THE HIGH PRIESTESS.





 つまり悪行の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。
                             ――ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』
                                  〜第三篇 熱烈なる心の懺悔



 思えば、出会った直後、ほんの短い時間、――それこそ、桜が咲き、散り、葉桜になるまでの間――そのときこそが、いちばん心穏やかな時間だったように思う。
 やさしくなれる気がした。信じられる気がした。ここにいてもいいのだと、許されている気がした。それは、まるで、
 ――夢のような日々だったと、思う。
 八代(やしろ)鷹羽(たかは)(ひろむ)が友人関係にあることを知らなかったし、弘は誰のものでもなく、また同時に、誰のものでもあった。
 そのままでいられたら、どんなによかっただろう。それこそ、本当に夢のような話だ。まるで、ハッピーエンドが約束されたお(とぎ)(ばなし)みたいだ。
 けれど、夢はいつも必ず()めるし、()めるし、()める。それが現実だ。それが、今だ。
 八代は絶望に酷似した想いと、それを上回る安堵に包まれて、弘を押し倒している。
 心の一隅で、何故自分は弘を組み敷いているのだろうと考え、別の一隅では、何故押さえつけられている弘に一分の不安や焦燥や恐怖といった、八代が彼女に求めている感情が見当たらないのかという疑問を抱えながら。
 放課後の温室の中。
 確かめるまでもなく、誰もいない。ふたりきりだ。
 中庭という立地条件にありながら、ここは訪れる人間の数が極端に少ない。学校の間取りが、中庭を通る必要性を特になくしているというのもある。静かな場所だ。
 夕暮れというにはまだ早すぎる時間帯ではあるが、生徒たちは既に下校しているか、或いは部活の真っ最中か。園芸部顧問の教諭でさえ、温室には滅多(めった)に顔を出さない――もっともこれは、八代が望んだからだが。
 つまり。
 助けはないと、見た方がいい。
 このような状況が次に何を連想させるのか、いくら弘でもわからないわけはないだろう。彼女は鈍感ではあっても、決して愚昧(ぐまい)ではない。防犯意識は高いのだ。
 それなのに、どうだ。
 この瞳の(さや)かな静謐(せいひつ)は。
 波紋すら許さない、深い海の底のようではないか。
柘植(つげ)サン」
「はい」
 八代が呼ぶと、弘は平素とまったく同じ調子で応じた。鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)は澄んだまま、八代の黒瞳を映し込んでいる。
 冗談だろう。
 八代は声には出さず、唇でかたちづくることすらなく気持ち独りごちる。
 嘘だろう。
「今の状況、わかってる?」
 声が震えてしまうのではないかと思った。すべてを諦めた、――諦めたのだと自分に信じ込ませてからずっと、こんなにも自身が虚勢を張っていると感じたのははじめてのことだ。
 こんなにも不安定なものなのか。水面(みなも)に頼りなく浮かぶ一枚の枯れ葉だ。なんて寄る辺ないのだろう。
 数瞬前、八代は弘を打った。
 彼女の言葉が、あまりにも的確に芯を(とら)えていたからだ。八代は認めたくなかった、そして、怯えた。だから反射的に、手負いの獣が身を守ろうとして牙を()くように、弘のあどけない頬を無情な音をさせて、打ったのだ。
 彼女の眼鏡が床に落ちたのを、耳で知った。
 薄い硝子(がらす)が割れたような音だった。
 錯覚だったのかもしれない。けれど、それは。
 八代にとっては紛れもなく、自身が弘に対していた擬態(ぎたい)と、彼女との(かぐわ)しい日々が壊れた音だった。
 なんて薄っぺらな。
 夢はこんなにも容易(たやす)く砕け散る。
 思ったら、酷薄(こくはく)な笑みがくちもとに上った。
「俺は今、キミを押し倒してる。ついでに両手も押さえつけてる。キミは自由が利かない」
「そうですね」
 状態としては、八代の説明で不足ない。
 八代は弘の横っ面を張ったあと、驚くべきことに倒れず踏み止まったものの、さすがによろめいた彼女を引きずり倒した。弘の小さな両手は、顔の両脇で八代によって床に縫い止められている。
 八代は弘を見下ろし、見下(みくだ)す。弘の片頬は赤く()れている。
 罪悪感などない。
 やっと、という思いがあるだけだ。やさしい先輩の仮面を外しただけ。演じる必要がなくなった、肩の荷が下りたのだ。
 そうだろう。
