これからきらきら

 誕生日プレゼントをもらったとき、残念ながらふたりの関係は良好とはいえなかった。綾野(あやの)は怯えていたし、(ひろむ)は迷っていた。それでも綾野は伊織(いおり)に手伝ってもらって、弘への返礼品、レースのりぼんが巻かれた麦藁(むぎわら)帽子を彼女に贈った。
 後々から冷静になって考えてみると、誕生日プレゼントに返礼品を贈るのはおかしい。
 だから、やはり綾野は色々なものに脅迫されていたのだろう。
「今日も暑かったね、綾ちゃん」
 蒸し風呂のように暑い更衣室で、弘が火照(ほて)った(ほほ)で微笑む。
「死にそう」
 げっそりと応じて、綾野は身体を包んだタオルの下で水着を脱いだ。
 四時間目に水泳の授業だなんて、生徒を殺しにかかっているのだろうか。綾野は基礎体温や血圧が低く、血糖値も低め、つまり弘のようにいつも元気いっぱいという身体ではないから、夏場は体育が(こと)さらに(こた)える。
 今日も綾野にとっては致死的な絶好のプール日和だった。おかげで狭い更衣室は温度が急上昇、そんな中に、プールの水気と汗のにおい、女の子たちの笑い声が満ちている。
 成花(せいか)第一高校では、プールの授業があるのは一年生時のみだ。とてもありがたい。今日のような真夏の健全な水浴が三年間続くなど、考えただけで保健室に運ばれてしまいそうになる。
 行きたくなる、のではなく。
 運ばれてしまいそうになる。
()じれてる」
「あ、ありがとう」
 着替え中の弘のブラジャーの(ひも)がくるりと回転しているのを見つけて、綾野は少し引っ張って直した。ついでに、一度()めたのだろうに外れてしまっているホックも留める。
 弘は小柄で華奢(きゃしゃ)な身体つきのわりに、少し不釣り合いにも見えるほど豊かな胸をしている。大きすぎるとはいわないが、彼女はそれをコンプレックスにしているようだった。
 弘といえば自己肯定感の(かたまり)で、コンプレックスなど対岸の火事のようなものだろうと思っていたのだが、どうしてどうして、彼女も人並みに悩みはあるらしい。
「ごめんね綾ちゃん、もう少しだから」
「慌てなくていいから。慌てると時間が割り増しになるから、落ち着いて着替えて。誰も()かさないから」
 タオルに水着を包み、バッグに入れながら言う。弘は素直に(うなず)いた。
「ありがとう」
 今日に限ったことではないが、弘は相変わらずもたもたと鈍くさい。これを見ていて腹が立たない自分が不思議だった。綾野は短気なわけではないが、気が長い方でもない。
 もしもこれが恋なら、恐らく
 ()れた弱み。
 ――っていうの?
 疑問だ。惚れた弱みというのは、こう――なんというか、どうしても怒れないとか許してしまうとか強いことを言えないとかどんな顔もかわいいと思うとか何を着てもかわいいと思うとか何をしていてもかわいいと思うとか、
 綾野は少し陽灼(ひや)けしている弘の小さな背中を見ながら、心中で首を斜めにした。
 ――惚れてしまえば痘痕(あばた)笑窪(えくぼ)
 同じようなものだ。
 それに一応、綾野は弘に恋をしているわけではない。
 とてもとても近い感情ではあるけれど、もしかしたらひとはこれを恋と呼ぶのかもしれないけれど、
 ――ほんとうは、恋と呼ぶしかないことも、とっくにわかっているのだけれど。
 でも、これは恋ではないと思う。
 もっと別のものなのだ。
 もっと何か、言葉にならないものなのだ。



 四時間目に水泳がある曜日、誰にとっても五時間目はお昼寝の時間だ。
「寝ーるーなー」
「ぁぃてっ」
 突っ伏している生徒多数の机を()って歩く古典の教師が、熟睡している生徒を狙い打って、後頭部を教科書でぱんと(はた)いていく。
 紺碧(こんぺき)の空と入道雲、プールの水飛沫(しぶき)に目を細めていた生徒たちからすれば、満腹になり、薄暗く、しかもちょうどよく風が入ってくる午後など、寝るという選択肢しか持ち合わせていない。
 でも、綾野はそうはいかなかった。
 古典の授業に気を入れているからではない。
 昼休みに受けた衝撃が尾を引いているのだ。寝るどころの話ではなかった。
 シャーペンを握りしめていることに気づいて、綾野は気合いを入れて力を抜くという至難の技をやってのけた。
 弁当を広げながらの会話だった。
 ――綾ちゃん、今月の第四土曜、日曜日って何か予定が入ってる?
