TEMPTATION  |  TRY HONEY   


Sleeping Beauty






 魔王の屋敷は、北の大国の北東に位置する深い森の中にある。
 古い森とか暗闇の森とか奈落の森とか絶望の森とか、ろくな名前で呼ばれていないこの森は、昼なお暗く静かでひとの気配がない。人間が近寄らないのだから当然といえば当然の話だ。
 村や町によって、森に住むのは神だとか魔族だとか亜人種だとか竜だとか、色々と勝手に想像されているが、(おおむ)ね人々はこの森を聖域としている。怖れながらも、(おそ)れ、敬っているのだ。
 その理由のひとつに、魔王の結界が挙げられる。森を囲む結界は強力で、普段人々にその存在を特別に意識させない。だからもちろん、その森の奥に、木々が途切れてぽっかりと明るい場所があることは知られていない。
 そこに、魔王の屋敷はあった。否、魔王の屋敷があるからこそ、樹木が場所を開けているのかも知れない。どちらが先なのか知る術はなかったが、とにかく、魔王の屋敷は昼は陽光に(あふ)れ、夜は月に照らされて明るい。特に手入れをしているわけでもないのに、庭はいつも整っている。屋敷の外壁を()蔓性(つるせい)の常緑の葉、南に張り出した部屋の硝子(がらす)の扉を飾る蔓薔薇(つるばら)。屋敷には薔薇の花が多い。種々様々、色とりどりの薔薇が息づいている。
 春も深まり、夏の足音が聞こえはじめた頃。庭の植物たちはますます勢いを増している。薔薇たちも競うように花を開き、魔王の屋敷は文字通り華やかなときを迎えていた。
「気持ちいいねえ」
 短い、やわらかそうな赤銅色(しゃくどういろ)の髪と、紅茶色の瞳。陽光を透かす肌は白く、頬や唇がふわりと染まっている。白い丈長のキャミソールから伸びた脚は華奢(きゃしゃ)だが健やかで、裸足であるところがなんだか悪戯(いたずら)っぽい。魔王の友人である壮年紳士――あくまでも外見年齢――ラウルが、薔薇色のお嬢さんと呼ぶのも素直に(うなず)ける、甘やかな容姿。
 陸は、白いポーチの上にぺたんと座って、横たわっている魔王の腹に(もた)れた格好のまま、うんと伸びをした。風が心地よく頬を撫でていく。陸はご機嫌だ。反対に、魔王はやれやれと溜息を噛み殺していた。
 魔王。この屋敷の主。
 彼は本来固有名詞を持たない。魔王というのは、陸が使っている便宜上の呼び名だ。ヴァルグレイヴとも呼ばれている。範囲を広げれば、魔王を指していると思われる名はそれこそ無数にある。誰も彼を呼べないが、誰もが好き勝手に呼べる、それが魔王だった。
 魔王の容姿は美しい。いっそ怖ろしいほどに。うっとりと見惚(みと)れるというよりも、罰や呪いを連想させる畏怖(いふ)に繋がる美貌だ。
 そして、彼はもうひとつの姿を持っていた。
 それがコレ。瞳はヒトのかたちのときと同じ紫水晶。それに、すっと通った鼻筋、ぴんと立った三角形の耳。身体は大きい。しなやかで強靭(きょうじん)な筋肉に包まれた身体を覆っているのは、長い漆黒の毛皮。何の獣かはわからない。狼の顔に獅子の胸、虎と熊を足して割ったような体型。尾はふさふさとして長い。全体的な印象からすれば、犬か狼といったところだろうか。
 魔王のもうひとつの姿が、この大きな獣の姿だった。そして、彼の恋人、陸は、獣の姿をとても好んでいる。かわいくてかっこいいのだそうだ。特に、さらりと長い真っ直ぐな毛に覆われた尻尾はお気に入り。春の陽光にあたためられてぬくもった毛皮に頬をすり寄せてくる。
「お陽さまの匂いがする」
 獣姿の魔王と日向ぼっこするのは、陸の趣味のひとつといっていい。無邪気に抱きついてくる恋人に魔王は少々頭痛がする思いなのだが、それでも彼も獣姿での日向ぼっこは嫌いではなかった。
 そんなわけで、天気のいい日は、ふたり――(はた)から見るとひとりと一匹で庭に出て陽を楽しむ。
 ぱたぱたと小鳥が数羽、陸のもとに下りてきた。陸は腕を伸ばして、指先に小鳥を休ませる。そのまま導かれるように立ち上がり、裸足で芝生を歩いていった。庭の薔薇は今が旬。蝶や蜜蜂、小鳥が集まっている。
 魔王の庭は綺麗で楽しい。雪に染められた真っ白な景色も好きだけれど、花の季節もやっぱり好きだ。観察するのや触れるのがおもしろくて、ずっとそうしていられる。
「あれ?」
 ふと、大輪の白い薔薇に目が留まった。
 何故だろう。白い薔薇は特別に珍しいわけでもない。それなのに、何故だかその一輪に強く()かれた。背が高く、(とげ)は鋭い。陸はなんの気なしに、その白薔薇に手を伸ばした。指先でそろりと触れる。花びらはひんやりとしていた。綺麗、と思って指を下に滑らせた、
 次の瞬間。
 棘が、指先にちくりと刺さった。そして。
 陸はふっと、気を失った。