 自身は常に絶対的な支配者なのだから。
 これが本来のあるべき姿なのだ。今までの遣り取りがすべて(たわむ)れ、ごっこ遊びだったのだ。
 口に出して説明はしない。その必要など微塵もなく、弘はそれを悟っただろう。八代はそれだけのことをした。暴力という、もっとも短絡的で決定的な暴露の仕方でもって裏切ったのだ。
 恨んで。
 憎んで。
 呪って。
 いっそ敬虔(けいけん)な祈りのように思う。
 どこまでも透る瞳を前にして。
「……俺は。キミを、このままこの場で犯すことだってできるんだよ」
 圧倒的に有利なはずだ。
 泣いて許しを請い、助けを求めるのは、弘のはずだ。
 それなのに、眼を()らしたのは八代だった。
 透徹(とうてつ)の瞳と揺らぎのない眼差しから逃れ、まるで最期の一言を告げるように、呟いた。
 弘の両手首を締め上げる。細い手首だ。その気になればきっと、簡単に折れてしまう。花を手折(たお)るよりも(はかな)く。
 ――そうすれば、自分のものになるのか。
 自分だけのものに。
 去った日が蘇る。
 ――心の色に多少の差異はあるけどな。
 ――(いだ)く心の色や気持ちにどんな名前をつけようが、本人の自由だ。恋と呼ぼうが愛と呼ぼうが、……信仰と呼ぼうが。勝手だよ。
 ――あれはもう信仰の域に達していると言っていい。
 信仰の域に。
 ――誰もが、熱烈なる神の(しもべ)だ。彼女という神の。
 奥歯がぎりと鳴る。
 あってはならない。
 弘が神だというのなら、自分は彼女を天から引きずり落とす役割を負う。ただそのためだけに存在してもいい。
 何故だろう。
 苦しい。
「先輩が本当にそうなさりたいのでしたら、どうぞ」
 囁くような声だった。それなのに響いた。
 一点の曇りもない、迷いのない空気の振動。
 頭痛がする。温室の空調機のモーター音が遠い。勢いづく緑とにおい。硝子で区切られた、外界とは隔絶された場所。誰も八代を傷つけない、ここは八代だけの箱庭だった。
 弘が来るまでは。
 弘が微笑むまでは。
 言葉にならなかった。激情、としか表しようがない。八代は右手で弘の制服の襟を、タイごと力任せに引き開いた。(ぼたん)が幾つか弾け飛んだ。糸の切れるぶつりという音と、布が(わず)かに裂ける悲鳴のような音。それでも弘は八代を真っ直ぐに見据えたまま、(りん)と在る。
 憎い。
 ほんの少し強く押しただけで(あと)が残りそうな白い首筋と、胸もとが(あらわ)になった。うっすらと薔薇色に染まるような、新雪の肌。
 ――何も知らないくせに。
「……っ」
 なんの抵抗もなく、一声も上げなかった弘が、微かに息を詰めた。八代が噛みついた白い喉笛が、こくんと上下する。
 弘の両目に、はじめて涙が(にじ)んだ。
 “幸福は誰の痛みの上にも成り立ってはならない”。
 弘は思う。
 わたしはわたしの無知のために、身勝手のために、大切な友人達をことごとく傷つけてきた。
 同じ想いを返せずに綾野(あやの)を傷つけ、八代を想って鷹羽を傷つけた。好きだという感情の同調ができずに伊織(いおり)を傷つけ、何も気づかなかったために次子(つぎこ)を傷つけた。
 みんな、いつもわたしを想っていてくれたのに。守っていてくれたのに。
 それでも弘は八代を好きなのだ。たとえ恋ではなくても。幻に(すが)っているのだとは思わない。それでも幸福が誰の痛みの上にも成り立ってはならないというのなら、もしもそれが真実なのだとしたら。
 ――好きという、ひとにとって(かて)となる筈の感情でさえも誰かを傷つけることがあるのに、ほんとうに幸福と呼べるものがこの世界にあるの?
「……その涙は、俺のもの?」
 喉笛に唇を当てたまま、八代が問う。弘はきっぱりと言い切った。
「いいえ」
 ――嘘でも、いいのですよね。
「はい」と答えてほしいのですよね。
 心と同じように、声は震えた。涙の色に染まっていた。
 八代が何を求めているのかわかるのに、嘘をつけない。
 ――わたしはいつも、あなたに真実を尽くすと決めたから。
 (うなず)くことすらできないのだ。なんて無力なのだろう。
 ゆっくりと(おもて)を上げた八代の唇は赤かった。皮の薄いところを少し噛み切られたらしい。喉もとを生温かいものが()っている。荒々しく開かれた胸を、緑の風が吹き過ぎていく。
「ほんとうに……先輩がそうなさりたいのでしたら、いいのですよ。何をしてくださっても」
 膨らんだ涙を手の甲で拭いながら言う。八代の瞳に侮蔑が宿った。必死の虚勢の侮蔑が。
「何をしてもいい、なんて。馬鹿の発言だよ。愚の骨頂だ」
 横を向いて吐き捨てた。
「いいのです」
「経験は」
「ありません」
「痛いよ。俺、乱暴にする気満々だし」
