Strawberry girl   


CALL YOUR NAME






「ねえ、魔王は本当はなんていう名前なの?」
 北の大国。その北東に位置する深い森の中にある大きな屋敷の南端の部屋で、(りく)赤銅色(しゃくどういろ)の短い髪をさらさらと揺らしながら尋ねた。
 中性的な顔立ちをしている上に、体型も華奢(きゃしゃ)な少年のようなので、一見しただけでは少年か少女かわからない。ただ、駒鳥が(さえず)るような甘やかな声や言葉遣い、仕草は少女のそれに近い。
 やわらかそうな赤銅色の髪と、(こぼ)れそうに大きな紅茶色の双眸(そうぼう)。特別に美しいわけではないが、長い(まつげ)薔薇色(ばらいろ)に透ける白い肌が、陸を不思議に繊細に見せた。
 季節は春。屋敷の南端の部屋は、硝子(がらす)の扉で庭に繋がっている。陽光が燦々(さんさん)と降るそこでは、明るい色の様々な種の花が咲き競い、若い緑が萌えていた。深い雪に閉ざされるこの国の春は短いが、そのぶん尊く、絢爛(けんらん)で美しい。
 風が花の香を(まと)って吹き過ぎる。開け放してある扉の枠も石畳のポーチも白くて(まぶ)しく、鳥が歌い、蜜蜂が飛び回る音がきらめくように賑やかだ。
 陸は春が一番好きだ。ラグの上に寝そべって日向ぼっこ、これ以上の贅沢(ぜいたく)があるだろうか。大好きな魔王がすぐ傍にいてくれて。
 白いレースのキャミソール一枚だけの薄着でうつ伏せになり、裸足の両足をぶらぶらさせる。春の午後は夢うつつで、陸はうとうとしながら返答を待った。
「ない」
 短く答えたのは、黒衣の男。
 氷が砕け散るような、低い涼やかな美声。
 均整のとれた長身は、まるで彫刻のように完璧な輪郭線を描いている。春という季節に似つかわしくない詰襟の黒い服をきっちりと着込み、今は脚を組んで椅子に腰掛け、分厚い本を読んでいる。
 その、白皙(はくせき)の美貌。長い漆黒の髪を背に流し、天工の細工としか思えない端正な顔立ちは、いっそ怖ろしいまでのものだ。触れようとすれば、その傲慢(ごうまん)さに罰を受けそうなほどの。
 紫水晶の瞳、視線はページに整然と並ぶ文字を追うばかりで、陸に投げかけようという素振りすら見せない。一日の大半を読書につぎ込む彼が、この屋敷の主だ。陸は魔王と呼んでいる。
「ない? ないっていう名前?」
 陸はきょとんと首を傾げ、身体を起こした。座り込んだ格好で黒衣の男を見上げる。
「お前たちが通常『名前』と呼んでいるものを、私は持たない」
「? 魔王には名前がないの?」
「ああ」
「? 名前がない? ってどういうこと? だって魔王、魔王って呼んだら返事してくれるのに? お兄さんたちだって、魔王のことヴァルグレイヴって呼んでるのに? それは魔王の名前じゃないの?」
「そうだとも言えるが、違うとも言える。それらを私の名だと思いたいのなら、そうすればいい」
 混乱しはじめた陸を尻目に、『魔王』は眉ひとつ動かさない。この男の鉄面皮は滅多なことでは崩れないのだ。
「ふうん、――?」
 抱え込んだ自身の膝に頬杖をつきながら、陸は首を(ひね)った。