 ――何もないけど。何かあるの?
 ――夜店! 土曜日か日曜日のどっちかに、よかったら一緒に行かない?
 あのうれしそうな笑顔といったら。
 なんの屈託(くったく)もない、まあ早い話がいつもの弘の笑顔なわけだが、綾野はそれを見て、ものすごく嫌な予感がした。
 そう。
 綾野は弘に誕生日プレゼントをもらっているのだ。
 (あい)地に白の撫子(なでしこ)模様の浴衣を。
 いや、浴衣を着るのが嫌とは言わない。言わないとも。けれども、羞恥心(しゅうちしん)となると話は別だ。
 夏の夜店ときて、綾野は弘が贈ってくれた浴衣を持っている。着ていかないなんて、失礼千万もいいところではないか。何かのっぴきならない事情があるのでもない限り、避けようがない。
 そして、既に綾野に退路はない。「予定は何もない」と言ってしまったからだ。これがなければ「その日もう予定が入ってて」と誤魔化(ごまか)せるが、そうは問屋が(おろ)してくれないことになってしまっている。
 綾野は対弘戦となると、途端に()が悪くなる。頭が働かなくなるのだ。このときも案の定、浴衣を避けられる言い訳を思いつかなかった。夜店を断る理由も思いつかない。
 ――夜店っていうくらいだから、夕方から?
 ――うん。夕方六時から。鷹羽(たかは)くんはお友だちと一緒、伊織ちゃんはお祖父(じい)様と一緒、(つぎ)ちゃんは籠城(ろうじょう)久我(くが)先輩も籠城。
 籠城。つまり来ないと。
 理由は恐らく、暑い、人ごみはきらい、面倒くさい、そんなところだろう。次子(つぎこ)はそれでもなんだかんだで付き合いがいいのだが、何事にも腰が上がらない場面というのはある。八代(やしろ)に至っては想像するまでもなく、まるで見てきたかのように鮮明に、弘の誘いを断る姿が脳裏に浮かんだ。
 弘はにこにこしている。
 わかっている。
 断っても、彼女は気分を害しはしない。そういう場所が苦手なのだと言えば、なんの含みもなく受け入れてくれるだろう。
 確かに、場所としては苦手なのだ。
 今まで夜店など見に出たことはないが、覚束(おぼつか)ないなりに想像はできる。
 きっと混雑しているだろう。
 暑いだろう。
 (にぎ)やかに違いない。
 綾野が苦手とするものが(そろ)い踏みだ。
 それでも。
 ――もらった浴衣、着ていくんでいい?
 (ささや)くような小声で、しかも(うつむ)いてしまった。自分がどんな顔をしているのかわからない。
 少し残念に思い、(わず)かばかりの後悔さえしたのは、弘が心底うれしそうに「着てくれるの? わぁ、うれしい。ありがとう!」と言ったからだ。どんな笑顔だっただろう。見てから俯けばよかった。
 ――着方がわからないんだけど。
 ――大丈夫、わたしの家に来て。母が着つけてくれるから。
 ――五時に行けば間に合う?
 ――余裕があるよ。一旦櫛引(くしびき)公園で待ち合わせするの、どう? 迎えにいくから。楽しみだね、綾ちゃん!
