恋はやさし 野辺の花よ

 恋はやさし 野辺の花よ
 夏の日のもとに 朽ちぬ花よ

 魔王は書庫から五冊ほど本を選ぶと、それを抱えて屋敷の南端を目指した。
 南端の部屋は窓をすべて開け放つことができる。壁も扉も硝子張(がらすば)りで、閉め切っていても外の景色はそのまま見えるが、春から夏にかけては夜以外はほとんど開け放たれたままだ。そして、その日陰に入って読書する――というのが、現在の基本的な魔王の一日の過ごし方だった。
 その日も魔王は、南端の部屋に入った。窓も扉も、既に全開にしてある。つい今しがたまで、(りく)がここで遊んでいたのだろう。魔王はふと、心の隅に小さな花が咲いたような気持ちになった。
 陸が住むようになってから、魔王の生活は少し変わった。
 まず、夜。魔王には睡眠は必要ないが、陸がせがむので一緒にベッドに入る。ベッドの中で、陸はその日にあったことを、魔王に嬉々として話して聞かせる――とはいえ、陸は寝つきがいいので、すぐに眠ってしまうのだが。
 朝起きたら、「おはよう」と言う。
 晴れた日は一緒に日向ぼっこをして、雨の日は魔王は本を読み、陸はその(かたわ)らで特に読むわけでもなく本をぱらぱらやる。座っていたり、寝そべっていたり。
 陸は物理的に存在する対価として文字を読むことが出来ない。覚えることもできない。それでも本は好きなようで、お気に入りは鉱石図鑑と植物図鑑だ。もう何度も何度も読み返しているのだろうに、一向に飽きることなく、同じページをいつまでも眺めていたりする。
 特別なことは何もない。けれど、世界は美しかった。
 室内には、白い円卓と、揃いの白い椅子が二脚、向かい合わせで卓を囲んでいる。都合よく円卓の半分ほどが陰になっていた。卓の上に本を載せ、椅子に腰掛ける。一冊目の本を手に取り、ぱらりとページを繰った。
 青い空に白い雲が流れるように浮かんでいる。風は緩く、裏庭は光が(あふ)れていた。(まぶた)に光の(あと)が残るほどに(まぶ)しい。様々な色、様々な種類の薔薇(ばら)が咲き乱れている。硝子窓を伝っている蔓性(つるせい)の薔薇も、薄紅色(うすべにいろ)の花をたくさんつけていた。
 蜜を目当てに、小鳥や蝶や蜂たちが、羽音を震わせてやってくる。

 恋はやさし 野辺の花よ
 夏の日のもとに 朽ちぬ花よ

 風向きが変わった。
 初夏の風に乗って、微かに歌声が届く。
 青い空、白い雲、萌える若葉、息づく大地、そんなものを背景にして、歌は途切れることなく流れ続ける。春の小鳥が(さえず)るような、甘やかな歌声。
 聴き違えることなどあるはずもない、恋人の。

 熱い思いを胸に込めて
 疑いの霜を冬にもおかせぬ
 わが心の ただひとりよ

 魔王は本に栞紐(しおりひも)を挟み、閉じて卓に置いた。脚を組み、椅子の背にゆったりと(もた)れる。
 静かに目を閉じると、初夏の世界が、視覚を通していたときよりもずっと鮮やかに魔王を包んだ。
 歌声にまじり、水音も聞こえる。魔王の屋敷から歩いて十五分ほどの距離に、小さな泉がある。恐らく、陸はそこで水浴びでもしているのだろう。陸は裸でいるのが好きだ。まるで赤ん坊のように。

 胸にまことの露がなければ
 恋はすぐしおれる 花のさだめ

 愛おしいと、思う。
 他に言葉を思いつかない。
 何故、陸でなければいけないのだろう。理由などわからない。ただ、どうしようもなく、陸が、陸だけが愛おしい。はじめて出逢ったときからそうだった。引き結ばれた理由は多くあったけれど、それすら意味は持っていない。
 泣きたい気持ちに、少し似ている。
 不意に、魔王の唇から、恋の旋律が(こぼ)れ出た。それは(ひそ)やかに陸の歌声と共鳴し、和音となって響き、どこまでも明るい、清浄な初夏の光の中に溶け込んだ。

 疑いの霜を冬にもおかぬ
 わが心の ただひとりよ

 ――わが心の、ただひとりよ。





end.



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