THE HIEROPHANT.





 (ひろむ)にとって、好きという気持ちは春の大気のようなもの、冬の毛布のようなものだった。やわらかく、あたたかい。そして安らぐ。そういうものだったし、それは今でも変わりない。
 けれど、どうしようもない困惑――疑問が胸の底から途切れることなく湧き上がって、弘は強い不安に駆られる。どうしたらいいのかわからないのだ。
 たとえば弘は次子(つぎこ)を好きだ。でもその気持ちは鷹羽(たかは)(いだ)いている好きだという感情とは必ずしも同じではない。重なる部分ももちろんあるが、まったく同じものでは、決してない。
 そうは思うが、それは誰に対する気持ちにも当て()まることだろう。次子に対する気持ち、鷹羽に対する気持ち、伊織(いおり)に対する気持ち、そして、綾野(あやの)に対する気持ち。
 皆好きだ。とても好きだ。大切な友人だ。けれど綾野は、それだけではないのだと言った。弘が綾野に対して抱いている『好き』という感情は、綾野が弘に求めている『好き』とは種類が違うのだと、綾野はそう言ったのだった。同じではないからつらいのだと、同じ意味の『好き』が欲しいのだと。
「……好き……」
 ぼんやりと(つぶや)く。
 手にしたホーローの如雨露(じょうろ)から、細く水が流れ出ている。弘はその水の流れる様を見つめながら、綾野が口にした「好き」という言葉を何度も何度も反芻(はんすう)する。
 ――綾ちゃんのことは好き。
 はっきりと思う。すると、脳裏に鮮やかにあの日の綾野が蘇った。
 ――あたし、あんたのこと好きなのよ。
 綾野は泣きそうだった。
 ――わたしも綾ちゃんのこと好きだよ。
 ――違うの。そうじゃない……そうじゃなくて。あたし、あんたのこと好きなのよ。でも、――あたしのこと好きになってくれなくてもいい。でも誰かのこと――ほかの誰かのこと好きになっちゃやだ。誰かのものになんてならないで。誰のものにもならないで。お願いだから。
 あんなに切迫した瞳で。
 擦り切れるほど反復したその映像と疑問。未だに答えは出ない。
 弘には、綾野が言っていることがほとんど理解できない。何を言っているのか、どういう意味なのかがほぼまったくわからない。弘は好きだという感情を種類別にした経験がないし、何より『好き』に種類があるのだということなど考えたことすらなかった。
 綾野の必死な声が、耳の奥に響く。声が響くたび、弘の胸はぎゅうっと痛んだ。
「……好き」
 わからない。
 何もわからない。
 ――綾ちゃんはどうしてあんなにつらそうだったの? 好きってなに? ……わたしと綾ちゃんの『好き』は、どう違うの……?
 綾野の告白から、一週間ほどが経とうとしていた。
 挨拶程度は交わすが、綾野はぎこちなく返事をして、すいと離れていってしまう。だから、まともに会話できていない。あの日から。
 鷹羽が心配してくれているが、自分の身に起こったことと、自分自身の葛藤をどんなふうに表したらいいのかがわからなくて、上手く説明できないでいる。伊織が苛立(いらだ)っているのがわかる。次子がそんな彼女を(なだ)めてくれているらしいことも。
柘植(つげ)サン」
「あ、はいっ」
 不意に呼ばれて正気に戻る。ふり向くと、八代(やしろ)が小さな盆におはぎを載せてにこにこしていた。
「お疲れ様。お茶にしましょう」
 リン助――園芸部顧問の教師の渾名(あだな)(と言ってもそう呼ぶのは八代だけらしいが)――がせっかくおいしいお茶持ってきてくれたから、早速()ててみたよ。
 緑と土のにおいに、抹茶の香りがふわりと流れる。温室の片隅の小さなテーブルに茶の用意をして立っている八代の姿があまりにも穏やかだったから、弘は泣きたいような安堵感に包まれて、本当に少しだけ、泣きそうになってしまった。
 ぱたぱたと駆け寄り、如雨露を整頓された棚の上に置く。
「はいどうぞお姫様」
「あ、ありがとうございます」
 椅子を引いてくれるので、それに合わせてちょこんと座る。蔓薔薇(つるばら)の透かし彫りが施された円卓の上には、八代が点てた抹茶と、おはぎが載っていた。
 弘は顔を輝かせる。おいしいものは大好きだ。