 綾野はペンをノートの上に転がすと、大きな溜息(ためいき)をついて両指を組み合わせ、そこに(ひたい)をつけた。
「寝ーるーなー」
 ぱん、と頭を叩かれた。
 そのとき、綾野は墓穴を掘ったことに気がついた。
 弘は浴衣のことなど一言も口にしていない。だから、綾野が自分から話題に出さなければ、きっと彼女は察してくれただろう。
 後悔は先に立たない。



 真夏の四時台など、太陽光はまだ燦燦(さんさん)と降り注いでいる。この天気なら、きっと夜店にふさわしい夜になるだろう。
 白い雲が淡いピンクや金色に変わって、空はだんだんと赤くなって、そうしたら今度は群青(ぐんじょう)になって藍に()みていく。星が(またた)きはじめる。
 夏の夜と、弘からもらった浴衣、より藍色なのはどちらだろう。
「お待たせ……」
 元気のない声になってしまったのは、浴衣に戸惑っているからではない。単純に疲労からだ。ぴーかん照りの真夏日が暑くて、いつかの――というよりも、毎度の水泳の日のように、死にそうになっていた。
 櫛引公園は目印にしやすい。夏に入ればアイスクリームワゴンなんかもとまっていたりする、春には桜が美しい大きな公園だった。今はもちろん緑の盛りで、(せみ)がじゃーじゃー滝のような勢いで鳴いている。
 木陰のベンチに座っていた弘は立ち上がって綾野を迎え、赤い頬でにっこりと笑った。
「全然待ってないよ」
 嘘つけ、手にしているアイスクリームカップとスプーンはなんだ。
「綾ちゃん、今日もかっこいいね」
「いつもと同じよ」
「美人さんは何着ても似合うねえ」
 伊織に言わせると、弘は衣服に頓着(とんちゃく)していないらしい。礼儀正しく、が大切で、『お洒落(しゃれ)』の三文字は彼女の頭の中にはないらしかった。だから、弘の格好はいつも代わり映えしない。(えり)の詰まった、身体のラインがわからないワンピースばかりだ。
 とはいえ、身体のラインが出ない服を選ぶ理由は察して余りあるものがあるので、そういう選択にもなるかな、とは思う。これもやはり伊織に言わせると、
 ――弘君は足のかたちがきれいなんだから、ミニスカート結構いいと思うんだけど。
 綾野はそれを聞いたとき、天地がひっくり返る危機でもなければ無理だろうな、と思った。弘がミニスカートを()いているところなど、想像もつかない。
 綾野はといえば、シンプルな黒のトップスに、スキニーデニム。伊織の(げん)「次子みたいな恰好してないでよ! んもう、綾野、無頓着(むとんちゃく)過ぎ!」。ちなみにその後、「まあ似合ってるけど」と続いた。
「あんたは浴衣じゃないの?」
 肩から()げている紙袋を気にしながら、綾野は弘と歩き出した。弘は逃げるように小走りにアイスクリームワゴンに向かい、カップとスプーンを分別して捨てる。
「ねえ、弘」
 そそそっと戻ってきた弘を言葉で突っつく。弘はもごもごと言いにくそうに、それでも答えてはくれた。
「わたし、おきもの似合わないから」
「……そう?」
 きものなんて、色や柄さえ選べば可もなく不可もなくそれなりに似合うようになるのではないだろうか。
「母みたいな真っ黒な髪なら違ったかもしれないけど……あっ、今の色がきらいなわけじゃないの。父譲りで、これはこれで気に入ってるの。……せめて癖っ毛じゃなかったらなって思うことはあるけど」
