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 まったく思っていないわけではないけれど、それよりも、ゆめにゆめ自身を守って、大切にしてほしかった。
「えっ? あっ……もう一回言ってください」
 寛人にしては恐ろしく殊勝なことを考えたのに、ゆめはあっさりぶち壊してきた。
「は?」
「さっきの。もう一回言ってください」
 わりとひどいことを言ったつもりだったのだが、何故かゆめは頬を染めた。わけがわからなかったが、そんなのは今にはじまったことではない。哀しいかな、現在に至るまで、ゆめは寛人からすればわけがわからないことしか言っていないのだ。
「……『こんな体勢でいても俺はお前に噛みつきたいと思わない』」
 棒読みだったが、()われたとおりに繰り返した。すると、胸倉は掴んだまま、ゆめは突然寛人の腹の上にぎゅうっと(うずくま)った。
「ううう、かっこいい……!」
 今の台詞(せりふ)のどこが。
 心配して損した。
 ひとしきり寛人の腹の上で身悶( みもだ)えたあと、すっと身体を起こしたゆめは、なんだか不敵に笑っていた。
 怖い。
「そんなこと言ってられるのも、今のうちだけなんですからね」
 細い指先が、寛人の顎をつ、となぞる。
 それは久しぶりの感覚だった。
 一瞬背筋を駆け抜けた電流の名を、寛人はよく知っている。
 与えることはあっても、一方的に与えられ、強制的に感じさせられることのない種類のものだ。
大晦日(おおみそか)までに、噛みつきたいって思わせてみせますから」
「……たいした自信だな」
 ――やっぱりこんなもん拾うんじゃなかった。
 とんだ爆弾ではないか。
「期限切らないと逃げられちゃいそうですからね。除夜の鐘が鳴り終わるまでが勝負です。それまでに、あなたを落としてみせます」
「もう一週間もないが」
「十分ですよ? 恋に落ちるのなんて(まばた)き一回よりも早いんですから。わたしが一瞬で落ちたみたいに」
 クリスマス。今日は十二月の二十五日。
 確かめるまでもない。
 もうすぐ日付が変わるから、二十六日になる。寛人自身が言ったように、もう一週間もない。
 ――あと六日。
「はじめてもまだの小娘だと思って甘く見ない方がいいですよ。血が薄まってるとはいえ、サキュバスなめないでくださいね」
 これは、先ほどまでぎゃんぎゃん騒いでいたのと同じ人物なのだろうか。まるで別人だ。
 この、余裕の微笑。
 顔が引き()るのがわかる。
「今までのは演技か?」
 猫をかぶっていたどころではなかったように感じる。が、ゆめは思いがけないことを訊かれたといった顔をした。
「演技? いつ? ――まあ、女の子って好きなひとの前ではかわいい自分でいたいわけですから、そういう意味ではハリウッド女優にも引けを取らないと思います」
 無意識なんて、そちらの方が恐ろしい。女ってのはみんなこうなのかと考えると、男がいかに単純で繊細でかわいげのある生き物なのかがわかる。
 ゆめは大きな目を悪戯っぽく細めて、仕草だけはあどけなく小首を傾げた。
「わたしの下になった時点で、陣内さんの負けは決まったようなものなんですよ」
「あ――おっ……まえ、この、上月! 逆だろうそれは!」
 サキュバスの語源といわれている『succubo』。ラテン語で、意味は――
 ――『下に寝る者』。
「どうせ主導権を握るのはわたしですって意味ですよ。ふふ、いい眺めですね。絶景です。かわいいですよ、陣内さん」
「……あんまりからかうなよ、やっと初恋迎えたばっかりの処女の小娘が」
 実のところ寛人も恋はしたことがないのだが、むろんそんなことは口が裂けても言わない。
 ゆめは至極(しごく)楽しそうに、ふふっ、と笑った。
「主導権は陣内さんのものだって証明してくれるんですか? わたしはかまいませんよ、今すぐでも。ポーチの中にありますからねっ」
 何が、なんて怖くて訊けない。答えなどわかりきっている。それに、そんな証明の仕方は寛人の負けを意味している。
 ――これが処女? ばーじん? 初恋を迎えたばっかりの!
