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 紅子がようやっと泣きやんだ頃、空は茜色一色に染まっていた。
 青かった空が赤くなる。そうしたら今度は紺色になり、墨色になって、だんだんと藍色になり、桃色や橙色や金色を経たあとまた青くなる。
 毎日晴れなわけもないのに、夏の思い出はいつも晴れだ。
「この際だから両方教えて。方っぽだけって気持ち悪い」
 はあぁ、と疲れた溜息をついて髪を()く。泣くのは結構な体力を使うから、泣きやんだあとがつらい。
 アホンダラが少年みたいな顔で笑った。
鶴丸(つるまる )宗太(そうた)
「つるまる?」
「鳥の鶴に本丸の丸で鶴丸」
「……なんていうか」
 笑うしかない。死のうとしていたところに瑞鳥(ずいちょう)が飛んでくるなんて。
「縁起いい名字で気に入ってるんだ。武将みたいでなんかかっこいいし。君は?」
「八木沼紅子。(くれない)に子で紅子。やぎぬまは、柳じゃなくて八に木の方」
 紅子の足もとには清涼飲料水のペットボトルが五本、乾いたタオルが五枚、濡らして絞ったタオルが三枚、Tシャツが二枚、薄い素材のハーフパンツが一枚。
 それから、凍らせた冷え冷えが三枚。
 すべて、宗太が吉永氏の助力を仰ぎつつ用意してくれたものだ。
 紅子の名前を聞き、宗太が控えめに笑った。少年の笑顔ではなく、穏やかな青年の微笑。
「縁起いい」
「……そう?」
 はじめて言われた。
「赤い色って魔除けの色。八は末広がりだし」
「ああ」
 そう言われればそんな気もする。名前にラッキー要素を見出したことなんかなかったから、なんだか新鮮だ。
「明後日は本物の嘉川急便が来るよ。早ければ明日」
 はい、と紅子にがま口の財布を差し出してきた。そこまでしてもらう義理はない。ここまでだってもう十分すぎるほどなのに。申し訳なくて突き返そうと思ったのに――
 ――できなかった。
 宗太のてのひらが、とても大切なものを包むように、紅子のてのひらごと包んで確かにがま口を握らせたから。
 ――ありがとう。
 どのタイミングで言えばいいのか、迷っている。
「なんで」
 ()らせた喉で低い声で問うと、宗太が顔を引き締め、真剣な表情でぐっと親指を立てた。
「取り敢えず、布団とカップ麺が届くと思う」
 ここまで来てしまうと、さすがに肩の力が抜ける。頬が笑みにほどけた。
 紅子が口にした「なんで」はそちらの意味ではないのだけれど、それをいちいち指摘するほど、紅子は子どもになれなかった。
「差出人はTさん?」
「いや」
 宗太はやはり、至って真面目な顔だ。それがおかしい。紅子は声を立てて笑いそうになるのを必死で堪える。くちもとがむずむずした。
「差出人は、君の運命のひとに君の手助けをする運命を課せられたひと」
「イコールTさんでしょ」
 呆れているふうを装って言ったら、そうかもしれないね、と、力を抜いた宗太が笑った。
 確信はあったし、それ以外あり得ないとわかってもいたけれど、紅子も「そうだったらいいな」と可能性を願う希望を抱いた。
 宗太の背中を見送りながら、てのひらの中のがま口をそっと握る。熱を持っているのは、宗太の体温が残っているからだろうか。それとも、夏の体温だろうか。
 自分が熱いのかもしれない。
 ――そんなこと、リョウくんは望まないと思うよ。
 そういう台詞を、宗太は言わなかった。一言も。だから紅子は宗太を受け入れられる。
 宗太はこれから帰る。
 紅子はまた、この部屋にひとりで残る。
 もう日は暮れて、誰も紅子に気づかなくなる時間が来る。
 でも、紅子は死なない。

 明後日、早ければ明日届くらしいカップ麺を、食べたくなってしまったから。





end.

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