THE FOOL.





 馬鹿だなあと、思うわけだ。
 切実に。

「ねえ、柘植(つげ)サン」
「はい。なんですか、久我(くが)先輩?」
 半刻ほど前から、もう幾度となく繰り返された、質疑応答とも会話とも呼ぶに呼べない遣り取りだ。
 放課後の図書室、さらに言えば出入り口から最も遠い、背の高い本棚に四方を囲まれてカウンターからは死角になっている、逢引をするには絶好の席に、俺と柘植サンは座っている。
 俺はわざとらしく溜息をついて、頬杖をついた。
 向かいに姿勢よく座っている柘植サンは、さっきから一心不乱に数学の問題集と格闘していて、俺の問いに丁寧に答えはするものの、ちっとも意識をこちらに向けてくれる気配がない。
 なんだかなあ、と思う。
 放課後で。誰もいない図書室で。夕焼けはひどくきれいで。テストも終わって、生徒会からの助っ人要請もなくて、恋心故に邪魔をしてくる名瀬(なせ)サンも今日は用事でいなくて、詰まるところ久しぶりにのんびりとふたりきりで。
 これって結構、甘いシチュエーションというやつではないのか?
 だというのに、彼女はずり落ちる眼鏡を上げ上げ、俺などお構いなしに問題集とばかり仲良くしている。
 俺はもう一度、溜息をついた。
「ねえ、柘植サン」
「はい。なんですか、久我先輩?」
「勉強、そんなにおもしろい?」
 ぴた、と柘植サンがペンを動かすのをやめた。きょとんとして俺を見遣る――やっと、こっちを見てくれた。
「おもしろいの? さっきから一生懸命やってるけど」
 俺にちっとも構ってくれないで、という恨み言を裏に隠して。
 けれど柘植サンは、無邪気ににっこりと微笑んだ。
「はい! とてもおもしろいです。知らないことを知ったり、わからなかったことがわかるのは、楽しくありませんか? 特に難しい問題なんて、最高です。なかなか解けないものを前にすると、ぞくぞくします」
「へえ……」
 と言う以外に、ない。なるほど、この飽くなき知的好奇心とそれを満足させるための行動の一連が、彼女を万年首席たらしめていることだけはわかった。
 ――ゾクゾク、ねえ。
「簡単な問題じゃ、駄目なの?」
 尋ねると、柘植サンはうーんと首を(ひね)った。
「駄目というわけではありませんよ。疲れたときや、頭の体操をするにはそちらの方が都合がいいですし。でも本当に考え込みたいときは、やっぱり難しいものですね。解けたときの達成感が違いますもの。わからない部分は多い方が楽しいです」
 嬉しそうに、にこにこしながら答える。窓から射し込む夕焼けの、透明な(くれない)に照らされて、やわらかそうな頬が赤い。大粒の鳶色(とびいろ)の瞳は、特別な感情を(はら)んではいないにせよ、今は間違いなく俺だけを映していて。
 ()れているとは、思わないが。
 どうしてこの子は俺のものじゃないんだろう。
 ――とは、思うね。大いに。
「あっ。そうだ、わからない部分が多いと言えば、」
 突然思い至ったように、柘植サンは楽しそうに笑った。
「先輩も、そうですね」
「俺? ですか」
「はい」
 彼女は手にしたシャープペンシルをくるくると(もてあそ)びながら、何か愉快な空想に思いを馳せるように虚空(こくう)を見つめる。
「先輩ってあまりご自分のこと話されないし、突拍子(とっぴょうし)もないことを言い出すことがありますし、うん、謎です。不思議なひと。いつも何考えてらっしゃるのかしらと思います」
「……そうかな」
 言いながら、右手でついていた頬杖を、左手に変える。
 何を考えているかわからない。
 そりゃそうだ、俺にだってわかりゃしないよ。
 なんだかうんざりとした気分で、目の前の秀才を見る。
 これは、何かな、と思う。この気持ちは何なのかな、と思う。
 ――認めたくは、ないのだが。
 この俺が。
 こんな、触れるだけのキスすら知らないような眠れるお姫様たる小娘に。
「ゾクゾクする?」
「はい?」
 滑稽(こっけい)だね。
 天晴(あっぱ)れ、まるで三流恋愛小説のような涙を誘う馬鹿馬鹿しさだ。
 何が、って。
 立ち上がって、彼女の傍まで行ってしまう自分だとか。不思議そうに俺を見上げる彼女の髪に、さも愛おしそうに触れる自分だとか。
「俺は、謎なんでしょ? 難しい?」
 こんなことを訊いてしまう自分だとか。
「え……? えと……」
 柘植サンは困惑して、おろおろと視線を()らした。
「ねえ?」
 そろそろと頭を撫でて。一筋取った髪に、身を屈めてキスを落とした。
 途端、彼女の頬が面白いほど真っ赤に染まる。
「ゾクゾクしてよ、俺に」
 ああ、天晴れ、なんて見事な陳腐な芝居。
 これはアレだ、落ちていく快感、というやつなのかもしれない。
 惚れているなどとは決して思わないのだが。
 俺が彼女に期待し、求めている感情というのは、高い確率で恋というそれではないだろうか。
 ――だとしたら。
 夕陽のせいだけではなく真っ赤な彼女を観察しながら、俺は込み上げてくる笑いを必死で抑える。
 ――だとしたら、俺はホンモノの破滅的馬鹿だね。
 そんな自分が心地よくもあるあたり、救いようがない。
「えっ……と、ですね」
 しどろもどろしていた柘植サンが、ようやく口を開いた。
 さて。
 なんて言って、俺を馬鹿に仕立て上げてくれる?
「先輩、には、その――」
「うん?」
 真っ赤になって、みっともないほどうろたえているくせに。
 生意気にも、彼女は真っ直ぐ俺の目を見て、言うのだ。
「どきどき、します」



 ああ、まったく、なんて滑稽。
 馬鹿だなあと、思うわけだ。
 切実に。
 天才的に鈍感な君が発した罪のない、恋を匂わせる台詞(せりふ)に、柄にもなく喜んでいたりする自分なんかを、特に。
 間違っても、惚れてはいないと思うのだが。
 落ちていく快感、てのは、なかなかどうしていいんじゃないか。まさに破滅的馬鹿に相応(ふさわ)しいオプションだと、心の底から思ってしまうね。




 00 THE FOOL.
 「とあるひとつの可能性」

 END.