 弘は父親似なのだ。ものすごく似ている。よく見てみれば、上瞼(うわまぶた)のラインや頬の丸みに母親の気配があるのがわかるけれど、全体的には明らかに父親寄りで、色素の薄さや癖っ毛の具合なんかは生き写しだった。
「肌の色白いんだから、いいんじゃないの?」
「そうかなあ……」
 どうにも納得がいかないふうだ。
 ――ちょっと待ってよ……。
 弘の隣で、綾野は眩暈(めまい)を起こしそうになった。勘弁(かんべん)してほしい。ひとりで浴衣着ろっていうの? 冗談じゃない。
 もちろん浴衣参加者は少なくない――と信じたいが、連れ立って歩くのに、自分だけが浴衣なんて恥ずかしくて(たま)らない。伊織がいないのが悔やまれてならなかった。



 玄関扉を開けたむこうには、弘の母、(みやび)が既に待機していた。(こん)総絞(そうしぼ)りの浴衣を着ている。想像が及ばないといえば、彼女の洋服姿もそうだ。
 雅は弘が(うらや)むのもわかるほど、きれいな黒髪をしている。瞳の色も濃いから、明るい場所で見ても黒いという印象を持つ。肌は白く整っていて、高校生の娘がいるなんて信じられない。
「ただいま、お母さん」
 無邪気な声で挨拶(あいさつ)した弘に、雅はやさしく微笑んだ。同じ微笑を綾野にも向ける。
 この微笑を見るたび、綾野は、ああ、ここでは自分は子どもでいていいのだと思う。
「おかえりなさい。いらっしゃい、綾ちゃん。暑かったでしょう。まずはお茶にしましょうか」
「ありがとうございます。……お邪魔します」
 ぺこりと頭を下げる。頭の中で袋の中身を確かめた。
 浴衣、帯、下駄。あとは、弘に(すす)めてもらった浴衣スリップ。ほかにも色々必要なものはあるらしいのだが、とりあえず下着はスリップ一枚あればどうとでもなるらしい。そのスリップでさえ、洋服仕様のものでも構わないというのだ。とりあえずせっかく買うなら、と綾野は浴衣用のものを購入した。礼装を除けば、
 ――きものは結構、手抜きしようと思えばいくらでも手抜きできるわよ。
 言及するまでもないが、雅談。
 腰紐(こしひも)伊達締(だてじ)めは貸してくれるとのことで、綾野は少し安心していた。何もかも揃えるとなると、さすがに(ふところ)が痛む。貯金はあるが、しょせん綾野はアルバイトもしていない一介(いっかい)の高校生なのだ。
 リビングでは、弘の父、(ひろし)が茶の用意をしてくれていた。いつ見てもよく似ている。
 冷たいほうじ茶で一息入れて、綾野はシャワーを借りた。雅と弘に勧められたのだ。心から安堵(あんど)した。汗のまま着替えなんて――それも着替えは他人に任せるなんて、とてもできない。
「じゃあ綾ちゃん、スリップ着てもらえる? 着替え終わったら、ドア、ノックしてね」
「はい。お世話になります」
 緊張して言ったのに、雅はあっさりと綾野のその緊張をぶち壊した。あっけらかんと笑う。
「いいのよう、私、女の子の着せ替え大好きなの」
 雅の背に隠れて、弘が気まずそうにしていた。要するに、弘は雅の着せ替えの相手にはならない、ということだろう。
 シャワーを浴びてさっぱりしてから、綾野はどきどきしながら紙袋に手を入れた。すぽんとスリップを着る。
 紙袋から、藍色の浴衣を出した。
 実は、一度も広げていない。
 なんだか気恥ずかしかったのだ。それ以上に困惑した。
