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「はい。確かに見ればわかります。ぶらんこを楽しむにしろ、首は支点力点作用点どこにも来ないと思いますし」
 紅子が借りている部屋の三つむこうに、吉永(よしなが)さんという自称ロマンスグレーが住んでいる。アホンダラは彼の家でプレステを三日三晩楽しんだ帰りだったそうだ。Wiiもやったらしい。レーシングゲームでフルボッコにされたのだそうだ。
 心底どうでもいい。
「じゃあなんでそんな笑うのよ! わ、わたし、私ほんとうに」
「だって君深刻そうだから」
 早々に敬語がなくなった。何もかも腹立たしい紅子にはそれも非常に気に入らない。
「深刻なのよ! 見ればわかるでしょ!」
「うんわかる。深刻じゃなきゃ自殺しないと思う。多分だけど」
 叫ぶみたいに言い放つ紅子の顔は真っ赤だ。真夏で暑いから。冷房もなく風も通らない狭い部屋で、つい先ほどまで死ぬために汗を流していた。そのときの汗は引いたけれど、今は単純に暑くて汗をかいている。ついでに泣きじゃくって、おまけに八つ当たりで喚いてもいる。
 みっともない。
 そんなこと、自分がいちばんわかっている。
 でも、そのみっともなさや無様さを、アホンダラは一切口にしない。
 紅子が腹を空かせた赤ん坊みたいに泣きじゃくっていた少しの間をついて、すぐそこにある自動販売機でスポーツ飲料水を買ってきてくれた。
 断ったけれど、受け取った。
 部屋の暑さと自分自身の熱に負けた。汗がだらだら流れる気温の部屋に、爽やかなデザインの商品名や結露したペットボトル、そこからひんやり流れてくる冷気は魅力的すぎたのだ。
 実に美味い。
 生き返る。
 死のうと思っていたのだが。
 残りひとくちをぐびりと飲むと、非常にもったいないことに、既にぬるくなってしまっていた。
 紅子の前に屈んでへらへら笑っていたアホンダラがふと静かな顔になって、ちょうど紅子の身体半分くらいの距離を置いて隣に座った。
 アホンダラはぬるい壁に背をつけて、ふうと息をつく。
「だからだよ。深刻なことを深刻な顔で、俯いて話したらしんどいだけだ」
「……深刻なこと、笑いながら話せっていうの?」
「できればそれがいいんじゃないかなあ」
「無理よ」
 言葉を吐き捨て、深く息を吸い、吸いこんだ酸素すべてを吐き出した。
 重い溜息だ。
 疲れてもいる。
 冷え冷えはもうとっくにぬるくなっていて、顔の火照りで頭痛がするほどだった。
 額に貼りついている冷え冷えを、ぺろんと()がす。水の感触でもなければゼリーの感触でもない、不思議にとろみのある重さだと、いつも思う。
「ごめんね」
 不意に、アホンダラが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「何よ。自殺止めに入ったことなら許さないわよ」
 (にら)むのも面倒な暑さだ。気温は一体何度だろう。もしかしたら三十五度を上回っているかもしれない。
 アホンダラは少し呆れたように紅子に顔を向けた。情けなく眉尻が下がっている。
 彼も汗をかいていた。当然のことなのになんだか意外な気がして、紅子はそこではじめて、自分がアホンダラに対してなんの気遣いも持っていなかったことに気づいた。が、そんなもの今さらだ。恥じ入る気持ちや申し訳ない気持ちがないわけではない。でも、だからといって素直になれるわけもなかった。
 鼻の頭の汗をTシャツの袖で拭って、アホンダラが続ける。
「そうじゃなくて。タオルもあればよかったなぁって。タオル、朝使っちゃったから……女の子にそんなのわたすわけにもいかないし。冷え冷えはさ、(ぜん)さんのとこで冷やしてたんだ。夏はいつもそうしてる。帰るまでの道すがら、おでことか首筋にあてながら帰るの。すぐ溶けてぬるくなっちゃうけど」
「訊いてないわよ。ゼンさんて誰」
「吉永さん。下の名前、善次郎(ぜんじろう)さんていうの。モンハンめっちゃ上手いよ。いちばん好きなのはジンオウガなんだけど、それは今は関係なくて、今は別に欲しいもんがあってひたすらクック先生狩りに行ってんの」
「吉永善次郎さんっていう固有名詞以外全部わかんなかったわ。興味ないから説明してくれなくていいからね。とっとと帰って」
「やだ」
 子どもみたいな否定の言葉を返されて、紅子は今度は面倒くさいと思うこともなく睨む。が、アホンダラはまったくこたえない。
「だって、今俺が帰ったら、君、死ぬつもりだろ」
「帰らなくても死ぬわよ」
「なんで決定されてんの? 『死ぬつもりよ』っていうんじゃなくて?」
 なんなのだろう、こいつ、何も知らないくせに。早く出ていってほしい。
 こんなの不法侵入だと訴えれば多分勝訴だろう。だが、それもこれも紅子にはどうだっていいことだ。だって死ぬのだ。これから紅子は死ぬ。死ななければならないし、死ぬのが当たり前だ。……ここまで思っているのに、どうしてうまくいかないのだろう。
「……恋人が死んだの」
 涙が出てくる。
 もう一生分泣いたと思ったのに、まだ泣ける。
 確かに一時、涙が出ない頃があった。でも、それは涙が()れたからではなくて、涙が追いつかなかっただけだ。
 思い出すだけでも咳き込むくらい泣くのに、彼を示す言葉を口にして涙が出ないはずがない。胸が詰まるのに、詰まっているはずの胸から何か鋭くて痛いものが込み上げてきて、それが紅子の(のど)を刺す。
「運命のひとなんだもの。そのひとが死んだんだから、私が死ぬのは当然でしょ」
 それは自然の理だと、紅子は思っている。
 (さぎ )は、(つがい)となった相手が死ぬと長く生きていられないという。寂しくて、すぐに死んでしまうという。
 比翼(ひよく)の鳥は、片方だけでは飛ぶことができない。
 それは摂理だ。誰にも曲げられない。
 そして、死んだひとは二度と戻ってこない。どんなに泣いても、叫んでも、誰を恨んで呪っても、どれだけ願って祈って(すが)っても、絶対に帰ってこない。
 神様だって、一度死んだひとを呼び戻すことはできない。
 お願いしたって叶えてはくれない。
 神様は、死んだものは二度と生き返らないという絶対の(おきて)をつくった。その掟には、神様自身も逆らえない。
 神様にできないことが紅子にできる筈がないのだ。だから紅子は、運命に従うことにした。
 アホンダラが少し眉を(ひそ)め、首を傾げる。
「ごめん因果関係が全然わからない」
「だから!」
 紅子は苛々した。怪訝(けげん)そうな顔のアホンダラが憎たらしい。
(りょう)くんは運命のひとだったの。で、その諒くんは死んじゃったの、四十九日前に、交通事故で! そんなの私死ぬしかないじゃない?」
「リョウくんと君は別の人間だよ。片方が死んだからって、もう片方が死ななきゃいけないなんてことない」
「運命なのよ」
 ひとりで生きてちゃいけないのよ。
 涙が(こぼ)れる。
 ――運命も悪くないね。
 そう言って笑ってくれたのだ。
 手を握って。
 紅子の鼻の頭に悪戯(いたずら)なキスをして。

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