「わー、わー、おいしそうですね!」
「おいしいよ。今日の労働に対する労いだからね。働いていればいるほどおいしくなる」
「はいっ。いただきます!」
 園芸部の休憩時間は結構豪華だ。人数が少ないから仕事量もとんでもないが、その代わり、こういった一服には少人数だからこその贅沢ができる。小さな冷蔵庫もあるし、仕事量に見合うだけ――とはさすがに言えないまでも、特典は一応ある。
 大抵は紅茶だが、時々八代が茶を点ててくれる。これがまた結構なお味で、茶請けが和菓子と知っているときは心密かに八代の抹茶の味を思い出してうっとりする。楽しみにしているから、出してくれると嬉しい。
「柘植サン、作法きれいだよね。茶道習ってるの?」
 八代が訊く。弘はおはぎをきちんと飲み込んでから、にっこりと笑って首を振った。
「いいえ。ですが母が習っていた――習ってたわけではないのかな――母の母、ですからわたしからすると祖母ですね。祖母の実家が茶道の家元なのです。それで少しだけ知っているのです」
「へえ、家元ねえ」
 感心したように頷く。
「先輩はどうして園芸部に? 茶道部も煎茶部もあるのに、そちらにはお入りにならなかったのですね」
「んん、まあね」
「どうしてかお尋ねしてもよろしいですか?」
 餡子(あんこ)がたっぷり塗りつけられたおはぎの最後のひとかけらを口に持っていきながら問う。八代は頬杖をついた。
「寂しかったのかなあ」
「え?」
 椀を傾け、どこか遠くを見るような目で、うん、と口を切る。
「俺なしでは成り立たない存在、っていうのが欲しかったのかもしれないね。俺がいないと生きていけない、そういう何かが欲しかったのかもしれない。それもかなりわかりやすいかたちで。――自分はここにいていいんだと……俺がいることを肯定してくれる何かが欲しかったのかもしれないな」
 最後の方は呟きに近かった。
「自分なしではいられない何か――?」
 ふっと、吸い込まれるように、弘は己の思考に沈んだ。
 わたしなしではいられない何か。
 わたしなしでは生きていけない何か。
「まあ、植物ってなかなかどうして(たくま)しいからね、放っとけば放っといても結構生き抜くんだけど」
 微苦笑してつけ加える。
「先輩は、ひとりぼっちだったのですか?」
 言葉は無意識に零れたものだった。考えついた早さと唇から漏れた音の速度が同じで、弘自身が驚く。ひどく不躾(ぶしつけ)な物言いだ。謝ろうとしたら視線でやさしく制された。おとなしく従って黙る。
 弘の言葉に、八代は否定も肯定もしなかった。ただ微笑したまま、
「それで柘植サンは、何を悩んでるのかな」
 と、話題をずらした。
「えっ」
 急に話の矛先を向けられて、弘はどきりとする。
「な、な、悩んでいるように見えますか」
「うん。思い悩んで百面相だね」
「うう、そ、そうですか……」
 普段どおりりにしているつもりだったのに、と両手で頬をぺちぺちと叩く。悪戯を見つかったときみたいなばつの悪い思いがした。
 何を、と言いながら、八代は弘の悩み事の内容などお見通しだろう。何せあの場にいたのだ。
 八代は弘を真っ直ぐ見つめたまま、穏やかに微笑んでいる。眼鏡のむこうの瞳がやさしい。弘はそういう、八代の静かなところがとても好きだ。
 ――好き。
 この『好き』は、どういう『好き』なのだろう。
「あの……あの、ですね、先輩。質問してもよろしいですか」
 顔が熱い。きっと赤くなっているだろう。
 八代は「どうぞ」と促した。
「あの。えっと――」
 何から訊こう。
 何を訊こう。
 どう説明しよう。
「あの……ね、久我先輩は、好きなひとっていらっしゃいますか?」
 迷った末に出てきたのは、そんな質問だった。
 訊きたいことはもっと別にあるのに、なんと言ったらいいのかわからない。
 温室内の温度を一定に保っている空調機の、低いモーター音が微かに聞こえる。
 初夏を迎え、どの植物も皆弾けそうにいきいきとしている。硝子(がらす)を越して射し込んでくる陽の光が、萌える緑色に照り映えて(まぶ)しい。
「うん――難しい質問だね」
 何拍かあとに返ってきたのは、そんな答えだった。弘は少し拍子抜けしてしまう。
