STRENGTH





 ありえない。
 と、綾野(あやの)は思った。
 あり得るからこそあるのだから、ある以上あり得ないわけはないのだが、それでも綾野は思った。
 ありえない。
 かんと晴れ渡った日だ。
 夏というにはまだ早いけれど、動いていると汗が(にじ)む。グラウンドは学校指定のジャージ姿の生徒でいっぱいだ。男子生徒は(こん)の、女子生徒は赤の。午前中の早い時間は上下共に冬用のジャージを着用していた生徒が多かったが、昼少し前あたりから、上だけ半袖とか、或いは上下とも半袖、ショートパンツの夏の格好になっている者も出てきはじめた。
 鼻の下に溜まった汗を(ぬぐ)いながら、綾野は少し荒い息をつく。
 確かに、冬の格好でいるには今日はあたたか過ぎる。
 綾野は暑いのが嫌いだ。だが、長袖、長ズボンのままだ。陽に()けると皮膚が引きつれたように痛くなるからだ。あの感覚が綾野は嫌いだった。で、どちらに転んでも嫌い嫌いでどうしようもないので、不機嫌に眉を(ひそ)め、口をへの字にして、じわじわ出てくる汗をタオル地のハンカチで拭き拭き運動能力・体力診断テストに臨んでいるというわけだ。
 付け加えると、綾野はこの運動能力テストとか体力診断テストとかいう実技試験も嫌いだ。
 理由はただひとつ、面倒くさい。これだ。
 何が悲しくて百メートルの距離を無呼吸で駆け抜けねばならんのか。何が苦しくて鉄棒にかじりついて懸垂などせねばならんのか。
 走るのも跳ぶのも嫌いだ。柔軟運動も嫌いだ。とにかく面倒くさいことは軒並み全部片っ端から嫌いだ。しかも綾野にとって面倒くさくないと思えることはほとんどないので、大抵いつも嫌いなことをやっているということになる。何せ食事すら億劫(おっくう)なのだ。だから綾野はいつ見ても不機嫌そうだ。実際不機嫌だし、胸の中は嫌い嫌い嫌い、こればかりで埋まっている。
 ちなみに、それらは本当にただ嫌いなだけで、苦手なわけでは決してない。
 綾野は、苦手なことは少ないのだ。勉強についてもそうだが、走るのも跳ぶのも平均以上の記録をたいした努力もなしに叩き出すことができるし、はじめて経験することでも、よほど難しいことでもない限り、難なく器用にやってのける。
 でも嫌いだ。
 何もかも嫌いだ。
 今までずっと、やってできないことはないが、やらなくていいのなら何もやりたくない、というのが綾野の基本だった。
 けれど、今は少し、ほんの少し、違う感情が混じっている。何、とはっきり言語化することはできないが、嫌いだとか面倒くさいとか馬鹿馬鹿しいとか、そういった感情の中に、それらとは正反対の気持ちが一筋、風に揺られる柳のように流れている。
 原因は明らかだった。綾野はその原因たる人物をちらりと見遣る。
 首にストップウォッチを引っ掛けて、名簿とボールペンを持っている(ひろむ)は、上は長袖だが下はハーフパンツといった格好だ。ほっそりと伸びた足は白くて、けれど如何にも健康そうだった。
「よーす。柘植(つげ)ちゃん、中島(なかじま)三メートル九十八ー」
「はーい。いいよ、次いってー」
 クラスの体育委員と一緒に、幅跳びの記録をとっている。弘は確かにクラス委員長だが、運動能力、体力診断テストで働くのは主に体育委員のはずだ。が、手伝っている。いつの間にか手伝っている。いつも、何に対してもそうだ。彼女はよく働く。嫌な顔ひとつ見せない。綾野からするとそれは驚異だ。
「みんな跳んだね。じゃー弘君跳んでー」
「はーい!」
 くるりと綾野にふり向いた。
「綾ちゃん、これ預かってくれる?」
「ん、うん」
「ありがとー」
 にっこり笑って言う。ボールペンを名簿に挟み、ストップウォッチを首からはずして、ふたつを綾野に手渡した。
「じゃあわたし、ちょっと行ってくるね」
 にこにこしながらひらひら手を振る。思わず、「あ、」と声が漏れた。
「なに?」
 耳聡く聞きつけて、弘は小首を傾げる。やわらかそうな濃い茶の髪が、ふわりと揺れる。綾野はなんだか(ほほ)が熱くなるのを感じた。えーと、とかごにょごにょ言葉を探すが、気のきいた台詞(せりふ)を思いつかない。弘は無邪気に綾野の言葉を待っている。それで結局、綾野は、
「がんばって」
 と、まるでポンコツロボットみたいにぎくしゃく言った。
 それでも。
「うん。がんばる!」
 綾野を真っ直ぐに見て、笑ってくれる。
 ああ。
 こういうとき、綾野はいつも、もうどうしたらいいのかわからない、むにゃむにゃした気持ちになってしまう。どうにもこうにもむにゃむにゃした気持ちになって、それから弘をぎゅーっと抱きしめたいような衝動に駆られる。一体どういう心の働きなのかわからないが、そのたびに顔が赤くなっているような気がして、綾野は周囲に感づかれないように、必死で無表情を保とうと努力するのだった。