「陣内さん、いいこと教えてあげましょうか」
「いらん」
 思いきり吐き捨てた。が、案の定ゆめは聞く耳を持たない。
「そんなこと言わずに。きっと攻略の参考になります」
 ――攻略って、どっちの攻略だ。
 もしかしたら、もうとうの昔に退路など断たれているのではないか。だって、触れ合っている部分が熱い。指先に顎を辿(たど)られているだけなのに、その触れ合っている面積とも呼べない狭い面積が、燃え上がるように熱いのだ。
 かわいらしいタイプに食指は動かない。今まで、例外はひとりたりともなかった。ゆめはどう贔屓目(ひいきめ)に見てもかわいらしいタイプで、美女ではないのに。
 白い細いゆめの指が、つんと寛人の唇をつついた。
「視線や声に魅了の魔力を持ってるのは、ヴァンプの皆さんだけじゃないんですよ、陣内さん」
 ゆめがゆっくりと身体を倒してくる。甘い香りに眩暈がする。
 胸がひたりと隙間なく触れ合った。
「わたしとキスしたいって、何回も思ったでしょう?」
 ゆめはそう言って、至近距離で寛人と眼を合わせたまま、ちゅっとかわいらしく唇を鳴らした。
「……後悔するぞ」
「しませんよ」
 眉間に皺を寄せて、思いきり不機嫌な声で威嚇(いかく)するように言ったのに、ゆめはやはりまったく堪えない。まるで恋人とじゃれ合っているような笑顔で、かわいいから腹が立つ。
 今すぐにでもキスしたくなる。小ぶりな、かたちのいいぽってりとした赤い唇。
「んぅっ」
 むぎゅっ、と(つね)ってやった。
自惚(うぬぼ)れるなよ。俺はお前みたいな馬鹿に食指は動かん。どけ」
「いたぁいぃ」
 唇を両手で覆って涙目になっているゆめを無理矢理どかして立ち上がる。そういえばまだ風呂にも入っていないのに、身体の冷えはすっかりどこかへ行ってしまっていた。
「ううう、わたしのいちばんの武器なのに」
 自覚があるのはさすがだ。
「百八回目の鐘が楽しみだな。泣き崩れるお前の姿が目に浮かぶ」
「嬉しくて泣くでしょうね。改めて言っておきますけど、期限は鐘が鳴り終わるまで。百八回目はまだ期限内ですから」
 見下ろして鼻で笑ってやったのに、ゆめは唇を擦りながら、自信たっぷりに笑い返してきた。
「……どこから来るんだ、その自信は」
 思いきり睨みつけてやったのに。
 やっぱりゆめはまったくめげないし、まだ何も知らないくせに、笑みは余裕そのものなのだ。
「キスしたいと思って、わたしの下にまでなっておいて、それで逃げきれるなんて本気で思ってるんですか?」
 ふふ、と笑う声が耳にくすぐったい。
「先日生理も終わったところなので、そっちの心配はご無用ですからね。いざとなったら押し倒しちゃえばいいかなって思ってますけど、やっぱり愛が欲しいので、容赦はしませんよ。だから、」
 嫌な予感がする。
 そして、嫌な予感ほど外れない。
 いくら処女でも、ゆめみたいなタイプに食指は動かないはずなのに。なのに、こんな。
 運命が決まるまで、あと六日。
 こんなの、まるで――
 ゆめは、これ以上ないくらいにかわいらしく笑った。
「覚悟してくださいねっ」
 ――――――――――悪夢だ。
 寛人にとって死刑宣告にも等しい宣戦布告をして、ゆめはちゅっとキスを投げ、おまけに魅了の視線でウインクをした。
 長い睫に(はじ)けた星は、(きよ)らな夜に不思議と溶けた。





end.

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