 綾野は、まともに誕生日を祝われたことがなかった。
 一応ケーキは出てきたから、それでよしとするべきなのかもしれないけれど。
 幼い綾野にもわかっていた。
 これはただの義務感なのだと。
 両親は、ただ淡々(たんたん)と義務を果たしているだけなのだ。
 だから、心からの祝辞とプレゼントは、綾野にとってすべてはじめてのものだった。
 そのすべて、今まで寂しかったすべてを、弘は「お誕生日おめでとう」という一言と、丁寧に包まれたプレゼント、何より(ほが)らかな笑顔でもって、一瞬で綾野を(いや)した。
 ごし、と涙を手の甲で(ぬぐ)う。浴室の扉を、こんこんこん、とノックした。
「こら、(のぞ)こうとしない。はしたないことしないの。ひーちゃんはおとなしく外で待ってなさい」
「はあい」
「返事は短く一回!」
「はい!」
 扉の隙間(すきま)から、雅がするっと入ってきた。にこりと笑う。手を差し出されて、綾野は「よろしくお願いします」と浴衣を手渡した。
 声が震えた。
 雅がくすりと笑う。
「そんなに緊張しないで。堂々としてればいいの。おどおどしてる方が目立つから」
「着たことがないので……」
「うん、広げたこともないのね」
 雅がはらりと浴衣を広げる。綾野は耳が熱くなった。申し訳なさに身が(すく)む。
「すみません」
「謝ることなんてないわ。浴衣なんてプレゼント、一般的とはいえないもの。びっくりするわよねえ。でもね、弘がどうしてもって言って。あの子にとって、手縫(てぬ)いの浴衣を贈るのは最上級の親愛の(あかし)なのよ。だから、許してやって」
「……手、縫い?」
 鸚鵡返(おうむがえ)しにしてしまった。雅が目をぱちぱちさせる。
「あら、誰からも聞いてない?」
「はい」
「次ちゃんも鷹羽くんも伊織ちゃんも餌食(えじき)になったわ」
 雅は用意がよかった。帯に(はさ)んでいた(はさみ)で、しつけ糸をぴしぴし切って取っていく。そして、綾野の長い髪を巻き上げて仮留めした。
 綾野は渡された補正下着を指示どおり身につけた。意外と暑くない。と思ったら、なんでも雅お手製の『着慣れていないお客さん用スペシャル夏仕様補正下着』なのだそうだ。
「浴衣って、そんなに簡単に縫えるものなんですか?」
 広げてくれた浴衣に、ぎくしゃく(そで)を通す。着てみたとき分厚(ぶあつ)かったらどうしようと思っていたのだが、ありがたいことに杞憂(きゆう)に終わった。さらりと肌を滑っていく。温度低めのシャワーを浴びたあとだから、余計にそう感じるのかもしれない。ぱりっとしているのは、やはりまだ一度も広げたことがなかったからだろうか。
 (さわ)やかな、胸がすっとする触れ心地だった。
「簡単か難しいかは向き不向きによるけど、浴衣程度なら集中力と少しの真剣な訓練で縫えるようになるわ」
 少しの真剣な訓練。
 ――真剣な。
 雅がまた、先ほどとは違う様子でくすっと笑った。手際よく綾野の身体に浴衣を巻きつけ、腰紐を回す。
「綾ちゃんはかっこいいから(しま)が似合うと思う、立涌文(たてわくもん)ならやわらかくなると思う、でもやっぱり女の子だからお花模様がいいかもしれない、背が高いから大柄の方が()えるかもしれない、でも細身だから控えめな方がいいかも、どうしよう、どれがいいかなあって言って、五軒はしごしたわ」
 五軒もはしごしたのか。
 ――あたしの浴衣のために?
