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 紅子と話してると恋愛小説の中に生きてるみたいな気になると言って、でも紅子がいてくれるなら恋愛小説の人生もいいと言って、好きだよ、と言ってくれた。
 ――卒業するまで、もう少し待ってて。
 石巻諒、享年十六。
 まだ、学生服を着ていた。
 中学も高校も学生服だから、ネクタイを結んだことがないのだと少し照れながら笑った。そして、紅子と暮らす頃には上手く結んでみせるからとも言った。
 紅子は、私が毎朝結んであげると本気で言って、彼の唇にキスをした。
「君が運命論者なのはすごくわかった。幸せなときはそれでいいと思うよ、運命のひとがいるとか赤い糸で結ばれてるとか、ロマンがあっていい」
「そんな軽いもんじゃないわ」
 (うつむ)いて涙を拭う。止まらないことなどわかっているけれど、必死で拭う。
「三十前にもなってって思う?」
「三十前なんだ」
「二十七よ。……幼稚だって、自覚があるわ」
「俺は二十六」
「訊いてない」
「女性の年齢聞いといて自分は言わないって、不公平かと思って」
 アホンダラは少し黙って、また口を開いた。穏やかでやさしい、静かな声だ。外だったら、蝉の声にかき消されてしまっていたかもしれない。
「……運命って言葉に縛られたら、苦しくなったらとことん苦しいだけだよ」
「なんでそう言い切れるのよ」
「自殺しようと思ったのは苦しくてつらかったからじゃないのかなって」
 泣いている瞳に汗が入り、(にじ)んでいく。沁みて痛く、(まぶた)をぎゅっと(つむ)った。
 それなのに、床に落ちたのは、眼球の保護のための体液ではなく、どこまでいっても蒼い涙だった。
 髪の先から汗が滴る。
「もし。……もしもさ、別のひと、誰か好きになったらどうすんの?」
「ならないわ」
「よく言い切るよなあ……清々しいな。理解はできないけど」
「理解してくれなくて結構よ」
 夏はどうしてこんなに激しく明るいのだろう。
 暑くて、皮膚が焼けて焦げてしまいそうな熱が絶えず頭上から突き刺さってくる。目に眩しい入道雲は白すぎて、空の青さなんか果てしない。楽しいことがたくさん待っているのだと条件反射で思ってしまう。
 だから夏は心躍るのだと、言える真っ直ぐな心はどこに置いてきてしまったのだろう。
 夏休みの幼い思い出は、夜店のおもちゃの軽いかたかたいう音や、(ひるがえ)る金魚の尾鰭(おひれ)の幻みたいな優美さ、わたあめの味と、べたついてしまった手を洗った公園の水道のぬるい水――繋いでくれた母の手の温度と、……おんぶしてくれたのは、いつも兄だった。
 自分はとても幸福な子ども時代を過ごしてきたのだと、思い出してはっきりわかる。
 水に沈めた色とりどりのビー玉やおはじきが、水面(みなも)ごと光をきらきら反射させるような記憶だ。
「自殺を俺に阻止された時点で運命って疑っていいと思うんだけどなあ。あ、リョウくんと君が運命の恋人同士じゃなかったって意味じゃないよ」
 言い訳じみて聞こえた。
 でも、他人から見たら、運命の恋人同士なんてその程度にしか見えないだろう。
 紅子はぐすっと鼻を(すす)る。
「もし本当に……誰かと誰かが一対で、……片方が死んだらもう片方も――生きられないとか死ななきゃならないとか。もし誰かが君のことを運命のひとだって言って好きだって言ってくれたらどうすんの? 自分の運命はリョウくんだから勘違いですって言って、相手の運命を否定すんの?」
「そんなひと出てくるわけないわ」
「それでさ、もしもさ、もしも君がこれからまだ生きて誰かに恋したら」
「しない」
「だからもしもだって」
 アホンダラは紅子の刺々しい応答にもめげない。紅子は、このひとなんでこんなに一生懸命なのかしらと少し滑稽(こっけい)に思う。
 それから、このひとからしたら私はよっぽど滑稽なんだろうなとも思った。
「もし君がまた誰かに恋したら、それは運命ってことにはならない? で、それが運命なんだとしたら、リョウくんとは運命じゃなかった?」
「ち――違うわ、運命よ。でも」
「どんな間柄だって運命はあるって、それは確かにそうかもなって思うよ。星の巡りって言ったり、日本なんかだとご縁があるとか言ったりもする。袖振り合うとか。だけどそういうのを哀しくしたり逃げ道にしたり言い訳にしたりしてたら、誰もかれも生きてなんかいられない」
 真夏の青空。
 眩暈(めまい)を起こしそうな太陽と白い雲と影の濃さと木々のざわめき。
 顔を覆った。
 涙が(あふ)れた。
 ――墓前に参るときが来るのだろうか、と思ってしまった。
 それは、死なないということだ。
 紅子が、紅子の考える運命の片割れとしての役割を(まっと)うするのを放棄するということだ。
 何を、どこを、どのように信じればいいのだろう。
 途端にわからなくなった。
「運命論でいくなら、今日さ、俺が君の自殺を止められたのだって運命だよ。それがもし本当なら、俺が君の自殺を止める、君が俺に自殺を止められるって運命を課してくれたのは」
「言わないでよ。もうとっくにわかってるから」
 死に目に逢えたらどんなによかっただろう。ひとりで ()くのは寂しいと言ってくれていたら、アホンダラがどんな言葉を尽くしたとしても、紅子は迷わなかった。生きて幸せになるんだよと言ってくれれば、一生喪服を着続けてでも、意地でも微細な幸福を拾い上げてみせる。
 依存している自分が恨めしい。彼は負担に思わなかったのだろうか。
 後悔は山ほどあった。
 未練に至っては吐き気がするほどある。
 ただ、運命という言葉がなくても、アカシックレコードを読み取れなくても、自分はほんとうに心から彼を好きなのだと。
 愛しているのだと、思い知ったみたいに再確認して、「あいしてる」のひとことを音にして届けられなかったことを、ひどく苦しく、哀しく思った。
 ――会いたい。
 何度も言おうとしたのに言えなかったのは、真実彼を愛していたからだ。相手に好意を伝える言葉が日本にはとても多くて、その分「あいしてる」が遠かった。彼に対して、紅子はまるで初恋真っ只中の思春期の少女みたいになってしまったから、なおさら口にできずにいた。

 照れずに言えるようになる日が来ると、なんの疑いもなく信じていた日々。




「名前なんていうの?」
 もう既に顔がむくんでいる気がする。
 瞼を真っ赤に()らして、紅子は玄関でアホンダラに尋ねた。
「上? 下?」
 靴を履きながら、アホンダラがふり向く。

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