雨ふらし






 関東の入梅が天気予報で報じられる頃、地元では既に五日間の雨、或いは生憎(あいにく)の曇り空で、くたびれた洗濯機があるばかりの一人暮らしの俺のアパートには山のような洗濯物が溜まっていた。
 晴れ間が(のぞ)いたら一気に洗濯しよう、水道代がもったいないから。――などと思っていたのが間違いで、太陽のヤツは一向に顔を見せやがらない。タオルも使いきってしまったし、ジーンズは今穿()いている一本きりしか残っていない。ということで、いよいよ追い詰められた俺は、小雨降りしきる中小銭入れを握り締め、洗濯物を(かご)に詰めて、近場のコインランドリーへと行くことにしたのだった。
 混んでいるだろうと予想したコインランドリーは、時間帯がよかったのか、若い女性がひとりいるばかりだった。乾かし放題だ――とばかりに店内に足を踏み入れた――途端。
「ぐあっ」
 ごんっ、がつっ、ばさばさっ。
 ちなみに最初のが、身長百九十二センチの俺が低い鴨居に頭をぶつけた音、次のが手にぶら下げた籠を開きかけた引き戸にぶつけた音、そして最後が、籠に積み重なっていた分の洗濯物が、籠をぶつけた衝撃で無情にも濡れた地面へと崩れ落ちた音――だ。洗濯物に気を取られ、いつもなら忘れない――というか習慣化しているはずの――『鴨居をくぐる』という行為を怠ってしまった結果である。
 ――――――――情けない。
 ていうか、せっかく洗濯したのに……。
 タダじゃないのに。貧乏学生の懐の凍てつきをなめてもらっちゃ困るのに。
 痛む額を押さえて呆然と立ち尽くす。いや、それはそれとして早く拾わなければ、と手を伸ばしたとき、
「大丈夫でした?」
 やわらかな声。
 それと同時に伸びてきた白い手が、散らばってしまった洗濯物を拾い上げる。顔を上げると、さっきまで乾燥機の中身を取り出していた若い女の子が、俺の目の前にいた。今時珍しい、何のカラーリングもしていない真っ黒な髪の、俺と同い年くらいの女の子。この蒸し暑いのに七分丈にロングスカートの、露出度最小限のおとなしそうな子だ。
「あの?」
「あっ……ハイ、大丈夫です」
 (はた)から見ていれば抱腹絶倒必至の間抜けな場面に、心底心配そうな顔を向ける。
 それが、出会いだった。



 というとまるで今では恋人同士のようだが、そんなことはない。俺と彼女は、時々コインランドリーで会うだけの、いわばご近所付き合いをしているようなもの。
 不思議とコインランドリーを使うタイミングが合い、俺は彼女と何度も会った。同じコインランドリーとはいえ、時間帯は常に違う。示し合わせているわけでは、もちろんない。本当に偶然だ。
「あら」
「あ、」
「偶然ですね」
 いつもの会話だ。
 ただ、偶然ですね、と笑う彼女の顔が、心の底から思いがけないと感じているような、意外そうな顔で微笑んでくれるのが何故だか嬉しくて、ほっと心があたたまる。
 相変わらず空はぐずついて晴れなかったが、コインランドリーに行くのはちょっとした楽しみになっていた。今日はいるだろうかと朗らかなあの笑顔を想いながら、洗濯物を籠に詰め込む自分がいる。
 ふと窓から外を見ると、大分薄暗くなった曇り空に、ぼんやりと雲が流れるように(くれない)が覗いていた。明日は晴れるかもしれない。
「よいせ」
 籠を持ち上げ、アパートを出る。濡れたアスファルトが、ほんの少し(こぼ)れた夕陽にきらきらと輝いていた。サンダルを突っ掛けただけの格好で、いつものコインランドリーに向かう。
 今日はいるだろうか。
 気づくと、そんなことを考えている。講義の最中でも、洗濯に行かなきゃ、と思う度に彼女を連想する。
 そんな現象、そしてそれに伴う気持ちにどういう名前がつくのか。
 ――知っていて、俺はずっと知らないふりをしている。
 籠を持ち直し、思い出す。白い手やほんのりと色づいた頬、やわらかな声。
 ――何考えてるんだ、俺!
 ぶんぶんと乱暴に首を振った。
「あら」
 からりと軽い引き戸を開ける、――にっこりと微笑む彼女と、眼が合った。
「また。こんにちは、ほんと偶然ですね」
 濡れた男物のシャツを片手に、彼女が挨拶する。
 ――彼女は人妻だ!
 そう、彼女は既婚者なのだった。左手の薬指にシルバーがあったら嫌でもわかるし、認めざるを得ない。結婚していないにせよパートナーはいるわけだし、リングを重ねていないだけで死別かも知れない。とにかくどう考えても心身ともに独り身の可能性は非常に低い。
「本当ですねえ」
 ぎくしゃくと笑みを取り(つくろ)いながら、答えた。
 ――本当は。
 本当は期待していたりするんだ、その偶然に。未練がましい、情けないと思いながら。
「楽しそうに洗濯物取り出しますよねえ」
「そうですか? や、確かに洗濯するの好きですけど。洗濯っていうより、乾燥が好きです」
 何気ない会話に、全神経が集中する。隣に腰掛けた彼女の気配が痛い。
 この、気持ちの名前など。
 もうとっくにわかっている。わからないふりをしているだけだ。
 乾燥機が出来上がりを告げる。
 洗濯物を取り出すとき、うっかりシャツを床に落としてしまった。
 気づいた彼女が手を伸ばす。少し遅れて、俺も手を伸ばす。偶然、――を装ったかたちで、ごく自然に、俺の指先は彼女の手の甲に微かに触れた。
 彼女の手が(わず)かに反応したように感じたのは、俺の気のせいだ。
 一瞬、すいと手を引くようにしてシャツを拾い上げ、何も気にしていない様子で彼女はシャツを差し出してきた。どうぞ、と微笑みながら。
「ありがとうございます」
 俺も何気ない様子で受け取る。
 何を期待していたのだろう。
「お先に失礼しますね」
 礼儀正しくぺこりと頭を下げて、店を出ていく。雲は大分晴れて、隙間から桃色が見えた。金の夕陽を反射する、左手の薬指。
「ええ。気をつけてお帰りくださいね」
 俺は笑って手を振る。
 ――これは、恋じゃない。
 彼女の背中を見送っていた手が、ゆるゆると落ちていく。
 ――まだ、恋じゃない。
 俺は何も失ってない。
 だから。
 だけど。
 もうしばらくは、ここには来ない。





end.





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