 顔を(おお)ってしまいたかった。叶わないから、唇を()む。
「ありがとうございます」
「弘に直接言ってやって」
「でも、……」
 今さらだと思われないだろうか。
 そう思った綾野を見透かしたのか、雅がふっと穏やかに息をついた。やわらかく微笑んでいる。
 弘の笑顔とよく似ていた。
 彼女は雅に抱かれて成長し、綾野と出逢(であ)ったのだ。
「最善が今より遅いはずがないわ。綾ちゃんは今知ったのよ。これを着てドアを開けて弘の前に立って言ったら、これ以上ない最速じゃないの」
 ――最善が今より遅いはずがない。
 綾野が弘から教わったうちのひとつだ。
 受け売りなどではないだろう。
 弘は博と雅にそう教わって育ってきた。だからこれは、彼女の中に根差している確かな信念だ。
「はい、後ろ向いてね」
 持ってきた藤色(ふじいろ)の帯を巻かれて、くるんと後ろ向きにされる。
「若いお嬢さんだから、かわいらしく文庫(ぶんこ)か、蝶結びにしましょうか」
 綾野は思わず首を横に振ってしまった。
「かわいいのは、あの……似合わないと思います」
「あら」
 そんなことないわ、と言いかけたのだろうが、雅はそれ以上干渉してこなかった。
「それなら、貝の口はどう? 男性の結びにも使うの。華やかさはないけど、(いき)になるから」
「じゃ、じゃあ、それでお願いします」
 貝の口がどんなかたちかはわからなかったが、男性の結びにも使うくらいなのだから、おとなしいだろう。
「終わったら髪もちゃんときれいにしてあげるからね。――ひーちゃーん、ちょっといらっしゃーい」
 雅が扉のむこうに声を放り投げる。ややもせず、小さなノックが(こた)えた。
「ひーちゃん、入ってらっしゃい」
「でもあの、着替え中だし」
「綾ちゃん、かまわない?」
「? はい」
 博なら問題だが、弘なら何も問題はない。
「ひーちゃん、いらっしゃい」
「乙女のお着替えは見たらだめだと思うの」
 おかしい、どうして素直に入ってこないのだろう。弘らしくない。なんだかまごついている。というよりも、少しびくびくしている。
「いいからいらっしゃい」
 雅がぴしゃりと言った。
「はい……。失礼します」
 しょんぼりと項垂(うなだ)れて、弘はしおしおと中に入ってきた。見なくても声音(こわね)だけでじゅうぶんわかる。それでも、弘は綾野の姿を見て、ぱっと顔を明るくした。もちろんこれも声からの印象だ。弘はとてもわかりやすい。
「あ! 綾ちゃん、すて」
「好きな浴衣と帯を持っていらっしゃい。着つけてあげるから」
 たぶん、素敵、と言いかけたのだと思う。が、雅が無情に遮った。弘がむぐ、と言葉を止める。
「自分で着られるよ」
「でも、着る気はないんでしょう。だから私が着つけてあげる。持っていらっしゃい」
「お母さん、人権無視しないで……人権無視、だめ、絶対」
「綾ちゃんだけ着させて、心細い思いをさせるつもりなの? デートに誘ったのはひーちゃんなんでしょう」
 デート、という言葉に、心臓がどくりと強く鳴った。
 扉に背中を向けているかたちになっていてよかった。今、絶対に他人様(ひとさま)には見せられない顔をしている。真っ赤になった顔なんて、誰だってひとには見られたくないはずだ。
「……はい。待っててね、綾ちゃん」
「う、うん」
 そうして、弘はまたしおしおと退室した。
(かんざし)は私からのプレゼントだから、受け取ってね」
 綾野の長い黒髪を器用にくるくると巻き上げながら、雅はやさしく言った。



 弘のあんな嫌がりよう、綾野ははじめて見た。
 そして、彼女の浴衣姿ももちろんはじめて見た。
 結論から言ってしまえば、綾野の目にはじゅうぶんかわいらしく見えた。欲目だろうか。
 弘はやはりしおしおしながら、白地に鬱金(うこん)の花模様のものを持ってきた。帯は薄萌黄(うすもえぎ)だ。髪に青いとんぼ玉の簪を()した綾野の目の前で、弘はあれよあれよという間に雅につくり上げられた。
「いってきます……」
「ありがとうございました。また後で(うかが)いますので、よろしくお願いします」
「はい、任せて。いってらっしゃい、ふたりとも。楽しんできてね」
 礼儀正しく一礼した綾野の隣で、弘の顔は浮かない。それでも姿勢がいいのはさすがというかなんというか。
