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四十九日






  八木沼(やぎぬま)紅子(べにこ)二十七歳は、八木沼紅子享年二十七歳になろうとしていた。
 処分するものはすべて処分した。卒業アルバムは廃棄処分の古本として出し、本棚の中も空っぽ。お金なんか必要ないから、古本屋にはもちろん行っていない。ビニール紐で(くく)って、これも古本で出した。本棚も机も、ベッドも、鍋釜薬缶に食器類。車もすべて、粗大ごみや下取り無料を利用した。
 1LDKの安アパートに残っているのは、ロープと一脚の椅子、それから紅子だけ。
 要するにそういうことだ。紅子はこれから自分自身を殺そうとしている。
 椅子の上に立っている紅子の目線の少し上には、輪をつくった太いロープが垂れ下がっている。これに首を引っ掛けて、椅子を蹴倒せば人生は終わる。なんてわかりやすい。
 思いながら、紅子は自分の行動力に我ながら舌を巻く。普段は何につけてもトロいだのおっとりしているだのと言われているのに、たったの四十九日間でここまでの舞台を整えた。
 決心したのは一瞬だったし、迷いも一切なかった。これはもう死ぬしかないと思い定めて、翌日から家財処分を開始したのだ。
 溜息をつく。
 どうしてこうなったのだろうとは思わない。自分の運命の片割れがなくなってしまったのだから、片割れの自分も死ぬのが当然だ。片割れだけで生きているなんて、そんなの(ことわり)に反している。親兄弟に対して申し訳ないという気持ちが浮かんできたら今の選択はなかっただろうけれど、所詮運命の前に彼らは無力だった。
 その証拠に、ロープを両手に持って首に掛けようとしている紅子の中にいるのは、両親でも友人でもないのだ。
 たったひとりだけ。
 あのひとだけ。
 ――私の片割れ。運命のひと。
 ……それにしても、縄がうまく首にかからない。両手で持っているにもかかわらずぶらぶらして、(あご)を引っ掛けても頭を入れるところまでいかない。輪の中に頭を入れようとしたら、今度は顎がするんと抜けてしまうのだ。
 なんだか苛々(いらいら)してきた。電気も水道も止めてある。つまりエアコンは効いていない。そして窓を閉めている。この真夏に。
 お盆に。
 窓を閉めてあるといっても防音なわけではないから、蝉の声もはしゃぐ子どもの声も聞こえる。
 硝子(がらす)一枚隔てたむこうは、きっと(まぶ)しいほど暑くて激しく明るく、時間は長閑(のどか)に流れているに違いなかった。お父さんに肩車をしてもらってライオンを見ている子どもがいたり、はじめてのデートに遊園地の中で緊張しているカップルがいたり、近所の悪ガキに怒声を放つ元気なジジイがいたり、宿題をやりなさいとお母さんにせっつかれている子や、友人同士でショッピングに行っている女の子、親子で並んでお墓に手を合わせているひとたちがいるに違いなかった。
 よく晴れて、重たい生クリームが山になったような背の高い雲が眩しい夏の日だ。痛いくらい綺麗で清々しい。
 そしてちょうど四十九日目だから、紅子はなんの気負いもなく朝いちばんでロープを用意し、朝焼けを眺めて時間を待った。運命の片割れがいなくなった時間を。
 先ほどからの度重なる失敗で、紅子の身体は汗で濡れている。一発で死ぬ予定だったのに、計算外だ。せっかく大切な思い出のワンピースを着たのに。揃いでプレゼントしてくれたミュールを履いて、髪をまとめて細いりぼんで飾って。
 気合いの入ったデート服なのに、汗みずくでは台無しだ。
 はあ、とまた溜息をつき、今度こそと顎をロープにかけたときだった。
「失礼しまーす、嘉川(かがわ)急便です〜」
 ――なんでこのタイミングで。
 思わぬ声に、またもロープはするりと紅子から逃げてしまった。
 嘉川急便。誰からの荷物だろう。はっきり言って迷惑極まりない。送ってくれたひとは善意だろうし、紅子を思ってくれてのことだろうが、これから死ぬ紅子にとってありがたい荷物などない。
 散々自己中心的な考え方をしていることは自覚している。けれど、だから何? という気持ちだ。なんといっても紅子はこれから死ぬ(予定)。他人のことなどどうだっていいし、他人を気遣うこころが残っているならこんな行為には及ばない。確かに紅子は追い詰められてはいるが、自失はしていないのだ。
 ――無視。
 当然の判断だった。
 が、
「嘉川です〜、お留守ですか〜?」
 ――無視無視。
「八木沼さん、嘉川です〜」
 ――しつこい。私はもういないんだってば。あ、一応まだいるけど、もういなくなるんだってば。荷物なんかいらないの。
「八木沼さん、石巻(いしまき)さんからお荷物が届いてますよ〜」
 ――石巻。
「石巻ッ?」
 我が耳を疑うと同時、思い切り声を上げてしまった。この時点で居留守が不可能になった。
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください、待って……」
 どうしようどうしようどうしよう。
 絶対不審だ、こんな何もない部屋なんて。段ボールが積み上がっていれば引っ越しと思ってくれそうなものだけれど、本当に何もないのだ。暖簾(のれん)も何もかけていないから、玄関から室内は丸見え。椅子の上に女が立っていて、その前には輪っかをつくったロープがぶら下がっている。
 ――あ、今開ける必要はないじゃない。あとから私が受け取りに行けばいいんだわ。
 と思った油断がいけなかったのか、
「あっ? あぁっ」
 ずるっ、と足を滑らせた。
 布張りの椅子の上に、ミュールで立っていたからだ。それも、少し背伸び気味に立っていたのだから不安定極まりない。そこへ持ってきて動揺となれば、足もとを見失っても当然のことだった。
 がたん、と――
 ――大きな音がしただろうか。
 したような気もするが、しなかったような気もする。ああでもこのまま死ねればそれはそれでいい――



