THE LOVERS.





 グラウンドを見下ろす畦道のようになっている開けた場所に膝を抱えて座って、(ひろむ)は何をするでもなく視界に収まる世界を眺めていた。
 薫風(くんぷう)はきらめき、グラウンドの土が白く反射している。空は青く、雲は所々に細い平筆で()かれたように流れていて、学校を見下ろすかたちで(そび)えている山も緑が濃い。
 麓のこの場所からでも、木が、葉が勢いづいているのがわかる。春は薄紅(うすべに)に、それを過ぎては若い新芽の色だった山が、今はもう恐ろしいほどに深い緑で栄えている。
 なんという変化だろう。
 自然はこんなにも短いサイクルで輪廻(りんね)を繰り返し、その都度ひとに畏怖と畏敬を抱かせる。
 緑の濃い風が吹く。弘の髪を(さら)っていく。
 グラウンドには誰もいない。この時間はどうやら開きのコマらしい。
 今の弘にとってはありがたいことだ。
 ふと、影が差した。
「よう。サボりか、クラス委員長」
 背中から声をかけられて、弘は少し笑う。ふり向かないまま答えた。
「うん。鷹羽(たかは)くんにお任せしてきちゃった。それに、優秀な人材が集まってるから、わたしがいなくても迷走しないの」
 自習になった四時間目。
 弘は鷹羽に教室の収拾を任せて抜け出してきた。
 綾野(あやの)が困惑すると、わかっていたから。
 弘自身、どのように綾野に触れればいいのか、判じかねていたから。
 まるで大気が移動するように、次子(つぎこ)は弘の隣に腰を下ろした。
「煙草はだめだよ」
「火ィ()けてねーよ」
「でもだめ」
 視線は交わさないまま、言葉だけを交わす。
 次子は冗談まじりに小さく舌打ちして、(くわ)えていた煙草を、取り出した携帯用の灰皿の中に押し込んだ。
 並んで座り、ふたりとも、口を開かなかった。
 風が吹く。空が流れていく。雲が白い。(まぶ)しいほどに光は満ちて、だから一層、どこか物悲しかった。まだほんの少ししか生きていない弘でさえ感じ取れるほど、意識が遠のくような懐かしさを(はら)んで。
 次子の指が、弘の頬に触れた。
 伊織(いおり)に深く爪を立てられ、傷ついて、今はガーゼが当てられている、本来ならばふっくらと薔薇色をした頬に。
「……痛むか」
 低い問いに、答えを惑う。
 薄いガーゼ越しに次子の指先を感じながら、弘は(まつげ)を伏せた。
「ううん」
 痛いのは、身体ではないから。
 痛かったのは、弘ではなく、伊織だったから。
 微かにくちもとを(ほころ)ばせて静かに言った弘に、次子は「そうか」と返し、触れていた指を離した。それから、躊躇(ためら)いがちに唇を開く。
「お前が宇佐美(うさみ)の感情に対して同調や共感できなくても、悪いことじゃないさ。ただ、固定観念を優先させて、名瀬(なせ)の気持ちを切り捨てるのだけはやめてやってくれ」
 わざわざあたしが言うまでもないことだとは思うが。
 付け加えると、発した言葉は嘘のように弱気に聞こえた。
 弘は驚いたように、鳶色(とびいろ)の瞳を少し見開いて次子を見る。が、すぐに双眸(そうぼう)はいつもの穏やかな、揺るぎのない信念の色に変わり、ほんのりと微笑んだ。
「――うん。大丈夫」
 いつ見ても、(さや)かな瞳だ。
 次子は泣きたくなる。
「……悪い。お節介だったな」
「そんなことないよ。ありがとう。……次ちゃん、いっつも誰かの心配してるね。ごめんね。……本当に、ありがとう」