 薄藁色(うすわらいろ)の長い髪を後ろで一本に纏めている。好奇心旺盛そうな瞳は、若葉の明るい緑。テラスの籐の椅子にちょこんと座っている陸に、蜂蜜を溶かしたミルクを差し出しながら、魔法使いは頭を掻いた。
「んー。なんて説明したらいいかなあ」
 マグカップにたっぷりと入ったミルクをありがとうと言いながら受け取って、陸は、少し困ったような顔の友人を見上げた。
 『魔王』の古い友人――『魔王』は決して友人とは言わないが――である魔法使い、ルンペルシュティルツヘンは、陸の隣にゆったりと腰掛けた。
 魔王の住まう森を出、小さな村をひとつ隔てたところにある、これまた小さな町の外れにぽつんと建っている彼の屋敷は半壊している。いつだったかの昔、解読中の古代魔法を実験した際に失敗して屋敷の半分を吹っ飛ばしてしまったのだ。が、ルンペルシュティルツヘンひとりが住まうだけの屋敷は半壊した状態でも充分広く、特に不便もない。直すのも面倒だという理由で、そのまま放置されている。
 だから、一見すると彼の屋敷は廃墟だ。それほど凄まじい壊れっぷりなのだ。
 ただ、南向きの庭だけは美しく手入れが行き届いていた。季節の花々が(あふ)れ、菜園には様々な種類の薬草や野菜が元気に日光浴している。ルンペルシュティルツヘンの趣味は庭いじりだ。
「えーと。そうだな。まず、魔法使いや魔族にとっては、名前ってのは最重要秘密なんだ。ついでに言えば、誕生日や出身地もな」
 陸に「お兄ちゃんって呼んで」と、語尾にハートマークをつけて頼んだ若葉色の瞳の魔法使いは、言葉を選びながら説明をはじめた。
「真の名前――生まれたときにつけられた名前ね。(まこと)の名っていって、特別視されてる。魔法学的には、魂そのものの名前のことをいう。それを知ることは、相手を支配することに繋がるんだ」
 ルンペルシュティルツヘンは、少量のミルクを加えた紅茶をひとくち飲む。
「いちごちゃんも知ってるとおり、魔族や魔法使いは言葉を支配する。支配する言葉によって『魔』を使役する。でもそれは、言い方を変えれば言葉に束縛されてるってことだ。もちろんその度合いは、魔法使いよりも魔族の方が強い。奴らは魔力そのものだから。で、ヴァル――いちごちゃんが魔王って呼んでるあの無愛想な男は、その『魔』そのものが実体化し意志を持った最初の存在だから、言ってみれば純粋な力の結晶体だな。『魔』っていう言葉が出来るより以前のものだよ」
「昔?」
「すご――――――――く昔」
 ルンペルシュティルツヘンはしかつめらしく(うなず)く。
「あいつには俺たちが持ってるような名前ってのはないんだ。誰にでも呼ばれるが、誰にも呼ばれない」
「……わかんない」
 陸は少し(うつむ)いて考えてから、唇を尖らせてそう零した。ルンペルシュティルツヘンは苦笑する。
「うん、まあこれは感覚でわかるしかないな。でも名前がないのは困るだろ。というより名前は鍵になるからないわけにはいかない。だから魔法使いは、魔法使いとしての名前を持ってるんだよ。一般的に、発音し難い、妙ちきりんな名前が多い。自分でつけたり、師匠につけてもらったり、学院に通えば入学と同時に与えられる。俺の、ルンペルシュティルツヘンてのもそうだよ。――それにしてもそうだな、ヴァルに関して言えば、いちごちゃんが呼んでる『魔王』って呼び名が、いちばんあいつを的確に表してるのかも知れないなあ」
 あたたかいミルクを飲みながら、陸はルンペルシュティルツヘンの話を反芻(はんすう)する。
 ……やっぱり、よくわからない。魔王は人でも魔族でも、神や精霊でもなくて、それなら一体なんなのだろう。いつも一緒にいるけれど、魔王はわからないことだらけだ。ルンペルシュティルツヘンは、どのくらい『魔王』のことを知っているのだろう。思って、陸は隣に座って紅茶を味わっている兄のような友人を見遣った。じっと見つめていると、視線に気づいた彼は、にっこりと笑って髪を撫でてくれた。陸は、えへへと少し笑う。ルンペルシュティルツヘンはあたたかい。
 ふと、その肩越しに、親しんだ黒い人影を見つけた。
「魔王」
 陸の声にルンペルシュティルツヘンはくるりとふり向き、おう、と言って片手を上げた。
「ようヴァル。お姫様のお迎えか?」
 『魔王』は何も言わずに歩を進め、籐の椅子に身を沈めている陸の後ろに立った。陸は嬉しそうに微笑んで、彼の手をきゅっと握る。『魔王』は無言、無表情のままだったが、陸には、そして彼とそれなりの時間を共有してきたルンペルシュティルツヘンにも、『魔王』が陸の存在を確かめて、纏う空気を和らげたこと感じ取った。若葉色の瞳の魔法使いは、ひっそりと笑みを()らす。
 陸の一挙手一投足に心を砕き、彼には信じられないことに、焦ったり困ったりする。ルンペルシュティルツヘンが知る限りでは、そんなふうに人間くさい振る舞いをする彼は、陸に対して以外見ることがない。陸の前でだけ、『魔王』は実に、生きているヒトのようなのだ。そしてそれは、ルンペルシュティルツヘンにはとても良いことのように思えた。
 それを目の当たりにするたび嬉しくなる。自分のことのように。ルンペルシュティルツヘンがそんなふうに考えているなどと知ったら『魔王』は思いきり嫌がるだろうが、嬉しいのだから仕方がない。
 そしてルンペルシュティルツヘンはいつものように、気づかれないようこっそり笑うのだ。



