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さらば、403号室





 403号室のネームプレートは(から)だった。
 突然のことなのに、驚きはない。
 ああ、ついに、と思うだけだ。
 美代子(みよこ)(きびす)を返して階段を下りる。蝉が鳴き喚く炎天下のアスファルトを汗をだらだら流しながら帰って、アパートの大家に金槌を借りた。
 合鍵を叩き潰す。引っ越しのたびに鍵は新しいものに替えるのかもしれなかったが、それでも鍵をそのままの状態で無防備に捨てるのはいただけないだろう。もしも鍵の付け替えがないのだとしたら、美代子は知らないうちに犯罪の片棒を担ぐことになるかもしれない。
 叩き潰してぺたんこになった鍵は、キッチンの奥の方に突っ込んである金属類の袋に入れた。来週は、ちょうどよく金属類を捨てられる曜日がある。



 ぴんぽぉん、とチャイムが鳴った。
「どーぞォ」
 投げやりに言ってから、聞こえるわけがないことに気づく。美代子は立ち上がって、一応ドアスコープで客人を確認し、ドアを開けた。
「ごきげんよう。いやあ、暑いね」
 じゃかじゃか鳴く蝉の声をBGMに、書割(かきわり)のような青い空を背景にして、(みやび)は気安い調子で、畳んだ白い日傘を持った片手を上げた。
 言葉のわりに暑そうに見えないのは、こざっぱりと涼しげな浴衣姿のせいだろうか。白地に(こん)紫陽花(あじさい)模様。きっぱりと二色しかない。それがとても(いさぎよ)かった。帯の若竹色(わかたけいろ)(さわ)やかだ。
 美代子は、彼女が洋装しているところを見たことがない。
 雅はぶら()げていたビニル袋をひょいと美代子に渡した。丸くふくらんだそれはかなり重い。
「スイカだよ。お裾分(すそわ)けでいただいたんだけど、その数実に六玉でね。夫婦ふたりじゃ食べきる前にだめにしちゃいそうだから。スイカ、好き?」
「持ってくる前に()いてよぉ」
 ビニル袋の口を開き、中を確かめながら笑う。スイカは丸々と太っていた。
「こんなん切っても冷蔵庫に入らない。大きすぎる……まあ、とりあえず上がって。暑い時間に呼び出してごめんね」
「いやいや、ほかならぬお美代ちゃんの呼び出しなら、いつでも」
 雅は首を振り振りドアを閉めると、帯と同じ若竹色の鼻緒の下駄を脱いだ。「ちょっと失礼していいかな」と美代子に了承を取り、玄関口に座って手際よく足袋(たび)()く。
 (すそ)も割らずによくそんなことができるな、と感心しながら、美代子はまな板に特大のスイカを乗せた。ざくっ、と重い音とともに、手首にまでずしりと重圧がかかる。
「い、一発で切れない」
「大きいからねぇ。扇風機の前に座らせてもらってもいい?」
「いいよー。お茶、出すね」
 と言いながら、もう一度包丁に力を乗せる。少し回しながらぐぐっと下ろして、スイカはようやくふたつに割れた。



 美代子と雅はぬるいスイカをしゃくしゃく食べた。どうしても冷蔵庫に入りきらなかったのだ。雅はいつものように、折り目正しくきちんと正座した。床にコースターを直接置いて、その上に落ち着けた麦茶はもう飲み干されている。氷はとうに溶けていた。
「入道雲、あった?」
「いや、今日は快晴だね。雲はなかったよ。入道雲好きなの?」
「夏ーっ、て感じで好き」
 くちもとを隠して種をぽろぽろ出しながら言うと、雅は軽妙な笑い声を立てた。
「うん、わかる」
 真夏の快晴を歩いてきてくれた雅のために、美代子はエアコンの設定温度を少し下げた。それがようやく部屋をめぐってくれて、(わず)かに室温が下がったのが肌で感じられる。小さな古い扇風機の音が、なんだか間抜けだった。
 雅が、(しと)やかな姿にはちょっとそぐわない無邪気な様子で、扇風機に顔を近づける。彼女の黒い前髪が、さらさらと吹き上がった。
「雅、スマブラできる?」
「こないだ教えてくれたやつ? 吹っ飛ばすのだよね?」
 扇風機の風に流れて、声が少し揺れていた。
「そうそう、それそれ」
 スイカを食べ終わった指を布巾で拭う。雅はまだしゃくしゃくしていた。ささっと準備を整えて、ちょうど食べ終わった彼女に布巾を渡して、次にコントローラーを手渡す。
「この黄色いうさぎにしよう。ほっぺがオカメインコみたいでかわいい」
「雅、それうさぎじゃなくてネズミ」
「え、どこが?」
「それはキャラデザに訊いて。とにかくネズミ」
「ふうん? まあ、うさぎにしては()えてるかなあ」
「ネズミにしたって肥えてるよ。ちなみにこの子放電するんだけど、電気ネズミって言ったら怒るの」
「かわいいねえ」
 雅は何故か強かった。普段コントローラーなんて触りもしない、どころか意識に上ってすらこないものだろうに、何故だかぽんぽん近づくものみなぶっ飛ばす。しかもちょこまかうまい具合に逃げ回る。
「私さあ」
「うん」
「一週間くらい前なんだけど。あー、気づいたのが一週間前だから、もしかしたらもっと前かもしれないんだけど――ああっ、やばい飛ばされる!」
「あ、私もまずい」
「ああー、あああ、おのれマリオ……。でね、一週間くらい前に気づいたのね、私、ふられたの」
「それはまた唐突……唐突になるのかな? だね。ああっ、飛んだ!」
 それからしばらく、ふたりは飛んだだの飛ばされただのと、会話にもならない会話を続けた。
 風流を感じようというのではない、ただ実家にいた頃の習慣から、美代子は夏になるとなんとなく風鈴を窓辺にぶら下げる。エアコンをつけるから、もちろん窓は開けない。扇風機も、言うまでもなく風鈴に触れるような風を送ってはくれない。
 けれども、どうしてだか風鈴はたまに鳴る。
 ちりん、と(かす)かに揺れる。
 それを聞くたび、美代子は、ああ今は夏なのだ、暑いのだと思う。
 ことん、と床にコントローラーを置いた。電源を落とす。雅は何も言わなかった。
「行ってみたらね、なんとネームプレートが空だったのよ。引っ越すことすら知らなかったの」
 背伸びをして溜息(ためいき)をつく。
「お茶()れるね」
「ありがとう」
 美代子は食べ終わったスイカの皿を片手に立ち上がり、それを流し台に置くと、もう一度溜息をついた。雅が気を()かせて、トレイに載せたグラスを持ってきてくれる。美代子は礼を言うと、新しい氷を落とし、麦茶を注いだ。
 ふたりしてもとの位置に戻る。雅はやはりきれいに正座した。エアコンが利いているとはいえ、よくもこの夏に居住まい正しくしていられると思う。
「……ほんとはね、わかってるの。わかってたっていうか」
 麦茶をひとくち飲んで唇を湿し、美代子はぽつりぽつり語りはじめた。

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