 玄関口まで来て見送ってくれた雅と博が、ひらひらと笑顔で手を振ってくれる。綾野もぎこちなく振り返した。
 空は少し彩度を落としていた。まだ浅く水色が残っている。これから夜に向かって、ひとびとの声と木霊(こだま)するように色が変化していくのだろう。
 風は少しだけ温度が下がっている。
 ――そうか。
 綾野は不意に気がついた。
 もう八月が来るのだ。
 これまでの八月といえば、塾の強化合宿の月でしかなかったけれど。
 もしかしたら、今年は違ったものになるかもしれない。
 不思議な感じがする。
 まだ何も起こっていないのに。
 なんの約束も交わしていないのに。
 何かが起こりそうな気がしている。
 胸ときめくような、素敵な何かが待っているような気がする。
「……五軒」
 からころとはじめての下駄で歩きながら、ぼそっと口にする。
 帯と揃いの色の巾着(きんちゃく)袋を提げた弘が顔を上げた。見つめられている。恥ずかしい。
「前見て歩かないと転ぶわよ」
「あ、うん。気をつけるね。ありがとう」
 弘はおとなしく視線を直した。
 綾野は俯き加減に歩いて、自分のつま先を見る。下駄の鼻緒は帯に合わせた。藤色で、外側に白い糸で花模様の刺繍(ししゅう)(ほどこ)されている。
「あたしの浴衣。五軒回って探して、手縫いしてくれたって」
 頬が赤らむ。まだ明るいから、これでは色々な意味での顔色の変化がばれてしまうではないか。弘がひたすら前だけ見て歩いてくれることを一心に願った。頼むから顔を覗き込むなどということはしないでいただきたい。
「うん。プレゼントだから」
 弘はけろりとしている。彼女にとって、親愛の情を示すという行為は恥じ入ることのないものなのだ。
 綾野は口から心臓が飛び出しそうだった。今までは陳腐(ちんぷ)な表現だと思っていたけれど、陳腐でもなんでもなかった。この表現は率直なものだったのだ。
 すう、と息を吸った。
 ――ちゃんと言えますように。
「ありがとう」
 ぴた、と弘が止まった。
 どきりとして、数歩先を行ったところで綾野も歩を止める。
 恐る恐る弘の顔をうかがったら、彼女はきょとんとしていた。
「あ、え、――あ、……わぁ」
 ――な、なに?
 これはどういう反応なのだろう。うれしいのか腹を立てているのか、それとも(あき)れているのか。
「わぁ」
「あ」
 思わず声が出てしまった。
 弘が、思わず綾野が泣いてしまいそうになるほど幸福そうに笑ったからだ。
「喜んでもらえた?」
「う、うん」
「よかった!」
 ぱちん、と両手を合わせて、弘は華奢な肩をぴょんと()ねさせた。先ほどまでの浮かない顔はどこへ行ったのやら、実に単純で羨ましい。
「喜んでもらえてうれしい。迷惑だったかなって気になってたの。今日も、着てくれてありがとう。すごく似合うよ」
「……ぁ、ぁりが、と……ぅ……」
 もうだめだ、誤魔化せない。かああっと顔全体が熱くなる。ああ、早く暗くなってほしい。こんな状態で、これから数時間を一緒に、ふたりきりで過ごさなければならないなんて。
 卒倒(そっとう)したらどうしよう。
「ねえ、綾ちゃん。気づいた?」
 うれしげに弘が駆け寄ってくる。
「わたしの浴衣の模様、撫子なの」
 目を見開いて固まってしまった綾野に向かって、弘は頬を染めてはにかんだ。ふふっと悪戯(いたずら)っぽく笑う。
「お揃い!」
 軽やかに言った弘に、まるで当然のように手を取られた。
 やわらかな白い手と、綾野のかたちのよい手が、そっと繋がる。
 火傷(やけど)するかと思った。
 手を引かれて、綾野は慣れない下駄をかこかこと鳴らした。
 まだ子どもが遊ぶ櫛引公園を横切り、夜店の並ぶ矢鳴(やなり)通りを目指す。浮かれるひとびとのざわめきが近づいてくる。
 自身の手と繋がった弘の手を見ながら、綾野は思った。
 これからきっと、
「綾ちゃん」
 前を見て歩けというのに、弘が精一杯でふり向く。
 それから彼女は、虹がきらめくような声で笑った。
「これから、一緒にいっぱい遊ぼうね!」

 ――これからきっと、忘れられない季節がやってくる。





end.



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