THE MAGICIAN.





「笑っていることって、実はとても尊くて、偉大なことなの。それで大抵のことは上手くいく。明日はきっと、今日より素晴らしい日になる。本当だよ」
 どうか信じて。訪れる明日は明るいのだと。
 信じなさい。今日よりも明日は素晴らしいのだと。



 教室にいた誰もが、恐らく我と我が目を疑った。それほどまでに、その光景は信じ難いものだった。
「あなたは、――あなたは、最低だ……っ」
 左手を握り締めて、彼女は低い声で呟いた。華奢(きゃしゃ)な肩が震えている。心持ち青褪(あおざ)めた(まぶた)はこれ以上の激情を抑えようとしているかのように閉じられ、それもまた、震えていた。
 そこで鷹羽(たかは)は知ったのだ。先程の平手打ちが、彼女にしてみれば最大限の譲歩であり、もっとも穏便な制裁だったことを。
 鷹羽は打たれた男子生徒よりも、彼を打ち据えた彼女の、ひとを傷つけるにはあまりにも小さく華奢な手の方を心配した。
 彼女は細く、深く息をついた。激昂(げっこう)を抑えようとしているのだろう。やがて彼女はきっぱりとした調子で(きびす)を返すと、普段のおっとりとした動作からは想像もできない早足で、つかつかと教室を出ていってしまった。
 誰も、口を開かなかった。
 打たれた当の本人である男子生徒でさえ、未だ状況の把握が不可能なようで、呆然と立ち尽くしている。
 鷹羽はやっと本質に触れた気がしていた。自身がどうして、まだろくに口をきいたこともないような彼女に()かれるのか。抱く、親近感の理由。鷹羽は彼女のあとを追った。
「ひとは誰でも、自分の気分次第で壊せるものを持ってる」
 空は青かった。ばかみたいな青さだった。高いところで大きな鳥が飛んでいて、緑は濃くて、風は美しく光っていた。
 体育館の裏に座り込んでいる(ひろむ)の隣に、鷹羽は黙って腰を下ろし、そう言った。こんなに女の子の近くに自発的に寄り添うのは、たぶん生まれてはじめてだったけれど、不思議と緊張はしなかった。
「彼にとっての壊せるものが、あの女の子としてのプライドやパーソナリティだったっていうの?」
 弘は背中を丸めて(うつむ)き、眉間に皺を寄せ、目を閉じていた。先のほんのりと染まった親指と人差し指で、眉間を押さえている。息遣いは深く、ひどくゆっくりだ。
 わかる。鷹羽はこの感覚を知っている。
「――教科書を蹴り飛ばして、ノートを引き裂く」
 鷹羽はぽつりと言った。チャイムが鳴った。弘に立ち上がる気配はない。
「壁を殴って、穴を開けて、それでも足らずに目覚し時計を床に叩きつけるんだ」
 弘は顔を上げ、数秒の逡巡(しゅんじゅん)のあとに、そっと鷹羽を見遣った。くっきりとした二重(ふたえ)(まぶた)の大きな鳶色(とびいろ)の瞳が、戸惑いがちに鷹羽を(とら)える。
「それ、誰の話?」
「僕」
 あっさりと言って、鷹羽も真っ直ぐに弘を見た。
 弘は、かわいい。
 小さくて細くて、肌はシェアバターみたいなあたたかみのある白で、頬や指先やなんかが赤ん坊みたいに薄いピンクに染まっている。濃い茶色の髪はやわらかそうで、少し癖がある。零れそうに大きな瞳は鳶色で、声は穏やかだ。
 先ほどの暴挙も、怒声も、少しも彼女のイメージを損なわせていないことに、鷹羽は気づく。怒りでは彼女を(けが)すことはできない。普段の弘からは考えられない物言いや、容赦のない平手打ちを目の当たりにした今でも、弘はやっぱり、かわいいと思う。焼きたてのケーキ、或いはふわふわの生クリームを擬人化したら、こんな 感じかな、とも思う。
 鷹羽にとって、女の子は、そういうものだ。甘くて、やわらかくて、明るい幸福をイメージさせる。弘は特にそれらと強く結びつく。
「――わたしよりひどい」
 たっぷりと間を置いて、弘は(つぶや)いた。
「今は、努力して――そこまでの惨事にならないように、努力してる」
「わたしも。もうこんなふうに怒るのはやめようって、いっつも思う。こういう怒り方は、ひとも自分もとても傷つけるから。台風が畑を滅茶苦茶(めちゃくちゃ)にするみたいに」
 わかる。
 声には出さずに、鷹羽は思った。そして確信に至る。
 弘もかなりの癇癪(かんしゃく)持ちだ。鷹羽に勝るとも劣らない。



 濃い茶の癖っ毛の男性が、被布(ひふ)を着た弘を膝に抱き上げて笑っている。弘は不思議そうな表情をしている。髪の色やその生え際が弘とよく似ている。
 小学校に上がるか上がらないかの年齢の弘を、黒髪の女性が後ろから抱きしめている。やわらかく微笑んでいて、同じくにこにこした弘と如何にも仲が良さそうだ。眉のかたちと上瞼(うわまぶた)のラインがよく似ていた。弘は両親の特徴を半々に受け継いでいるらしかった。
「きみはお母さん似なんだね」
 写真の中の彼女の母親の瞳に、頑固といってもよさそうな意志の強さを感じ取って言うと、弘は、
「そう。癇癪も受け継いだの」
 とにっこりした。