 礼を言われる筋合いではない。
 心に従ったら、今のようになったまでだ。
「好き、なんだね……」
 夏を迎えにいく風に流されたそれは、独白だったのだろうか。
 答えたら、応えたら痛いだろうとわかっていながら、次子は眼を伏せたまま小さな声で肯定した。
「そうだな」
 下草の緑が、陽光に(つや)やかに照り映えている。水を()けば、きっと(たま)で弾くのだろう。やわらかな、しなやかな力強さ。
 陽射しが強い。髪が熱い。
 こんな真昼で、学校には生徒も教師も隙間なく整然と収められているのに、それらがすべて白昼夢のように遠い。
 諾々(だくだく)と繰り返される夜よりも、現実からほんの少し逸脱した真昼の方が無音なのは何故なのだろう。
 ぽつり。
 弘が、言った。
「きれいな感情だね」 
 両の手を祈るようなかたちで合わせる。何か大切な、尊いものを包んでいるようにも見えた。
「空気の結晶でできた白い砂みたい」
 次子は黙って、弘の組み合わされた両手を見つめた。
 多くのものを持つには、あまりにも小さすぎる手。けれど彼女は、その小さな両手で数えきれないものを(すく)い上げ、救い上げてきた。
 空気の結晶でできた白い砂は、弘の細い指の間から、さらさらと零れ落ちていく。風に攫われ、きらめきながら舞い上がり、そしていつかは空になる。
「次ちゃん。とても立ち入った質問で本当に申し訳ないんだけど、訊いてもいい? 答えたくなかったら、黙秘してくれてもかまわないから」
「おう」
 弘の濃い茶の髪に、陽射しがきれいに円を描いている。少し逡巡(しゅんじゅん)して、弘は小さく口を開いた。
「次ちゃんは、好きなひと、いる?」
「――……」
 ――ああ。
 ようやく、このときがきたのか。
 予想していたよりも、次子の心は波立たない。
 静かなものだ。
 どこかで覚悟していたからだろう。
 いつかはこの日が来ると、わかっていたからだろう。
 八代(やしろ)の出現で、次子の夢想のような予想は一気に現実味を帯びたに違いなかった。綾野の激情を間近で見てきて、確信したに違いなかった。
 たったひとりの存在で世界の色が変わることを、次子は身をもって知っている。
 それでも次子は、数瞬の間すべての言葉を失った。
「……ああ」
「それは、恋?」
 独りごちるように。
 恋、なんて。
 知らないままでよかった。
 どちらに対して思ったのだろう。弘に対してか、それとも、自身に対してか。
「たぶん。――或いは、それに限りなく近い」
 次子は淡々と答えるしかない。(あふ)れてしまいそうだから。
 弘は解けない謎を抱いたままだ。
 恋とは何か。
 その定義は。
「誰、か、訊いてもいい?」
 次子は傍らに座る弘を見た。膝を抱えて座っている弘を。
 彼女がそんなふうに縮こまって座るのは、ひどく傷ついている証拠だ。
 空を見上げる。
 晴れ渡った、青い空。
 眩暈(めまい)を覚えるほどの。
 ――何を描いてるの?
 繊細なグラデーションに染め上げられた、青い画用紙。モノクロームの空に鮮やかに色が(ひらめ)いた瞬間を、次子は忘れたことがない。それまでずっと単調でくだらなかった、どこにいても居場所を(つか)めずにいた次子は、あのときはじめて空気ですら輝くことを知ったのだ。
 光射すような、あの声。
 ――何を描いてるのか訊いてもいい?
