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 外がどんなに寒くても、今あたたかい部屋にいるのだという事実は、ひとをとても安らかにさせる。
 ゆめは楽しそうに肩を揺らした。
「全然。住んでるところくらいで幻滅なんかしません。わたしが好きなのはステータスとかスペックじゃなくて、陣内さんですもん」
「恥ずかしげもなく……」
「言わなきゃ伝わらないじゃありませんか」
 それはそうだが、そうじゃない。
「風呂に入ってこい。着るものは貸してやる。……いちいち期待した顔をするな!」
「だってそんなの期待しちゃいますよ! 好きなひとの家でお風呂で、しかも着るもの貸してもらえるとかそんなの!」
「もう貸さん」
「すみません!」
 謝りながらも喜色(きしょく)を隠しきれない笑顔を残して、ゆめは風呂場に消えていった。
 まったく、どういう育てられ方をしたらあんな脳内お花畑馬鹿になるんだ――と、呆れ半分、怒り半分。怒りは、あまりにも危なっかしいからだ。もし本当に寛人がその気になったらどうするつもりなのだろう。交流と呼べる交流などしたことがないのに、抱いてくれとまで言われる所以(ゆえん)がわからない。好きだから、一目惚れだからと、そんな理由で始末をつけられるものなのだろうか。
 リビングのソファに沈み込んで考える。
 世の中には、望んで『はじめて』を金で売る者がいる。そんなことは知っている。だが、ゆめがそうだとは思えなかった。大体、彼女は買ってくれと言ったわけではないのだ。
「お風呂、ありがとうございました」
「……ああ」
 やはりなんの気配もなく、いつの間にか(かたわ)らに来ていた。
 ゆめが、ちょこんと隣に座る。
「近い」
「近くに座ったんです」
 寛人が貸したスウェットの上下を着たゆめは、なんだかとても小さく見えた。ゆめは特別小柄なわけではないが、寛人自身に上背があるから、身長差も体格差も歴然としているのだ。
 マフラーに隠れて見えなかった首筋が、今は(あらわ)だ。
 風呂上がりの肌はしっとりとぬくもって、うっすら色づいていた。
 いつもなら、迷わずいただくところだ。
 でも、その気にならない。
 魅力的だとは思っている。悔しいが、認めざるを得なかった。細い、今は薄桃色の白い首はやわらかそうで、眩暈(めまい)がするほど甘い香りがする。
 とんでもない、ちょっとやそっとでは得難いご馳走だ。
 しかも相手は寛人に惚れていて、抱いてくれとご丁寧に志願までしてくれている。こんな好機、そうそうあるものではないのに。
「お前」
「ゆめです」
「上月」
「ゆめですってば」
「今、何考えてる」
「……陣内さん、お風呂入らないと風邪引きますよって考えてます」
「誤魔化すな」
「……」
 睫を伏せて、ゆめが震える吐息をついた。長い、長い。
「どきどきしてます」
 寛人も息をついた。長い、長い。
「もっと自分を大事にしろ」
「大事にしてます」
 震える声のまま、袖の余ったスウェットに隠れた手が(こぶし)を握る。
 ぎゅっと、強く握りしめたのがわかった。
「お前の――」
 馬鹿さ加減。じゃなくて、
「――素直なところとか、一途(いちず)なところとか、そういうのを大事にしてくれる男と、いつか()うだろう。そういうやつとするのがいい」
 処女がいいなんて思っている寛人が言っても説得力に欠けるのだが、ゆめは深刻に(とら)えたようだった。
「はじめては、はじめて好きになったひととしたいんです」
「はァ?」
 思わず嫌そうな声が出た。( うつむ)いていたゆめがぱっと顔を上げ、寛人を真正面から見る。
「初恋なんです! みんながみんな、十代で初恋を迎えるわけじゃないんですよ!」
 そんなことは思っていない。興味がないといった方が正しいが、とりあえず黙っておいた。
 ゆめは憤然(ふんぜん)としている。
「わたしは、処女を捨てるとか捧げるとか、そういうふうには思ってないんです。ただ、はじめて好きになったひととしたいんです。それだけなんです。はじめてとはじめてはセットがいいんです。はじめては二回目はないんですよ。最初の一回だけがはじめてなんです!」
 何を言っているのかまったくわからない。
「俺じゃなくたっていいだろう……」
 あまりにも理解不能だ。どう説得したものかと身体を引いて向き合おうとしたら、がしっと胸倉(むなぐら)(つか)まれた。そのままがくがく揺らされ訴えられる。
「もぉおっ、だから! わたしの初恋の相手が陣内さんなんですって、さっきから何回も、好きですって何回も何回も、抱いてくださいってわたし何回言いましたか? 聞いてました? あなたの顔の横についてるこれは綺麗な貝殻(かいがら)か何かですか? 好きなんですよ!」
「なんで俺なんだ」
 どんっ、と勢いよく突き飛ばされた。
 いまいち頭が働いていなかったところに完全な不意打ちを喰らい、寛人の身体は呆気(あっけ)なくソファに倒れ込んでしまった。
「おい!」
「ゆめですってば! ゆめ! ゆめです!」
 改めて寛人の胸倉を掴み直したゆめが、恥じらいのはの字もなく馬乗りになってくる。
「なんでとか……恋にそういうのっているんですか? 落ちちゃうんだから仕方ないじゃありませんか。わたし、あなたに落とされちゃったんですよ」
「本当に俺の責任なのか? それは」
 寛人の冷静かつ呆れきった声と言葉に、ゆめがやや怯む。
「…………違います…………けど…………」
 また唇を尖らせる。
 (つま )み上げて引っ張りまわして痛い目を見させてやりたいが、触れたらおかしくなってしまいそうで怖かった。そんなふうに感じている自分自身が新鮮で、同時に腹立たしい。
 そして、ゆめが気の毒だった。
 どうやら、ゆめは『はじめて』をとても大切にして、特別視している。寛人だって、女性にとってはじめては特別だということは知らないわけではない。でも――
 ――だからこそ、気の毒に思う。
 どうして、ゆめみたいな女の子のはじめての恋の相手が、自分みたいな男なのだろう。もっと大切にしてくれる相手が、いくらでも見つかるだろうに。
 ゆめが美少女だからそう思うのではない。彼女がとてもひたむきだから思うのだ。
「……こんな体勢でいても、俺はお前に()みつきたいと思わない」
 少し、嘘だった。ほんの少し。

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