THE EMPEROR.





 煙草を吸う八代(やしろ)の姿を見るのは、正直に白状すると、嫌いではない。
 長い指が煙草を挟んで持つ様も、それをくちもとに持っていく様も、そしてそれを(くわ)える様も。
 嫌いでは、ない。どこか薄暗く、陰湿で、――そして、ひどく淫靡(いんび)だ。
 八代が煙草に火を()け、伏し目がちに紫煙(しえん)をくゆらせているところを見ると、鷹羽(たかは)は何か、とても淫らなものを眼前に突きつけられたような気持ちになる。それに覆われる自身を想像し、鼓動が速まる。あの、八代の長い指が、自身の肌を舐めていくときの感覚を思い起こさせられる。
「煙草はやめろって言ってるだろ」
 絨毯(じゅうたん)の上に散乱する本や教科書、ノート、広げられたままの新聞をまとめながら、鷹羽は言った。ぐったりとソファに寝転がった八代は、眉間を揉みながら意地悪な猫のように目を細め、小さく笑った。
「懐かしいねえ」
 薄暗い部屋。ぐずついた天気。湿っぽい大気。
 ――煙草の、におい。
「はじめて会ったときも、そのあたりのことを言われた覚えがあるなあ。なんだったっけ」
「知るか。忘れたよ、そんなこと」
 嘘だ。
 はっきりと覚えている。思い出したくないだけだ。八代にとっては通りすがりに仕掛ける悪趣味な冗談でしかなかっただろうあの時間が、あの瞬間が、鷹羽の苦しみのはじまりだった。
「何、を、考えてるのかな」
 きっと気づいている。
 特技は嘘をつくこと、誤魔化(ごまか)すこと、裏切ることと言って(はばか)らない八代は、実際にひとが嫌がることをするのが大好きだ。各々が必死で守り、隠している地雷を探し当てるのも滅法(めっぽう)上手い。ひとの神経を逆立てることなど得意中の得意だ。
「僕が何を考えていようが、おまえには関係ないだろ」
「うん。それはそうだ。正論だね」
 微笑の気配がした。
 否。
 今、鷹羽の背後にいる人物がかたちづくっている表情は、きっと微笑という言葉が持つ美しい印象の笑みではない。
 彼は自身の優位を疑わない。彼はひどく残酷で、容赦がない。鷹羽を幾度も打ちのめす。なんの躊躇(ためら)いもなく。幾度も奈落の底に叩き落す。鷹羽はなす術なく崩れ落ちる。
 背後で、煙草を灰皿に押しつける気配がした。
 駄目だ――と、思ったときには既に遅かった。鷹羽は背後に八代を感じる。数センチの肉体の距離。何キロあるのか判じ得ない心の距離。本棚の整理をしていた鷹羽は、本棚と八代の間に挟まれて、逃れることは叶いそうもなかった。
「今日は?」
「帰るよ。凛兄(りんにい)に、一週間に一度は必ず家に帰ってくるようにって言われてる」
「無視して。偏頭痛がひどい。起き上がれないほど」
「笑えない冗談だね。さっさと寝たらいいだろ」
 鷹羽が冷たく突き放すと、八代はおどけた調子で、
「キミは本当、おもしろい子だなあ」
 鷹羽は平静を装って本棚の整理を続ける。真後ろの煙草のにおい。鷹羽を閉じ込めている腕。――長い指。鷹羽を堕落させるもの。
「逆らえないくせに反発するんだから――まったく、かわいいね」
 大きなてのひらに両肩を(つか)まれ、身体を反転させられた。
「俺はね、キミのそういうところ、気に入ってるんだよ? 追い詰めて組み敷いて屈服させるのが楽しいんだから、適度に逆らってくれる子じゃないと張り合いがないからね」
 深い、奈落の闇を(たた)えた瞳は冷たく、動かない。
 八代の指が鷹羽の頬に触れ、(おとがい)を持ち上げた。
 ああ、もう、駄目だ、と思った。
 駄目だ。
 鷹羽は息苦しさに耐えられず、目を閉じた。唇にキスが触れた。最初から諦めている鷹羽は、いちいち抵抗するのを既に放棄していた。口腔内を犯されながら、そのくちづけの苦さに眩暈(めまい)を覚えた。
 ああ、もう、駄目だ。
 思いながら、鷹羽は八代の胸を押し返した。
「触るな。馬鹿が感染する」
 八代は悪びれるふうでもなく、少し笑った。
「何を今さら。無駄だよ、馬鹿は空気感染なんだから。それに俺とキミなんて、同空間内にいる上に粘膜が接触しちゃってるんだから」
「そういうことを言うのはやめてくれないか」
 苛々(いらいら)しながら言うのに、八代はちっとも意に介さない。ふと冷たい微笑を暗い瞳に宿らせて、
「じゃあ、何なら言ってもいいの? 何を言ってほしい?」