「空」
 短く答える。
「十二のときから、ずっと。……もう、ずっと、」
 それ以上が、言葉にならなかった。
 それでも弘は理解しただろう。
 少し、綾野が(うらや)ましかった。
 次子は綾野のように弘に告げられない。綾野と次子の心の色は異なるだろうけれど、きっと似ている。そうでなければ次子はここまで綾野を気遣わないだろうし、あんなことを思わない。――あたしがもしも男なら、きっと弘を攫っていくのに、などと。
 偶然と必然の距離は、どれほどのものだろう。
 偶然にも、次子は性別を理由にして想いを遠ざけることができたから、今、こうして弘の隣にいられる。ほんの少しの痛みを、幸福だと思うことができる。……思い込むことが、できる。
 伏せていた(おもて)を上げた弘の頬に、涙の跡はなかった。ゆっくりと蒼穹(そうきゅう)を仰ぐ。
「その想いは叶う?」
 まるで願いのようだった。祈りだったのかもしれない。
「いや。――叶わない、だろう」
 誰よりも弘自身が、次子の想いが叶わないことを知っていた。にもかかわらず訊かずにいられなかったのは、叶ったらいいのに、どうか叶いますようにと、そんな想いが弘の中にあったからだ。
 心も身体もひとつだけ。
 弘は思う。
 誰か、たったひとりしか好きになれなかったらいいのに。誰の想いも交錯しなければいいのに。そうしたら、誰もこんなに苦しまない。
 八代を好きだと、綾野と鷹羽が傷つく。
 鷹羽を好きだと、伊織が傷つく。
 綾野と鷹羽を好きだと、八代が傷つく。
 そして恐らく、弘がささやかな特別をつくる度、次子は傷ついてきた。
「いいんだよ」
 きらめくような微かな風に紛らせるようにして、次子が言った。
 少し寂しそうに、微笑んで。
 ぽんと、弘の少し癖のある濃い茶の髪を撫でる。
「おまえは人間なんだから。特別がいたっていいんだ。当たり前だ」
 それは、やさしい訣別(けつべつ)の言葉だった。
 ()しくも八代が弘にくれた言葉と同じ。あの言葉によって、弘は想いに無数の色があることを知った。
 弘の鳶色の双眸から、涙が溢れた。
「謝るなよ」
 先を制して、次子が小さく笑って言う。弘はふるふると首を振った。
「でも……傷つけてばっかりだった……!」
「そうでもないさ」
「今だって……」
「笑ってくれ」
 弘の言葉を遮ったのは、とても単純な、願い。
 弘は顔を上げる。
 次子はいつかの遣り取りを思い出す。あのときも、弘とふたり、並んで座っていた。空は澄んで青く、景色は明るく、清冽(せいれつ)に輝いていた。
 弘とともに在る次子の思い出は、いつもそうだ。雨の日も曇りの日もあっただろうに、夕焼けも宵闇も見渡したのに、思い返して浮かぶのは、いつだって気が遠くなるほどに清らかな晴れた日だ。
 ――どうしたの? 次ちゃん、顔がにっこりしてるよ。
 ――おまえが笑うからだよ。
 そう。
 ひとは誰も、愛おしいひとの笑顔に報われる。ただそれだけでじゅうぶんだと思える。
 嘘みたいな真実だ。
「あたしは、おまえが笑ってないと、笑えないから」
 光を。
 もっと光を。
 世界を色鮮やかに輝かせる光を。
 ――弘。おまえはそれを、惜しむことなく降り注ぐことができる。
 ――あたしが笑うのは、おまえが笑うからだよ。
 次子の瞳がやさしい。
 いつもそうだった。
 まるで、出逢ったときに次子が描いた、透明な空気のよう。やさしく包んでくれる大気のように、次子はいつも在る。
 胸が痛い。
 涙が止まらない。
 けれど、あなたが望むなら。
 わたしにできることがひとつでもあるのなら、望んでくれることがあるのなら。
 わたしはそれを、一心に捧げる。
 弘は眼鏡を外して涙を拭った。一瞬だけでいいから止まって、と強く思う。
 深呼吸をして。
 次子に正面から向き合う。
 ありがとう、と思う。
 丁寧に微笑む。
 次子はそっと、穏やかに微笑み返してくれた。
 次子と弘はそれぞれ想う。

 愛しいひとよ。
 わたしはとても、報われたのです。




 06 THE LOVERS.
 「はつ恋」

 END.