THE CHARIOT.





「ごめんね、返すの忘れてた」
 言いながら(ひろむ)のノートを差し出したのは、珍しく早めに部活が終わったらしい同じクラスの鷹羽(たかは)だった。
「ううん、いいよ。わざわざありがとう」
 ひよこ色のエプロンをした格好の弘は、にこやかにそれを受け取る。鷹羽は「解説つきですごく助かったよ」と言いながら、物珍しげにきょろ、と弘の肩越しにむこうを見回した。
 弘や鷹羽が通う成花(せいか)第一高等学校には、それは見事な温室がある。屋根がアーチを描く、全面硝子(がらす)張りの大きな温室だ。中では主に様々な種の薔薇が栽培されているほか、実験に使われる植物、小さな菜園やハーブ畑もある。ただ、この温室は通常関係者以外立ち入り禁止だ。年に一度の文化祭のときだけ一般に開放される。
「すごいね。温室ってはじめて来たよ」
 出入り口に立ったまま、鷹羽が感心したように言う。
 当たり前だけど、緑のにおいがするね。
 弘は笑う。
「うん。五月だからね、きっと今がいちばん緑の勢いがついてるときだから。薔薇もいっぱい(つぼみ)がついてるし、ちょっとだけ見ていく?」
「いいの?」
「たぶん。先輩にお聞きしてみるね」
 ノートを抱いて、「先輩ー」と呼びながら、弘が奥に入っていく。鷹羽は入り口付近に整然と並べられたプランターや鉢植えを眺めた。そして、繁った緑の奥から。「この忙しいときに見学者かあ。手伝わせちゃうよ」。軽い調子の声が聞こえてきた。その声に、鷹羽は耳を疑う。
 今の、声は。
 ――聞き間違いであってほしい。
 切に願う。どうか、聞き間違いであってほしい。心拍数が一気に上がる。
 ――もう、あのキスを忘れたいのに。
 鷹羽の願いは、叶わなかった。
柘植(つげ)サンの友達だって?」
「はい。中学校のときからの友人です」
 他愛のない会話。小柄な弘のあとから、均整のとれた長身がすっと姿を現した。
 短い黒髪。度の入っていない眼鏡。長い指。
 嫌というほど知っている。もう忘れたい、鷹羽自身の弱さの象徴。鷹羽を捉えて離さない暗い影。
 そうして、
 ――そうして目が合った瞬間、空気は一瞬にして凍りついた。
「鷹羽」
 珍しく、感情を(あらわ)にした八代(やしろ)がいた。
 右手に剪定(せんてい)用の(はさみ)を持った、黒いエプロンをかけた八代が、鷹羽を認めて驚いている。
 驚いたのは鷹羽も同じだった。
 八代が園芸部員であることなど、まったく知らなかった。部活の話は弘ともよくしたけれど、弘はいつも「先輩」としか言わなかったし、鷹羽もたいして気に留めていなかったのだ。
 鷹羽の脳裏に、あの朝が再現される。もう幾度となく繰り返し、繰り返し、夢にまで見たあの朝が。
 もう来ない、と。
 八代に別れを告げた、八代と訣別(けつべつ)するはずだった、最後になるはずだった、あの朝。
 ふ、と、八代の瞳が冷たく(わら)った。
 刹那(せつな)のことだったが、鷹羽は見逃さなかった。
 ――気づかれた。
 鷹羽は悟った。気づかれてしまった、鷹羽が救いを見出した存在を。事実、八代はほぼすべてを見破った。
 八代は、嗤った。
 黒い、暗い感情が腹の底から湧き上がる。弘を傷つけることが、弘の醜さを引きずり出すことが、鷹羽を蹂躙(じゅうりん)するにじゅうぶんであることを見抜いて。
 そして同時に、この弘こそが、鷹羽を八代の手の内から解放させた――解放させようとした存在であることを知った。
 八代の胸中に、なんと呼ぶのかわからない、激しい感情が渦巻く。暴れる。
 八代はもう既に、どうやって弘を傷つけようかと考えている。
「先輩。鷹羽くんとお知り合いなのですか?」
 何も知らない弘は、無邪気に八代を見上げる。八代はすぐさま仮面を被る。やさしい先輩の顔を取り戻す。
「うん。中学のときだったかな。その頃俺もまだ空手やっててね。市民体育館で試合があって、そのとき偶然知り合ったんだ。ね、『はーくん』?」
 はーくん、は、八代の、鷹羽に対する蔑称(べっしょう)だ。鷹羽をいたぶるとき、八代はそう呼んで嘲笑(あざわら)う。