 ベッドの上では、陸が寝息を立てている。その脇に置かれた椅子に、高々と脚を組んだ美女がひとり。
 緩やかに波打つ長い黒髪、深緑色の瞳は少し垂れ気味で、左目尻の泣きぼくろがなんとも蠱惑的(こわくてき)だ。黒いレースに縁取られた鮮血のように赤い宝石が、細い首から大きく開いた胸元にかけてを飾っている。大胆なスリットから、かたちの良い脚が(あらわ)になっていた。危険な場所まで見えてしまいそうなのだが、彼女は隠そうという気はないらしい。
 美女は、ふんと腕を組み、豊満な胸を張った。実に偉そうだ。
「あんたが少女趣味だったとは知らなかったわヴァルグレイヴ。ずいぶんとまあかわいらしい恋人ちゃんね」
 斜向かいに立った魔王は、今はひとの姿。いつもの如く無表情だが、(まと)っている空気が面倒くさいと言っていた。
「お遊びとはいえ過去の一時は恋人だった仲だからね。その男が夢中になってる恋人がいるっていうんだもの、どんなか見てみたいじゃない」
 恋人。
 夢中。
 ――頭が痛い。
「エルトベーレ。誰から何を聞いた」
 尋ねると、エルトベーレはふふんと笑った。意地悪そうに。
「ルンペルシュティルツヘンに決まってるじゃないの。そのあとダンナからも聞いたわ。でもまさかこんなに小さい女の子ちゃんとは思いもよらなかったわよ」
 ダンナ、というのはラウルのことだ。妙に人間くさいこの美女も魔族。彼らに結婚という概念はないはずなのだが、そこがこの夫婦の人間くさいところで、ふたりともが互いに夫婦なのだと言っている。どんな場所にも、どんな種族にも、変わり者というのはいつの時代にも存在するのだ。
「……女ではないぞ」
 どこにどう突っ込んだものか迷って、結局魔王はそれだけ言った。
「女の子でしょ」
 エルトベーレはぴしゃりと言う。
「少なくともあたしはそう思ってるわよ。多分ダンナも、ルンペルシュティルツヘンもね。はっきりしてないのはあんただけよ」
 きっぱりと言い切る。魔王は無言だ。
 別に、はっきりしていないつもりはない。ただ、どうでもいいだけだ。魔王にとって大切なのは、陸が陸であるというそれだけで、男性だろうが女性だろうが中性だろうが無性だろうが、はたまた両性具有だろうが、そんなものはとるに足らない。
 それにしても、なんだって周囲にいる奴らはこうもちょっかいかけてくるのが好きなのだろう。魔王はどっと疲れた気持ちになる。エルトベーレはにんまりと笑った。
「うふふん、それでね、恋人ちゃんに興味を持ってね。そんで今日見物しに来たわけなんだけど、あんたと会うのも久しぶりだし、手土産なしってのもどうかと思ったわけよ」
 何となくわかった。が、口には出さない。ちなみに顔はやはり変わらない。魔王はどうしたって鉄面皮だ。
エルトベーレは続けた。
「そ・こ・で! これを作ってきてあげちゃったわけよ」
 言って、エルトベーレは持っていた白薔薇をずいっと前に出した。さっきまで庭に咲いていた、陸が触れた白薔薇だ。
「『眠れる白薔薇姫』ってね。棘に刺された子はあっという間に深い眠りの中へ。目覚めさせることができるのは恋人のキスだけ。素敵でしょ?」
 た・だ・し。
 さらに意地悪く笑ったエルトベーレは、もったいぶって付け足した。
「その恋人同士がお互いに相手にふさわしくないと、この魔法は解けないわよ」
 やっぱり。
 しかし何をもってしてふさわしいというのか疑問だ。
「ま、でも安心して。もしキスで目覚めなかったら、ちょっと強引な方法ってのもあるから」
 強引な方法。内容は聞きたくない。ろくでもないに決まっている。
 魔王は嘆息した。エルトベーレは意地の悪い笑みを浮かべてこちらを眺めている。その表情がまた、なんとも彼女にはぴったり似合う。
 ベッドには気持ちよさそうに眠っている陸。エルトベーレの手の中の白い薔薇は、鋭い棘とともに活き活きと輝いている。
 ――本当に、やれやれ、だ。
「エルトベーレ」
 氷が砕け散るような低い美声が(ふる)い友人を呼ぶ。
「何よ」
 エルトベーレが応じると、紫水晶の瞳がしらっと告げた。
「邪魔だ、出ていけ」
 魔王の言葉にエルトベーレは少し意外そうな顔をして、それからふんと鼻で笑うと、思いきりあっかんべえをした。(つや)っぽい美女が台無しになるかと思いきや、やはり美女はどこまでいっても美女で、彼女の艶めきはまったく衰えなかった。
 木々の緑に夏が見え隠れしはじめた、晴れた昼下がりのことだった。





end.
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