「名前で呼んでも?」
「本当? ――うれしい。わたしも、あなたを名前で呼んでもいい?」
「喜んで」



 鷹羽は弘のことを考えた。彼女は自分に何ができるかをわかっていて、どうしたらよいのかをいつも見失わない。彼女は自分自身以外のものになろうとしない。向上心は忘れないが、(ひずみ)みを生じさせるような無理はしない。それはとても偉大なことだ。ついでに言えば、彼女はとても鋭かった。完璧だ。(おか)せない。
「つらい恋なの?」
 夕暮れの中、弘は静かに尋ねた。鷹羽は卑怯と知りながら、弘に逃げ込みたくなった。でもそれは不可能だ。
 絶対的に、不可能な、ことだ。
 それでも鷹羽は、彼女への恋に落ちた自分を、夢見た。
「つらい恋だよ」
 鷹羽は(うなず)き、目を閉じた。恋という言葉はあまりにもそぐわなかった。もっと重い、苦しいものだった。それでも心は、鷹羽の身体は、ただひとりだけを求めた。熱を宿さない冷たい瞳に()がれた。哀しみはある一点から痛覚に似はじめ、鷹羽を苦しめた。沈殿していた記憶が舞い上がり、(ひらめ)き、新たな傷を(えぐ)った。
 傷はいつまでも癒えない。傷痕(きずあと)はいつまでも残る。それはたぶん恋ではなかった。
 けれど、愛していた。
 ほかの言葉を思いつかない。認めたくはなかったが、愛という言葉以外を思いつかない。けれどきっと本当は、愛ですらなかった。それもこれも、すべてばかみたいな事実だ。
 笑えない。



 弘は何も知らなかった。鷹羽が何も言わなかったからだ。それでも、弘は鷹羽を許し続けた。
「忘れないで。わたし、いつでもあなたの幸福を願ってる。わたしは祈る言葉を持たないけど、でも、願うから。あなたを信じてるから。忘れないでね。世界にひとりきりだなんて思わないでね。これだけひとがいるんだから、ひとりくらい、誰かひとりくらいは必ず鷹羽くんの存在に(とど)まるひとがいるよ。そうして、わたしがそのひとりだってこと、きっと覚えていて」



 弘は確かに癇癪持ちだった。普段はおっとりと日向の猫みたいにやわらかくてあたたかくてのんびりとしているくせに、地雷を踏まれたときの彼女の爆発の仕方たるやそれはそれは凄まじかった。あらゆるものがいっぺんに弾け飛んでいるという感じだった。ただ、それはいつも誰かのためだった。誰かが誰かに侮辱されるのを、彼女は許さなかった。そして弘は鷹羽を(かば)い、守り、諦めたふりをする鷹羽を乱暴に叱咤(しった)した。
「きみを愛してる」
 鷹羽は言った。言葉は自然に零れ落ちた。
「ほんとう?」
 真っ赤な目をして、鼻を(すす)って弘は訊いた。
「本当。僕は滅多(めった)にこういうことを言わない。でもきみには言うよ。僕はきみのことが好きだ。とても愛してる」
「それなら」
 弘は癇癪持ちで、――けれど鷹羽とは比べものにならないほど辛抱強く、誠実で、やさしく、勇敢だった。
「もう、そんなふうに自分を傷つけるのはやめて。わたしのために。わたしだって、鷹羽くんのことが大好きなの」
「わかった。誓うよ」
 弘は手の甲で涙を拭い、きっとよ、と念を押した。



 彼女はね、何も言わないよ。言葉を持たない。助言なんて器用な芸当は、彼女には到底為し得ない所業だ。器用、不器用で言ったら、間違いなく不器用だろうね。彼女はひとや環境に応じて生き方――つまり自身を変えるということができない。素直で、純粋で、真っ直ぐで、嘘がつけない。聡明だけど、ばか者だ。
 でも彼女は、僕の傷に気づく。
 泣いている僕の隣に座って、何時間でも一緒にいてくれる。一緒に泣き、苦しんでくれる。彼女は自分に何ができるか、何をしたらいいのかを、いつも見失わない。最善が今より遅いはずはないのだと、彼女はいつも僕に教える。けれどきみには、それがどんなに尊いことか、偉大なことなのか、そして僕がそのことにどんなに救われているのか、わからないのだろう。
 ずっと、わからないのだろう。
 僕は彼女を愛してる。とても愛してる。幸せであれと心から願う。



「しょうがないや、好きになっちゃったんだもん。好きだなあって思う気持ちは自分のものだけど、意思でどうにかできるものじゃないから」
 微笑む弘を、鷹羽は泣きたい思いで見つめた。
 叶わない願いは(あふ)れていた。痛みはまだあり、傷だらけの記憶は擦り切れ、けれど想いは消えてはいなかった。
「きっとつらい」
 鷹羽は言った。
 傷つく彼女を見たくはなかった。彼女の瞳が濡れるのを、見たくはなかった。
「つらい恋だよ」
 鷹羽が苦しげに告げると、弘はにっこりと笑った。「大丈夫」と、自信に満ちた、惚れ惚れする調子で、彼女は言葉を継いだ。
「“愛はすべてを解き放つ”」



 彼女は偉大な魔法使いだった。
 彼女は杖も、不思議な呪文もなしに魔法を使うことができた。世界は素晴らしいものに満ちていることを、彼女は知っていた。あらゆる魔法は常に彼女の身の周りで生まれた。
 鷹羽は彼女を愛した。そして彼女の魔法を信じた。
 彼女は触れるものすべてに、等しく美しい魔法をかけた。
 彼女は偉大な魔法使いだった。




 01 THE MAGICIAN.
 「奇跡の軌道」

 END.