「難しいでしょうか」
「簡単でもあるけどね。まず柘植サン、さっきキミが俺に訊いた、好き、っていうのは、どの好きについて訊いたの?」
「え? ど、どの、……どの?」
「恋愛? 友愛? 家族愛、師弟愛、兄弟愛。それとも人類愛?」
「あ。え、と……あの、ちょっと、少々待って、待ってください」
「ごゆっくり」
 ええっと――。
 弘は頭を抱えた。落ち着こうと、八代が点ててくれた茶をゆっくりと飲む。
 恋愛、友愛、家族愛、師弟愛、兄弟愛、それに人類愛。
『好き』の種類というのはこのことか。弘は少し納得した。でも――。
 悶々(もんもん)と悩んでいると、すい、と白いページを開かれたノートと、シャープペンシルを寄越された。
「え、あの、これは?」
 八代がにこ、と笑う。
「書いてごらん」
「え」
「思ってること、全部書き出してみてごらん」
「書くのですか?」
「そう。誰がいて、誰が誰に対してどう思ってるのか。知っている範囲の情報を全部書いてごらん。そうすると、自分が何をわかっていないのかがはっきりするかもしれないよ」
 弘は黙って、手もとのノートを見た。
 真っ白いページ。
 錯綜(さくそう)する想い。
「邪魔なら俺はむこうに行くから。奥で仕事してるから、何かあったら」
 言いながら立ち上がった八代のシャツを、指先できゅっと摘んだ。
「柘植サン?」
「あっ」
 はっとして手を引っ込める。顔が熱くなった。
「も、申し訳ありません。あの、はい、お、奥でお仕事ですね」
「いた方がいい?」
 静かな声に尋ねられる。穏やかな声。耳にやさしい。弘は照れて真っ赤になった顔を伏せたまま、小さな声で、「いてほしい、……です」と言った。
「承知いたしました」
 八代が笑う。「今度は紅茶にしようか」と言いながら、ポットを持ってきて準備をはじめた。弘はなんとはなしにその動きを目で追いながら、考える。
 綾野のことは好きだ。でも……。
 泣き叫びそうだった、あの綾野の瞳を思い出す。
 綾野は悩んでいた。苦しんでいた。今もたぶんそれは続いているのだろう。
 哀しい。
 好きなひとの苦しむ姿は見ていてつらい。原因が自分なら、なおのこと。
「恋って、なんですか?」
 ふと、唇から零れ落ちた。
 ツルゲーネフのワンセンテンスにも届かない、それ以前の気持ちの揺れだ。
 カップに紅茶を注ぎながら、八代は視線を動かさずに、
「定義によって変わってくるね」
 と言った。
「定義……ですか」
「うん。何を論じるにも、定義づけは必要だよ」
 黙って(うつむ)いてしまった弘を見て、八代は少し小さな息をついた。仕方がないな、というふうに(わず)か肩を(すく)める。弘に誠実に丁寧に応対しているからこそ漏れ出た温厚な仕草だった。
「柘植サンは、恋するにあたって一番大切な要素はなんだと思う?」
 問いかける。硝子のむこうはやっと夕方が訪れはじめたくらいの明度だ。
 弘の前に淹れたての紅茶を差し出す。弘は両手でそれを受け取り、カップを持った格好のまま、再び沈黙してしまった。八代は自分の分の紅茶を淹れると、火傷(やけど)しないよう湯気を吹きつつ、カップに唇をつけた。そうしてやっと、弘の向かいの椅子に腰を下ろす。
「ひとによって色々あるだろうね。学歴だとか収入だとか性格について、嗜好や共通の趣味がある云々。ただ多くの場合、これらはあることが前提として語られる」
「なんですか?」
「性別、だよ」
 カップを持つ手に緊張が走った。
 ――あんたのこと好きなのよ。
 綾野の気持ち。
「多くのひとは、恋愛対象の条件として、異性であること、を持っている」
「ですが、同性とお付き合いされている方もいらっしゃいます」
「そうだね。つまり、恋愛対象になる条件のひとつとして、多くの場合に当たり前すぎて忘れられているけれど、性別があるんだよ。恋愛対象は異性のみ、或いは同性のみ、または性別にはこだわらない等々」
 紅茶の湯気がゆらゆらやわらかく踊っている。弘は声には出さず、八代が言ったことを胸の中で繰り返して確認する。
 男だとか。
 女だとか。
 ――あたしが、女だから駄目なの?