 と尋ねてきた。
「好きだよ――愛してる? どっちにしろ、理解に苦しむね。どうしてそう言葉にすることに固執するのかな」
「僕は何も言ってない」
「顔に書いてあるよ。いつも、――もちろん、イイコトしてるときもね」
 八代に、つけ入る隙は微塵(みじん)もなかった。
 鷹羽の言葉は何の力も持たず死んでいき、放り出され、累々(るいるい)と積み上げられていく。
 八代が眼鏡を外し、テーブルに置いた。鷹羽はただぼんやりと、駄目だと思った。
 ああ、駄目だと。
「――鷹羽?」
 耳もとで囁かれた低い声に、背筋が震えた。
 (とら)われている。
 逃れられない。
 鎖が、身体中に絡みついている。ラプンツェルの髪が誘惑に絡みつくように。
「気持ちは通じないし、心は伝わらないよ。実に滑稽(こっけい)な思い上がりだ。恐るべき夢想だよ。嘲弄(ちょうろう)をこめた失笑も凍りついて砕け散る勢いだ。――ああ、でも、そうだな。愚かなものを目の当たりにしたときのくだらない優越感と、侮蔑を多分に含んだ一種の微笑ましさを覚えないでもないかな。馬鹿馬鹿しくて泣けてくるったらないね」
 鷹羽はてのひらでくちもとを覆う。嬌声(きょうせい)は鷹羽にとってひとつの呪詛(じゅそ)だった。
 八代の唇が耳のかたちを辿る。冷たいてのひらが、制服の隙間を縫って侵入し、直に鷹羽の身体に触れる。
「言葉だろうがなんだろうが、言葉の意味を理解できればそれでいいと思うんだけどね俺は。大体、言葉だけじゃない、自身の意図するところのものを伝えようとして用いる表現方法は、いずれも常に受け手側にのみその意味を解釈する権利が与えられてるんだから――」
 キミも、そうすればいい。八代は言った。
 なんの意味も持たないセックスを、愛し合っているのだと解釈すればいい。
「そう考えたら、薄っぺらなブラフだってあながち罪とは言えないだろう? いつだって、たとえ偽るつもりがなくても、聞き手の解釈如何(いかん)によって結果的に虚偽となってしまう場合なんか掃いて捨てるほどあるコミュニケーションのひとつじゃないか」
 言葉は。
 偽るつもりもなければ、真実だという意識を明確に持たない言葉は、無造作かつ無作為に放り出され、やがて聞き手たる他者に拾い上げられる。この時点で、話し手が意図した言葉の真意の実に半分以上は、聞き手の――そうだな、希望や幻想プラスエトセトラによって塗り潰され、かたちを微妙に変えていく。持ち主の支配から離れた言葉ほど変質しやすいものはないよ。言葉は残るけれど、言葉だって死ぬ。死んだ言葉は扱いやすいよ。
 耳もとの八代の声。雨の音。煙草のにおい。
 八代の唇が、鷹羽の鎖骨をなぞる。
 もう、――もう、ここまで来てしまったら、拒絶はおろか、過去の様々をふり向くことさえできない。鷹羽は何度も絶望する。鷹羽は何度も奈落の暗闇に(ひた)される。
 八代の身体はいつも冷たい。鷹羽がどんなに熱くなっても、八代は冷たいまま笑う。この温度差はどうにもならない。鷹羽には、諦めるという選択肢しか残されていない。
「ひとは文章の記憶は共有していても、話し手と聞き手では、その文章が所有している情報にどうしてもズレが出てくる。つまり話し手が意図した意味を聞き手が完全に理解しているかと言えばNOなんだよ。というよりも不可能だ。言葉は常に語弊を伴う。時折矛盾が含まれる。言葉を発した自身ですら気づかない錯誤が生まれる」
「……何が言いたい……?」
「どういう意味にでもとってくれてかまわないよ、仔猫ちゃん。さっき述べたとおりだ。言葉の情報伝達力なんてたかが知れてる」
 暗い瞳が(わら)う。鷹羽は視線を交わらせることにすら臆病になっている。
 八代は何をするでもなく、存在するだけで鷹羽を束縛し続けた。鷹羽を蹂躙(じゅうりん)し、その上に君臨し続けた。すべてを奪い続けた。鷹羽は失って失って、なお失い続けた。
「ああ――俺、キミのその絶望に打ちひしがれたような顔、好きだなあ」
 八代は鷹羽の耳もとで囁くように告げ、小さく笑った。
 雨の音。煙草のにおい。雨雲に(かげ)った薄暗い部屋。
 肌蹴(はだけ)られた胸に、八代の唇が()う。
 絶対的な支配者は、薄暗い笑みを頬にのせた。

「――さあ、楽しもうか」




 04 THE EMPEROR.
 「統べるもの」

 END.