 赤く燃えはじめた空を見上げながら、陸は、
「魔王に名前がないの、お兄さんに訊いたら、魔王のこと教えてくれたよ」
 と言った。魔王は答えない。そうか、と瞳で頷くだけだ。いつものことなので、陸は一向気にしない。
「……魔王は名前がないんだね」
 空を行く鳥を数えながら、陸がぽつりと言う。
「魔王は誰にでも呼ばれるけど、誰にも呼ばれないってお兄さんが言ってた。でも、寂しくない?」
 夕日を映し込んで輝く紅茶色の瞳が、魔王をふり返る。
 陸はいつも魔王を驚かせる。
 魔王は、自身がいつから存在しているのかを知らない。それほど永い時を、魔王はずっと独りで存在し続けてきた。けれどある一点で、陸という存在と出会い、己を知って、魔王は独りではなくなった。そのときから、陸はいつも思いもよらないことを示してくる。はじめて出会ったときから変わらない。
「寂しいと思うのか?」
 静かに、魔王は尋ねた。
 陸は視線を(めぐ)らせ、考え込むように少し黙ってから、こくんと頷いた。
「うん」
 魔王は歩を休めた。気づいて陸も立ち止まり、魔王を見上げる。魔王は、陸の頬に指先でそっと触れた。
「ならば、お前が好きな名をつければいい」
「名前……つけるの? 陸が?」
「ああ」
 魔王は短く答えた。
 ――そう、好きな名を、つければいいのだ。
 陸が望むままに、魔王は存在するから。もうずっと以前、遥か昔から、魔王はそうして陸を想い続けてきたから。
「私のすべてはお前のものだ」
 魔王には真の名すらない。それは根源がないということだ。何ものをも支配し得ず、また、支配されることもない。
不安定な存在だ。陸を安定させたために。
 陸は、平らかな瞳に真っ直ぐ魔王を映して――頬を撫でる彼の手に、自身の小さな手を重ねた。
「魔族と魔法使いにとって、名前は大事な秘密だって」
「ああ」
「束縛だって」
「そうだ」
 だから。
 ――だからこそ。
 魔王は(わず)かな音も立てず、大気にさえも影響を与えず静かに(ひざまず)いた。自身の手を包む陸の手を取り、そっとその甲にくちづける。陸は不思議そうに魔王を見つめた。
「魔王はものじゃないよ。陸にぜんぶを()められるのはいやじゃないの?」
「……私は束縛を得なければ私として存在できない。あらゆる生き物とまったく異なる。――お前とも異なる」
 東の空に星が(またた)きはじめた。濃紺がゆっくりと広がっていく。森は闇に包まれ、静寂に包まれる。生命がひととき安らぐ静謐(せいひつ)
 陸が、ふと微笑んだ。片膝をついた魔王の首に細い腕を伸ばし、ぎゅっとしがみつく。
「魔王、大好き」
 魔王を抱き締めて、大切そうに(つぶや)いた。そして少し離れると、魔王の額に、こつんと自身のそれをぶつける。くすくすと小さな笑みを()らしながら。
「じゃあ、魔王と陸の秘密」
 陸の小さなてのひらが、魔王の両頬を包む。そうして、闇が濃くなりはじめた森の中で、魔王はほんの少しの間、陸と見つめ合った。陸の肌のやわらかさを、体温を間近に感じる。たまらなくなって、陸の(はかな)い身体をそっと抱き寄せた。
 くすくす笑いながら、陸が耳元に唇を寄せてくる。
「ひみつだよ。魔王の名前はね、――」
 陸だけがなし得ること。
 空では、星座たちが踊りながら、それぞれの指定席につきだしている。月は(さや)かに光を地上に降らせていた。
 そこで、陸は密やかに、魔王にささやかな、そして甘い束縛を施した。
 それはまだ確かなものではなかったけれど、魔王はそれでも満ち足りることができた。





end.
  Strawberry girl



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