 ぱたぱたと弘が走っている。擦り切れた白い踏み切り板。歩幅はぴたりと合っている。
 そして、跳躍。
「二メートル十七ー」
 あ・り・え・な・い・!
 綾野はずるりと脱力した。
 そうなのだ。弘はどうやら、なんというか、その、有体(ありてい)に言ってしまうと、運動音痴であるらしかった。
 二メートル十七。二メートル十七。
 頭の中でぐるぐる回る、コメントに(きゅう)するこの記録。走って踏み切って跳んで、何故二メートル十七。立ち幅跳びではない、走り幅跳びで何故二メートル十七。
 ありえない。
 綾野はくら、と軽い眩暈(めまい)を覚えた。柘植弘、トロすぎる。
「ありがとー綾ちゃん」
 けれど綾野にとって不思議なのは、弘がその記録にほとんどまったく頓着(とんちゃく)していないということだった。弘の記録はクラス内ではぶっちぎりの最下位だ。でも、弘にそれを気にしているような様子はないし、周囲も悪意の揶揄(やゆ)をすることがない。笑いながら、「柘植ちゃんがんばって」、「弘君しっかりー」と応援するだけだ。弘も笑って(こた)えて、綾野にしてみれば考えられないほどの記録を出して、それでも恥じ入る様子はない。
「綾ちゃん運動もできるんだね。すごいなあ」
 きらきらした目で見上げてくる。(ねた)みでも(そね)みでもない、もちろん厭味(いやみ)などではない。単純に、凄いと思ったから凄いと言った、そんなふうだ。
 綾野はそわそわして、視線を泳がせてしまう。弘はいつも真っ直ぐに目を見て話そうとするけれど、綾野はそれに慣れていない。だって家族の誰も、そんなコミュニケートのとりかたをする者はいなかった。クラスメイトだった誰も、綾野にこんなに親しく接してくる者はいなかった。
「あんた運動苦手なの」
 綾野は未だに、弘を名前で呼べないでいる。どう呼んだらいいのだろう。「柘植さん」、「柘植」、――それとも、「弘」と、呼んでもいいのだろうか。なんとなくタイミングを逸してしまったような感じだ。弘の綾野に対する呼び方は、「綾ちゃんって呼んでもいい?」という直球によるのだが、綾野はどうしてもそんなふうに親しげに笑いかけることができない。
「うん。苦手。動くのは好きだけどね。えへへ。能力が追いついてこないんだ。下手の横好き」
「すごい記録」
 厭味を言ったわけではない。
 ただ、綾野は、ひとと親しく話し交わすということに慣れておらず、どんな言葉を選べばいいのかわからないのだった。それに加えて、弘の前ではわけのわからない緊張に縛られる。綾野はいつも、何か言ってしまってから、弘が傷つかないように、誤解しないようにと願うばかりだ。
 幸い、今回も弘は綾野の言葉を悪い意味には取らなかった。
 うん、と(うなず)いてゆっくりと呼吸深く、そっと微笑む。
「でも、一生懸命やったから。いつも一生懸命、自分にできる精一杯でがんばるから、記録が平均以下でも恥ずかしいとは思わないよ」
 顔を上げて。
 真っ直ぐ。
 前を見て。
 真っ直ぐ。
「わたしはわたしの目標を達成することをいつも目指してがんばるの。学校ではほかのひとと比較されるけど、自分では自分と他人を比較しないんだ。個人っていう時点で既に誰とも同じ土俵に立ってないんだから、ひとと比べて自分はできないって思わない」
 そうしないとわたし、落ち込んで立ち直れないよう、と冗談のように笑う。がんばるって、こんなにやさしい言葉だったろうかと思う。弘はいつも突き抜けて明るくて揺らがない強さがあって、その欠片に触れるたび、綾野はいつもほんの少し泣きたくなった。
 自分の目標を達成することを目指す。
 そうしたことが、今まであっただろうか。綾野には、他者と競争していた、――それを強いられてきた過去しかない。過去は変えられない。でも、未来は、これからはやりたい放題だ。自分で考え、自分で決めて。それはきっととても重いことだろう。肩代わりのきかない責任が、重くのしかかってくるだろう。その代わり、きっと、誰も恨んだり呪ったりすることなく、まっさらでいられるような気がする。そのすがしさは、弘の、ひたりと平らかで透明な鏡のような湖みたいな心に似ている気がする。
 手に入れられるだろうか。弘と同じ目線を。
 がんばれば。
 諦めなければ。
 無様でも必死で生きたら。
 ――深呼吸。
 身体の奥を洗い流す。目指すのは(いただき)。今はまだはるか遠い。けれどそこに辿り着くことは、人智の及ばない境地の話ではない。
 深呼吸をして、胸を鎮める。数歩前を行く小さな背中に向かい、大切に抱きしめるように、綾野ははじめてその名前を口にした。
「弘」
 目指すのは、頂。



 08 STRENGTH.
 「その日を摘め」

 END.