THE HERMIT.





 心とはなんだろう。
 この身体のどこに、どんなかたちでそれは存在しているのだろう。
 肉体的にも精神的にも、「私だ」と胸を張って言い切れる自我は、自分という存在の中で何パーセントを占めるのだろう。
 きっと、恐ろしく低いのだろうと思う。
 落ち込んでいても腹は減る。食べなければ死んでしまう。肉体は意識せずとも生きていくために必要な仕事を、内臓がそれぞれに機能して処理してくれている。それは意識とは――心とはかけ離れたところでの話だ。
 肉体は生きていくためにできている。
 エネルギーが足りなくなれば飢える。怪我をすれば癒す。たとえ意識していなくても、肉体は生きるようにプログラムされている。
 そう考えていくと、自分自身が意識してコントロールしている部分など、自己という深い海のほんの表層ほどしかないのではないかと思えてくる。意識しているようで、制御しているようで、そうではない自己。それは自己と呼べるのか。自身の中に他人がいるようだと思った。
 ――私を操り、生かし、突き動かす私ではないモノがいる。それも無数に。
「……気持ち(わる)……」
 闇の深淵(しんえん)でちらちらと光る無数の目が、私の中から常に私を監視し操っている。
 それを想像して、伊織(いおり)は口に手を当てた。
 気持ち悪い。本当に吐きそうだ。
 どうしてだろう。
 自分とは。どれほどのものなのか。どこからどこまでが自分なのか。
 ――何故。
 一目見てわかった。「これは絶対に叶わない」と伊織の本能が告げた。そしてそれは的中した。
「ヒロリンのこと好きなの?」
 祈るような、願うような、せつないような気持ちで、冗談めかして(たず)ねた。
 彼は少し、困ったような微笑を見せた。線の細い、中性的な彼の、整った眉。
「好き……っていうより、」
 彼は落ち着いていた。静かなひとだった。けれど、彼がそう在れるのは、(ひろむ)という存在が(かたわ)らにいることに多分に起因しているのだと、最近知った。
 彼は伏し目がちに微笑んでいた。女顔の彼の(まつげ)は長く、陽の光に金色に透けていた。落ち着いたアルトの声が、とても大切そうに、その名前を――想いを、紡ぐ。
「弘君のことは。――愛してるんだよ」
 (わず)かの迷いもない、真っ直ぐな気持ちだった。伊織は笑って、「仲良しだもんねぇ」といい加減なことを言った。
 愛してるんだよ。
「アイシテルンダヨ」
 次子(つぎこ)の背中に(もた)れて、だらりと四肢を脱力させている伊織はまるで溶けかけたアイスクリームみたいだった。どろどろでべたべただった。ただ味だけがひどく苦くて、アイスクリームとはほど遠い。
 鷹羽(たかは)の口調を真似て(つぶや)き、
「は!」
 くだらない、と吐き捨てた。
宇佐美(うさみ)
「まーあー。たーしーかーにィ、ヒロリンとはーくんって仲良しだなーとは思ってたけどォ。愛してるだって。あ・い・し・て・る。うわっ(さむ)っトリハダ」
「宇佐美」
「でさーヒロリンにも()いてみたんだけど。なんて言ったと思う? とても大事ですごく好き、だって。っかーもーヒロリンらしいキレイゴトだよねー」
 蝉が鳴いている。
 夏だ。
 今日は天気もよくて、影が濃い。生温かくなってしまっているフローリングの床の上に、モザイクタイルのトレイがあり、そのトレイにはオレンジジュースのグラスが汗をかきかき立っている。氷が溶けた分の半透明の液体が、オレンジの上に揺れている。小さな折り畳み式のテーブルには、ノートや教科書が広げられたまま。
 ほんの数分前、弘と鷹羽はじゃんけんに負けて、近くのコンビニまでアイスを買いに出ていった。
 エアコンはつけていない。窓を全開にしているが、風が吹いてもぬるいだけで、ちっとも涼しくない。むしろ皮膚がべたついて気持ちが悪かった。
 それでも伊織は、次子の背中に背中をぴったりとくっつけて溶けている。どんなに溶けても絶対に混ざり合うことは――ひとつになることは叶わないけれど、精一杯溶けてみる。