 人生そうそう事はうまくは運ばない。
 そんなわけで、紅子はまだ生きている。
 頭にたんこぶひとつこさえただけで、ぴんぴんしている。
 何もない壁を背にして両膝を抱えて座り、額には薬局やなんかでよく売られている貼りつく冷え冷えを乗せていた。視線の先、転がっていったらしいミュールの片方がぽつんと倒れている。椅子は言うまでもなく豪快に蹴倒されていた。
 冷え冷えは、嘉川急便ですぅとか言ってひとの運命を剥奪しくさったアホンダラな男からもらった。というか、額に押しつけられた。そう、紅子は気絶すらしなかったのだ。笑えるくらい泣けてきて、紅子は恥も外聞もなくアホンダラの前で泣きじゃくった。
「なんでへらへら笑ってんのよ信じられない! 私自殺しようとしてたのよ。見ればわかるでしょそれくらい!」
 そして今は嘉川急便を(かた)ったアホンダラに八つ当たりをしている。
 窓は擦り硝子ではない。ごくごく普通の、透明な窓硝子だ。家財全部処分したのだから、どんな部屋にもカーテンと呼べるような視界遮断の布はない。その窓から、深刻な場面を見られてしまったのだった。
 アホンダラは、これは大変だ止めなきゃ駄目だと思ったものの、当然鍵は開いておらず、そこで咄嗟(とっさ)に出たのが、
 ――嘉川急便です〜。
 カーテンなしでは外から見られてしまうかもしれない――実に初歩的なことなのだが、紅子は完全に失念していた。自失していないと思っていたのだが、実は結構自失していたのだろうか。タイミングを完全に逸した現在、冷静に考えてみると、紅子の舞台は整っているようで整っていない。ガッタガタだ。
 表札を外すのを忘れていた。
 忘れていたのではなく、外したくなかったのかもしれない。
 紅子は運命のひとと一緒に暮らしていたわけではなかった。でも、暮らしたいね、暮らそうねと言って、貯金していた。
 表札はおまじないだった。
 八木沼、と書いてある表札の端に、――本当に端っこに、本当に小さく、
 ――石巻。
 そう書いてある。
 まさかその名前で、こんな無様な醜態(しゅうたい)を、しかも完全なる赤の他人に(さら)すことになろうとは思わなかった。誰にも(けが)されたくない名前で、こんな。
 アホンダラは、見ている側も脱力してしまうしかない暢気(のんき)な顔でへらっと笑った。

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