 その出会いは偶然だったが、そのことで、八代は再び鷹羽を支配できるはずだった。弘が八代の手の内にあると、そう見せることで、鷹羽を繋ぎ止め、踏み(にじ)り、求めさせる。一方的に求めさせる。そしてそれに応えない。そういうこれまでの関係を、取り戻せるはずだった。
 けれど、弘は八代のそんな弱さで傷つけられるほど、脆弱(ぜいじゃく)ではなかった。彼女は強かった。純粋で気高(けだか)く、やわらかに強かった。
 その日はどんよりとした曇り空で、八代はいつものように偏頭痛に悩まされていた。温室の片隅にある長椅子で弘とともに休んでいたが、仕事をしなければ部活にやってきた意味がない。
 八代はなんとか身体を起こして、こめかみを押さえつつ弘と一緒に草取りをはじめた。
 温室の中で主に栽培されているのは薔薇だ。様々な種のそれが、地植えになっていたり鉢植えになっていたりする。その合間合間に、別の花が、観葉植物が、色のバランスや背の高さ等を考慮されて並んでいる。そこに点々と、けれど(たくま)しく、野草は生きていた。
「でも、抜いてしまうのですよね」
 弘は残念そうに、少し哀しげに呟く。
「この子たちにもちゃんと名前があるのに……雑草、と一括(ひとくく)りにして捨てられてしまうのは、理不尽にも思います。お花屋さんには並んでいませんけれど、この子たちだって同じ植物で、こんなにきれいなお花をつけるのに」
 八代はふと心が緩むのを感じた。それはずっと、八代が抱いていた感情と同じものだったから。
 それなのに八代の唇から零れたのは、そんなことを考えているなどとは微塵(みじん)も思わせない怜悧(れいり)な言葉だった。
「偽善だね」
 いつもの微笑を浮かべて、八代はぶつぶつと小さな白い花を咲かせているそれらを土から引き抜きながら言う。
「柘植サンはどこまでもそういうキレイゴトの世界で生きてるんだなあ」
 ――傷ついて。
 そう願いながら。
 己の中に暗い感情を見つけて、そしてそれに犯されるといい。
 ――傷ついて。
 祈るように思う。
「偽善――でしょうか」
 けれど弘は、八代が予想したどれとも異なる反応を示した。
 きょとんとして、首を傾げる。
「そう思うね」
 一体、何を思っているのか。わからない。
 再び頭痛が酷くなってきた。頭が割れるように痛い。
 苛々(いらいら)する。プロセスなどどうだっていい。こんな問答は必要ない。八代が欲しいのは、弘が傷ついたという結果だけだ。
 弘は草を取る手を止めて、はったと八代の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「では、先輩は、善とはどういったものだと思われますか?」
 正面からぶつかってくる。
「わたしは未だに、善や悪というものを明確な言葉でもって定義づけることができません。色々と考えてはいるのですが――いつ如何(いか)なるときでも通用する定義を、未だに見つけることができずにいます。先輩は何を善とし、何を悪として善と偽善を見極めていらっしゃるのですか?」
「今柘植サンが言ったのは詭弁(きべん)だね、とりあえず」
 知らず、指先が震えた。どこかにあるはずだ。何故なら、弘も人間なのだから。
 ――それなのに。
 弘はすいと視線を手もとに戻して、ささやかな白い花を見つめ、呟く。
「詭弁――でしょうか。そう……でも、」
 弘も人間だ。
 八代と同じく。
 ――それなのに何故、こんなにも。
「わたしがそう思うのは本当のことですから……偽善でも詭弁でも、わたしが今思っていることは確かに自分の中の真実ですから、わたしは悩んでいるわたしがいるという事実は、せめてそれだけは心から信じます」
 八代は息を詰める。苦しい。喉の奥がひりつく。何故だろう。何故、泣きそうになどなっているのだろう。
「一体何を?」
 自嘲(じちょう)気味に嗤うと、弘は少し驚いた様子を見せ、八代を覗き込んだ。
「自分が考え、思ったことです。考え、思っている自分がいるという事実です。自分自身で考えて出した答えや考えている途中のこと、たとえひとがそれに対して何と言おうと考えているのは事実なのですから、それを否定する必要はないと思います。考えているのに考えていないのだと否定したら、矛盾してしまいますもの」
「矛盾を矛盾と感じないまま、或いは気づかないふりをして生きていくのは結構簡単なことですよ柘植サン」
「……? ……ご自分を? 信じられないのですか?」
「違うよ」
 ぶつりと、白い花を()千切(ちぎ)る。
 苛々する。
 頭が痛い。
「信じられないんじゃない」
 何故こんなにも泣きたいのだろう。涙など、もうとうの昔に枯れ果てたはずだ。八代の中に残っているのは、支配欲と、焦燥と、苛立ちと、――そういった、乾いた冷たい、暗いものだけのはずだ。
「信じないんだよ」
 指の震えは腕を伝い、唇に届いた。微かに声が揺れる。これでは本当に、泣き出す直前の子どもだ。
 押さえつけて、捻じ伏せて、泣かせたい。
 弘を手酷く裏切りたい。
 そして憎ませ、恨ませたい。
「久我先輩――」
 弘の声がする。甘やかな声。昔日(せきじつ)の八代が求めたものを思い出させる、やさしい声色。
 かつて、八代も人並みにそれを求めたことがあった。そして、叶わなかったから、諦めた。(すが)りつくよりも、諦めた方が――諦めたと思い込む方が、傷つかずにすんだから。
 吸い寄せられるように弘の瞳に見入る。鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)が、透明に澄んで八代を映している。
「あなたは何を怖れているのですか?」
 八代の中で、何かが弾けた。




 07 THE CHARIOT.
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 END.