 違う。
 違うよ、綾ちゃん。綾ちゃんが女の子だから、わたしが女の子だから、恋できないんじゃない。
「セクシャリティの定義づけはほぼ不可能と言っていいほど困難だから、今回は大幅に割愛して話を進めるけど――性自認、性指向、性役割、身体的性別は必ずしも一致しない。恋愛対象は異性または同性だけと思ってるひともいれば、性別は特に関心の対象にならないってひともたくさんいる。ただ、そういう考え方はまだまだ広まってないから、現代社会における男女という制度の中で生きてると、それに沿えないひとたちは少なからず苦労を強いられることになるだろうね」
 恋。
 男性。
 女性。
 異性。
 同性。
 ――そうか。
 綾野は、自分が女性であることに、当然のこととされている女性としての性役割を果たせないことに、当て嵌まらないことに、ひどく苦しんでいるのだ。恐らくは。
 女性としての性役割。
 現代社会においては、性別によって物事が決められる男女という制度が支配的だ。それは当たり前のこととして普及し、圧倒的大多数の人間が無自覚にこの制度に(のっと)って生きている。
 男女という制度というのはつまり、ヒトは男か女かのいずれかであり、それは明確に区別できて、たとえば愛する異性と結婚し、女性は出産して子育てをして家庭をつくり、男性はその家庭のために労働することが幸せであると考えることだ。
 そうすると、年頃になれば異性を好きになるというのも性役割のひとつだろう。が、同性である弘を好きだという以上、綾野はこれに当て嵌まらない。間違いなく綾野の身体的性別は女性で、性自認も女性だけれど、だからこその苦悩なのかもしれない。解けることのない懊悩(おうのう)なのかもしれない。――でも?
 もし綾野が男性だったら、弘は綾野の気持ちを受け入れただろうか。「わたしも好きだよ」と、弘にとっては未知の領域であるところに存在する『好き』の種類でもって、綾野の気持ちに応えただろうか。
 そうは思わない。
 根拠はないけれど、はっきりと言える。
 仮に綾野が男性だったとしても、そして弘を好きだと言っても、言われても、弘は綾野を今と違うようにはきっと愛さないだろう。
 ――わたしは。
 すとんと、何かが落ちたような気がした。
 ――わたしの『好き』に、性別は関係ない。
 恋であるかどうか、弘の恋に性別がどう関わってくるのかはまだわからない。
 ――わたしはまだ、恋を知らない。
 綾野を傷つけることになるのだろう。同じ想いで応えられない弘は、綾野を傷つける。思うと弘の心は沈んだ。恋ではなくても、好きだという気持ちに偽りはないから。
 ――まだ、恋を知らない。
 でも、今、わたしが抱いているこの気持ちは。
 わたしが抱いている、久我先輩に対する想いは。
 ――好き。
 わたしは、久我先輩を好き。
 弘はティーカップを両手に包んだまま、八代を見上げた。
 前髪が少し長い、真っ黒な短い髪。眼鏡の奥のやさしい微笑。弘が八代について知っているのは、たったそれだけだ。
「……すき」
 小さく、声に出して言ってみる。
「好きです」
 あなたについて知っていることが、たったそれだけでも。
 夕闇が迫っていた。
 広げられたノートには、絵だか文字だかわからないものが、ぐねぐねとのたうちまわっていた。
 紅茶の最後のひとくちを飲み干す。ノートの隅に、小さなハートを描いてみた。
「好き」
 ――綾ちゃんは、どんな気持ちでわたしの心に触れてくれるんだろう。
 不器用で口下手で、一途(いちず)な綾野。いつから想ってくれていたのだろう。これまでどれほど、不用意に傷つけてきてしまっただろう。
 謝ることしかできない。でも、それしかできないということをするのは、好きだからだ。
「好き……」
 誰に向けて告げているのかもわからないまま、繰り返す。
 はじめて触れた想いはとても繊細で、壊れそうで……けれどとても強いものだった。弘はそっとノートを閉じ、「ありがとうございます」と心をこめて告げながら、八代に返した。




 05 THE HIEROPHANT.
 「プリズム」

 END.