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Strawberry girl






 誰にでも、得意なことがひとつやふたつはあるものだ。
 (りく)に関して言えば、それは歌だった。
 甘く透き通った高い声。けれどそれは高音にありがちな硬質な感触はなく、どこまでもやわらかい。春を喜び歌う小鳥を連想させる。
 陸はよく歌った。本のページをめくりながら、日向ぼっこをしながら、水浴びをしながら、うとうとと眠りかけながら。木々のざわめきや遠い鳥の声以外、大して音のない静かな魔王の屋敷周囲では、陸の歌声はことのほか美しくやさしく響いた。陸が歌うと、世界は一層の静寂に包まれる。まるで、世界が陸の歌に聞き入っているかのように。風は止み、鳥は口を(つぐ)み、植物は沈黙を濃くする。あるとき魔王の屋敷を訪れた彼の友人のひとりであるラウルは、陸の歌声に惚れ込み、天上の歌声だと言って褒めそやした。
 そして今日も、屋敷のすぐ近くにある小さな泉から、陸の歌声が流れている。
 春も盛りのこの頃は、日中は少し暑いほどの陽気だ。陸は水遊びが好きなので、暖かくなってくるとうきうきしながら泉まで遊びに行く。
「ああ、美しいな……」
 南端の部屋の白い円卓、上には紅茶とショートケーキ。魔王は客人の向かい側に腰掛けて、相変わらず本を読んでいる。茶菓子も、もちろん魔王が用意したものではない。この男はそんなまともなことはしないのだ。もてなすという言葉は彼の中には存在しない。
 ひょっこりと遊びに来て、勝手知ったるとばかりに自分で茶菓子の用意をした客人は、不思議に青く光る暗色の髪と、同色の豊かな髭の、冬の海のような濃紺の瞳の壮年の男。陸の歌声を気に入った、ラウルという名の大柄な紳士だ。魔王よりも長身で、がっしりとした体格をしている。一見した印象は、貴族そのものの優雅な物腰。その正体は、人間に好意と興味を抱いている魔族。
 遠くから、高く低く微かに聞こえてくる声に耳を澄ましながら、ラウルは目を閉じてそれに聞き惚れていた。魔王は黙々と本のページを繰っている。
 昼下がり、陽光はあたたかく、景色は明るい。外はあまりにも光に(あふ)れていて、室内はいっそ薄暗いような気さえする。夏も近い。ラウルがふと、(まぶた)を開いて魔王を見た。
「ときに、ヴァルグレイヴ」
 穏やかな声。魔王は完全に無視を決め込んでいる。が、それは別段珍しいことでもなんでもない。彼と半刻も付き合えば、魔王が寡黙(かもく)――寡黙を通り越した寡黙であることは、すぐにわかる。おまけに愛想もない。だからラウルも、返事がないことなど気に留めない。
「貴方はショートケーキの苺を、いつ食べる?」
「…………何?」
 魔王が秀麗な眉を(ひそ)めた。が、視線はまだ本に向けられたままだ。
「ショートケーキの苺を、いつ食べるかと尋ねたんだ」
 ラウルは温厚な微笑を浮かべて、質問を繰り返した。
 沈黙が落ちる。
 緑に萌えた葉が、きらきらと日光を反射して輝いている。陸の甘い歌声は終わることなく流れ続けている。――さらに数秒、沈黙。そしてやっと、
「私は人間がするような食事はせん」
 春に似つかわしくない、無愛想な低い声が返ってきた。ラウルは笑う。
「それは私も同じだ」
 魔王や魔族は、人間がするような食事をしない。魔族といっても様々で、一概に言いきることはできないのだが、彼らは大抵ヒトを喰らう。ヒトを喰らう、の意味は様々だ。文字通り人間の肉を好むものもいれば、魂を欲するものもいる。生き物が生きている力、精気を食す魔族も少なくない。魔王は、厳密に言えば魔族とも少し違う存在なのだが、ヒトか魔族かといえば魔族により近い。
 魔王もラウルも、ヒトの精気を生命の(かて)としている――ラウルはともかく、魔王は実のところまったく必要ない。あっても困らない、ないよりある方がいい、そんな程度。
 ともあれ、魔王もラウルも基本的にものは食べない。
 ――はずなのだが。
 ラウルは何をどうしてそこに行き着いたものだか、菓子作りを趣味としていた。
 菓子というのはつまりケーキだのビスケットだのといったもののことだ。彼にとっては食べても毒にも栄養にもならないが、何をきっかけとしたものだか、ラウルは菓子を作っては魔王のところへ持ってくる。ちなみに陸も食事は不要だ。陸はヒトでも魔族でもない。では何かと問われれば大いに返答に(きゅう)するが、なんにせよ食事はしない。陸が自分から進んで摂取するものといえば、ミルクと蜂蜜くらいのものだ。
 分厚い本を手にした漆黒の髪の友人を、目を細めてラウルは見遣る。陸の声がふと途切れた。
「まあ、なんというか、ものの例えだ。いつ食べる?」
「いつ、というのはなんだ」
「いつと言ったらいつだよ。最初に食べるか、最後に食べるか」
 高いところで鳥が鳴いた。花が香る。春は絢爛(けんらん)。魔王は溜息をひとつついて、面倒くさそうに答えた。
「途中だ」
「途中?」
「ああ」
「……………………ふむ。それはつまり、ケーキを食べていって、苺が乗っているところまでいったら苺を食べると、そういうことかね」
 魔王の答えに、ラウルは頷きながらも、どこかつまらなそうにした。
「なんだ」
 魔王が低く問う。何が不服か。魔王はいい加減面倒くさくなってきた。
ラウルは豊かな顎髭(あごひげ)をさすった。
「いや。――そうか途中か。それは思いもよらなかったな――」
 何と答えて欲しかったのか。魔王はやっと視線を上げ、無言で問うた。
「うん――」
 ラウルは顎をさすった手で、そのまま頬杖をついた。
「てっきり後で食べるのかと思ったんだが」
「……」
「目の前に実に美味しそうな苺があるのに、まだ食べていないようだからね」
「……」
「楽しみは後にとっておく性分かと」
「……」
「そうか、途中か。それは我慢するが半ばで限界がくる、ということかね?」
 魔王は押し黙っている。ラウルは愉快そうに、悪戯(いたずら)っぽく問う。
 春。
 世界は明るい。生命は躍動している。一度途切れた陸の歌声は、今度は別の旋律を(つむ)ぎはじめた。空はどこまでも青く、ホイップ・クリームのような雲が和やかに浮かんでいる。
「否定はせんでおこう」
 魔王は短くそう答えた。珍しく少し笑っているように見えたのは、ラウルの気のせいだろうか。





end.
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