来た」
「も、申し訳ありません。お邪魔してしまって」
 たちまちしゅんと項垂(うなだ)れる。馬鹿だなあ。喰ってかかればいいのに素直に謝って。
「でも、」
「ん?」
 俯いた弘が、ちら、と視線だけを上向かせて八代を(うかが)った。言い訳をするのだろうか。珍しい。
「……心配……だった、ので……」
 伺ってしまいました、と続け、重ねて謝ってきた。
 この子はどうしてほしいのだろうかと考えだすと果てしなく謎だ。他人を喜ばせるためだけに生きているのだろうか。理解に苦しむ。八代にはできない。
「ぅゅわっ」
 弘の悲鳴は相変わらず変だ。あらゆる意味で筆舌に尽くしがたい。
 無理矢理引き寄せて姿勢を崩させて、行儀よく揃えられた膝の下に手を入れると横抱きにした。いつも思うのだがやっぱり軽い。それに細い。折れたらどうしよう。
 抱き寄せた身体は冷たかった。熱い茶の準備をしていたのに、握ってみた手も冷えている。少しだけ湿り気を帯びて、けれど内側からほんのりとあたたまってきているのがわかった。
 照れて恐縮して身を小さくしている弘が、「あの、」と何かを言いかけたが、抱き締めると黙った。
 はじめて意識が外に向いた。
 雨の音。
 途絶えることもない、声でも音色でもなく不規則な筈なのに、雑音ではない。銀の滴が繊細に連なって糸になり、景色をひんやり煙らせている。
 室内が、少し暗い。
 壁に掛かっている時計の秒針の音が規則正しく鳴っている。
 晴れている日の温室の静けさとは異なる無音だ。なんというのだろう。不思議な感覚だった。
 外は雨で、低気圧は苦手だから不快なはずだ。それなのに八代を悩ませる偏頭痛はなく、微かな雨音や薄暮(はくぼ)そのもののような部屋の明暗、――ほんの少しの、水の匂い。
 ――なんだか、眠たい。
 いじめようと思ったのに言葉が出てこなくて、探す気にもならなかった。弘は黙って八代に横抱きにされたまま、じっと下を向いている。そのことに気がついて、なんとはなしに声をかけようとしたら、
「んんっ」
 がくんっ、と頭が落ちた。
 我に返ったらしい弘が両手で眼鏡を直しながら、慌てて首を起こす。小さな声で、びっくりした、と言ったのが聞こえて、思わず笑ってしまった。
「眠いの?」
「あ……いえ、大丈夫です。お茶、お淹れします」
「逃げようと思ってるなら甘いよ」
 う、と詰まった。
「寝ちゃったら、ご迷惑です……あっ眼鏡っ」
 するりと眼鏡を抜き取ってやった。裸眼視力の低い彼女は、眼鏡を取り上げられると本気でうろたえる。心底困ることを知っているから滅多にやらないが、やると楽しくて仕方がない。返してください、と心細い声を上げる弘の頭を胸に抱き寄せた。
「寝ていいよ」
「だめです。いけません」
「いいよ。五時になったら起こしてあげる」
「で、でも」
「眼鏡、五時まで返してあげないよ」
「困ります」
「寝れば困らない。――ああ、……俺も眠くなってきた」
 うん、と(わず)かに身体を伸ばして深い息をつく。抱いている弘があたたかくて心地いい。嘘ではなくて眠い。
 髪をやさしく()いて、あたたまってきている耳や頬をくすぐるように撫でてやる。雨音だけが連れてこられる静かな時間はすぐに降りてきて、普段余計なほどに回って八代を縛る思考や言葉が、音を立てることなく外側からゆっくりと溶かされていく。
 さっきも思った。――何かに似ている、感覚。
 しんと過ぎていく(うる)んだ時間。
 とろとろと蜂蜜(はちみつ)がとろけ落ちていくような。
「……ねむいのって、あまいのに、似ています、ね……」
 しばらくして、うとうとと舟を()ぎだした弘が呟いた。はっきりと発音できていない。(まぶた)はもうほとんど閉じていて、完全に寝る態勢に入ってしまっている。睡眠欲には弱いんだな、と思いつつ、(あご)を指先で辿って撫でた。弘の肌はいつもふっくらとやわらかく、シェアバターのように白くて、八代の手にひどく甘い。
 ――ああ。甘いのか。
 身体をゆったりと取り巻く、何かの余韻(よいん)のように明瞭(めいりょう)にならない感覚の形容詞を得て、力が抜けた。
 確かに甘い。
 綺麗な色のあたたかい紅茶に落とされた角砂糖が、ゆるゆると角を奪われてやがて溶けきってしまう、あの甘やかさ。
 最後の抵抗のように、弘が幼子(おさなご)の仕草で目を(こす)る。
「あったかくて……」
 ――紅茶に落とされてしまったら。
 ことん、と八代の肩に重みがかかった。まどろんで甘い、小さな声が消えていく。
「……とけちゃいそうです……」
 角砂糖の運命なんて、誰にも変えられないのだ。
「いいよ」
 小さく笑って、華奢(きゃしゃ)な身体を抱き直す。眼鏡を外し、八代も仮眠の姿勢をとると、淡くぬくもった耳もとに(ささや)いた。
「溶けてみせて」





end.



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