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あたたかい部屋のための絵画





 濃紺(のうこん)の空から、ちらりと白いものが舞い落ちてきた。
「……さみーっつの。降んな」
 暑さも寒さも嫌いな秋人(あきひと)は、張り詰めた弓の(つる)のような空気に向かって毒づく。吐く息が白い。古い、いいところといえば家賃が破格であることくらいのアパートの扉は鳥肌が立つほど冷たくて、けれど何にも(もた)れずに突っ立っているには(いささ)か疲れている。
 目当ての人物は、まだ帰ってこない。
「くそ……あっつい風呂入りてえ」
 独りごちて扉に背を預け、そのまま座り込む。ジーンズを伝わって、ぞっとするような冷たさが染みてくる。
 冬休みに入る直前。委員長、と秋人が声をかけると、隣の席で次の授業(担当教師が鬼のように恐ろしい英語だ)の予習の再確認をしていたらしい一誠(いっせい)は、 まったくいつもの通り、
「うん? なあに」
 と小首を傾げるようにして秋人を見た。
「委員長さあ、クリスマスとか、なんか予定あんの」
 秋人はといえば、次の授業に出席する気は、最初から、ない。
 一誠はにこりと笑った。
「うん。クリスマスはね、ケーキ屋さんでバイトでーす。ちなみに、大晦日(おおみそか)までと、新年は宴会屋さんでバイトね。定食屋さんと掛け持ちで」
 にこにこしながら、「ファイトーバイトー! ですよー」などとほざく。失望は感じなかった。ああ、やっぱり、と思ったまでだ。それだけだ。だから秋人も、
「へーえ」
 とだけ答えた。そして、言ってから突然、温泉が噴き出すみたいに腹の底から(いら)ついて、腹立ち紛れに、
「ガンバッテねーイインチョー」
 と軽率(けいそつ)に言ってしまった。
 完全な棒読みの頑張ってという言葉の中に、もちろん一誠は微塵(みじん)の誠意もないことに気づいたのだろうけれど、聡明な彼女は穏やかに微笑んで、
「ありがとう。がんばるね」
 と答えただけだった。
 ムカつくという言葉を使うな、と再三に渡って一誠に注意されているのだが。
 ムカついた。
 それ以外に表現の仕様がない。腹が立ったとか苛立ったとか、どれもしっくりこない。秋人は、ムカついた。秋人は確かに喧嘩(けんか) (ぱや)い(ちなみに常勝無敗だ)が、さすがに女の子に手を上げることはしないので、その話はそこまでで終わったが。
 本当は、ふにゃふにゃと笑う横っ面をぶっ飛ばして、怒鳴りつけてやりたい気分だった。それをしない代わり、秋人は英語の授業を当初の予定通りサボって、屋上に向かい、コンクリートの冷たい壁に思いきり拳を打ちつけた。フェンスを殴って変形させなかった自分を褒めてやりたいと秋人は思う。これでも、彼は我慢を覚えた方だ。
 そうして、終業式を迎え、冬休みに突入して、――一誠には一度も、会っていない。
 ふう、と溜息をついた。吐息は外気に触れた途端に白く凍りつき、それから大気に溶けていく。
 膝を抱えて、その間に顔を埋めた。
 濃紺の空。星が瞬くみたいに白く、落ちてくる雪。身を切るような冷たい空気。ぴりぴりと痛むほど冷えている頬、指先。しんと静かな古いアパート、開かない扉、その前に座り込んで家主の帰宅を待っている自分。
 客観的に現状を分析して、秋人は、それがひどく寂しい絵であることに気づく。捨てられた子犬みたいに。いくら泣いても助けて貰えない、暗い雨の日みたいに。
「早く帰ってこいよ、ったくほんとにドンくせぇ……」
 てのひらが硬くなってしまっている。風向きが変わったせいで、真正面から雪が吹きつけてくる。寒いを通り越して、痛い。
 ムカついた。
 一誠は、本当に、馬鹿だ。