久我(くが)先輩。わたしを見てください」
 引かれるようにして視線を合わせた。
 八代の黒く(こご)った瞳と、弘の透明に徹した鳶色の瞳が交差する。
「できるのでしたら。そうなさるでしょう」
 静かな言葉だった。
 受け入れてもいない。拒絶もしていない。あるがままを伝えただけ。伝令役を(おお)せつかった天使が、卑小(ひしょう)な人間に神の言葉を説くが如く。
 色のない声。
「……どういう意味かな」
 華奢(きゃしゃ)(あご)を捉えて身を屈める。前髪が絡み合い、吐息が触れ合う。弘は微塵(みじん)も動揺しない。
「わたしを壊したところで、何も変わりはしないのですよ、久我先輩。あなたの中の何も、よくなりません」
 それは、いつか鷹羽が言った台詞(せりふ)だ。
 ――あの、永訣(えいけつ)の朝。
「先ほど、あなたは野草を抜くことについて考えたわたしに、それは綺麗事だと。偽善だとおっしゃいましたけれど。それは何故ですか。本当は久我先輩も、そのようにお考えだからなのではないのですか? それきれいだと、お心のどこかでお思いだからなのではないのですか」
 千切(ちぎ)った白い花が散らばっている。
 ああ。
 その上に倒されている弘は、百合の(しとね)に横たわる清純な処女(おとめ)だ。神に捧げられたる供物(くもつ)だ。
 ――こんなにも醜い俺を、今になっても疑いもしないで。
 愚かだ。憐れなほどに。
 早く見捨ててくれればいいのに。
 そうしてくれないと、本当に、
 ――本当に(けが)してしまう。
 どうして弘が神様ではないのだろう。
 胸が痛い。
「きれいだと思う心がなければ、何かに対して綺麗事と断じることはできないと思います。あなたは、雑草という言葉を使いさえしない」
 弘の中で伊織の声が響く。
 ――そんなの偽善だよ!
 そうかもしれない。でも、わたしにとっては真実ではあるんだよ。傷つけるものであったとしても。嘘が善なら、真実は全部偽物なの? ひとを偽るためだけにあるものなの?
 ――違う。
 そうじゃない。
 だって誰も、誰かを傷つけようとしてほかの誰かを好きになるわけじゃないもの。
 誰も傷つけたくなんかない。理想はいつも綺麗事だ。
「知った口を利くな」
「利きます。殴ってくださって結構です。――久我先輩」
 はじめて口にした命令にも動じず、弘は続ける。八代は眼を逸らしたい。
 見ていられない。醜いものを見ても目が潰れないことなど、とうの昔に知っている。八代は醜いのに、未だに目は潰れないままだ。
 目が潰れるのは、あまりにも美しいものを目の当たりにしたときだ。
 思うのに、できなかった。眼も逸らせず、逃げ出すこともできない。縫い止められているのは八代の方だ。
「あなたは、きれいなお花を咲かせるお手伝いをできる、やさしいお手をお持ちなのですよ」
 細い指が八代の指先に触れた。過剰なほどにびくりと震える。いつの間にか、弘の手首を自由にしていた。
「さっき、俺は柘植サンを殴ったよ」
「そうですね」
 まだ腫れの引かない頬で、弘が笑う。ちいさな白い花。
「でも」
 言いながら、弘は両手で八代の右手を包んだ。やわらかなてのひら。まるで、産まれ落ちてから今に至るまで、なんの苦も知らないような。ひとつの悲しみにも(ひた)ったことのないような。
 あたたかいてのひら。
 昔日(せきじつ)の八代が恋に()がれるように求めたもの。
 もう、遠い記憶だと思っていた。
「わたしを殴った回数よりも、咲かせたお花の数の方がずっと多いから」
 大丈夫です。
 相変わらず床に押し倒されたまま、弘は誇らしげに笑った。
「あなたは誰かの救いになれます」
「――……」
 そんなわけがない。
 否定しろ。
 思い出せ。
 今までずっと、奪い続けてきた自分に。そんなことが。
 弘の両手の中で、拳を握る。
 肌で感じ取った弘は、完璧な微笑を見せた。
 片手をそっと外し、す、と八代の胸に置く。そして、ほんの少し大気が緩むような甘さで、けれど決然と押し返した。
退(しりぞ)きなさい、久我八代。今のあなたはわたしに及ばない」
 瞠目(どうもく)した。
 涙が、まるで自分のものではないように(あふ)れ、零れ落ちた。
 絶対者ではない自分を誰かに許される日が来るなど、それを自身が許す日が来るなど、夢想すらしなかったのに。
 それからしばらくの間、八代は弘の小さな肩に額をつけて、泣いた。



 彼女はいつも完璧だった。
 絶対不可侵の聖域だった。
 だから八代は焦がれ、(おそ)れた。
 彼女だけが、八代の魂の所有権を持した。




 02 THE HIGH PRIESTESS.
 「バプテスマ」

 END.