 彼女が弱音を吐いているところを、秋人は見たことがない。泣いているところも見たことがない。それどころか、「疲れた」とか「誰か代わってくれないかな」とか、冗談にしてしまえる程度の独り言すら聞いたことがない。一誠はいつでも、辛いことなどまるで知りません、苦労なんて経験したことありません、という幸せそうな顔で過ごしている。
 秋人だって。
 最初はそう思っていた。いつも楽しそうだったから。学年首席で、教師からの信頼も厚く、男女問わず友達が多くて。ふわふわ笑っていて、悩みなどないのだろうと。
 けれど違った。そんな、単純なものではなかった。人当たりがよくて、優等生だという彼女は、茉雪(まつゆき)一誠という人間を構成するもののほんの表面数ミリ足らずに過ぎなかった。
 天涯孤独で、奨学金を受けてこの高校に来ていること、だからこそ成績を落とすわけにはいかないのだと、並々ならぬ努力でもって首席の座を守っていること、平日休日に関係なくアルバイトをしていること、――人懐っこく見えて、本当は、野生の猫みたいにひとに馴れないこと。
 馬鹿じゃねえのかと思う。
 秋人は、一誠がどうしてそんなに一生懸命なのか、何に対して必死なのかがわからない。だから、何も言わずにへらへら笑っている一誠を見る度、苛々する。腹の底から沸き立つように苛ついて、犯して泣かせてやろうかと本気で思う。
 でも。
 秋人はもう一度、溜息をついた。
 一回もデートをしたことがないだとか、ふたりきりになる機会さえ少ないだとか、盆も暮れも正月も会えないだとか。女の頭の中ってホント空っぽなんだな、と確認するイベントでしかなかったクリスマスも、今年はきっと違う印象のものになるだろうと思っていたけれど、会えないままもうすぐ日付けが変わろうという有様だ。
 でも。
 問題は、そんなことではないのだ。ぶつけたい不満の中心は、そんなことではないのだ。度々秋人を襲う、どうしようもない苛立ちの原因も。
 秋人がいつも、いつも思うのは。
「――いつ休むんだよ、てめーはっ」
 思わず、鉄扉に裏拳をお見舞いしてしまった。
 鈍く派手な上に物騒な音が、静かな冬の夜に響き渡った。
井名里(いなり)くん。駄目だよ暴力は」
 間の抜けた声。
 弾かれたように顔を上げると、案の定、声と同様に間の抜けた顔の一誠が立っていた。頭や肩にうっすら雪が積もっている。一誠はどうしたの、と言いながら秋人の腕を取った。
「もう十一時だよ? 補導されちゃうよ井名里くん。ご両親呼び出しだよ」
「イインチョが早く帰ってこねーせいっしょ。すっげ寒かった!」
 勝手に待っていたのだが。
 一誠は、理不尽な秋人の言い分に、丁寧に「ごめんね」と謝った。
「寒かったでしょう。お風呂沸かしてあげるから、入って」
 穏やかな。曖昧(あいまい)な笑みを浮かべて、一誠は鍵を開け、秋人を迎え入れた。
 言葉を失ってしまった。
 何を考えているのか判然としない、うっすらと陰影の薄い一誠の笑みを前にすると、秋人はいつも、応対に困った。こいつは完璧に、爪の一枚、髪の一筋だってオレのモンにはなってねえ、という気がした。苦しかった。秋人は一誠の一挙手一投足にいちいち揺さぶられてしまうのに、彼女は秋人の影響を(わず)かも受けない。
 ――恋人という言葉は、一誠にとって、こんなにも意味がない。
 秋人は一誠の華奢(きゃしゃ)な背中に向かって、
「……お疲れ」
 玄関でコートを脱ぐ一誠の。頭の雪を払い落としてやりながら、そっと、言った。他に言葉がなかった。一誠は鼻の頭まで真っ赤だった。髪は凍りつくように冷たかった。

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