 触れ合っている背中が熱い。
 じっとりと汗をかいている。
 次子はテーブルに肘をつき、気に入りの煙草をくゆらせている。鬼のいぬ間のなんとやら。
 ざわざわと緑が騒ぎ、蝉時雨、突き抜けた蒼穹(そうきゅう)、輝く入道雲。
「……なんでかなあ」
 ぽつり、と、呟いた。
「次子、さあ。皆苗字で呼ぶのに、ヒロリンだけは弘って呼ぶよね」
 独りごちるように。
 次子は応えない。
 風に紫煙(しえん)がゆらゆら踊る。
 背中が熱い。汗が染みて、きっとシャツが濡れてしまっている。それでも伊織は離れない。
「頼んでも伊織って呼んでくれないのに。次子もヒロリンが特別なんだぁ」
 嘲笑(ちょうしょう)(にじ)んだ。
 自分自身に対する嘲笑が。
「――……なんで、かなあ」
 涙が(にじ)んだ。
「どーしてみんな、弘君がいちばんなのかなあ。なんで全部、弘君が持ってるのかなあ。どーしてあたしじゃ駄目なのかなあ」
 ぽた、と一粒、汗ばんだ太股に水滴。
 伊織は乱暴にそれを擦る。
「次子のいちばんが弘君で、一色(いっしき)君のいちばんが弘君なのに、弘君のいちばんは次子でも一色君でもないんだよ」
「ベクトルの向きに法則性はないからな」
 ふう、と煙を細く吐きながら言う。
「でもあたしのいちばんは絶対弘君じゃないからね」
「あーそーですか」
 次子の気のないような返事からは、彼女が何を思っているのか、わからない。伊織はなんだか何もかもが面倒くさくなる。
 ああ、もう、すべてを放棄してしまいたい。
 来たれ、世界の終焉(しゅうえん)
 来たれ、裁きの時よ。
 あらゆる糸を断ち切って、どうか自由に。どうか自由に。
「ツギコの一番はヒロム。
 タカハの一番はヒロム。
 でも、ヒロムの一番はツギコでもタカハでもない。
 ヒロムの一番は」
 ――ここに。
 あたしの名前が入ったら。
 弘の一番が伊織だったら、自分自身だったら、どんなにか楽だろう。伊織の一番は弘ではないけれど、弘の一番が伊織だったなら。
 それはどれほどの優越だろう。
 片想いされるというのは、なんて愉快な事象なのだろう。はじめから、立場が対等でないのだ。この、私の足もとに、相手がいるのだ。
 (すく)い上げるのも踏み(にじ)るのも思うがままだ。己がすべての中心、すべてを決定づける権限を持った絶対者なのだ。
「……ふふ」
 堪えきれない。
 狂的な笑いが(はら)の底からせり上がってくる。
「あっははっ」
 次子の背中に自身の背中をぴったりとつけたまま、伊織はひとしきり(わら)った。
「馬っ鹿みたい。みんなカタオモイじゃん。みんな()(つくば)ってんじゃん。愛してるだって。馬鹿じゃないの」
「弘はおまえを好きだよ」
 決して大きな声ではなかった。どちらかと言えば(つぶや)きに近いそれだったけれど、何故だか音叉(おんさ)が共鳴し響き合うように広がり、その言葉は伊織の発作を一気に鎮めた。
「……」
「だから、弘はおまえに何も言わないだろう」
 ヒロムはオマエを好きだよ。
 ヒロムは。
 ヒロムの一番はワタシではないけれど。
「……一色君は弘君を愛してる」
「うん」
「弘君のいちばんがあたしだったら、あたしは今、楽だと思う?」
「思わねえ」
 どこからどこまでが自己なのか。
 何故、自分自身と言いながら、制御不能の部分がこんなにも多いのか。意識が届かない範囲の、なんと広いことか。
「次子」
 次子の背中に頬を寄せる。汗のにおい。シャツが冷たい。
 ……泣きたい。
「好き」
「知ってる」
 好きなの。
 (うつむ)く。涙が一粒二粒、ぱらぱらと落ちた。
 好きだ。
 どうしようもなく。
 けれど叶わない。
「もう、終わりたい……」
 伊織の想いは絶望的に、彼には届きそうになかった。彼は弘をいちばん愛していたから。それは伊織が彼に抱く想いとはまったく異なるものだったけれど、それでも、彼が愛しているのは伊織ではなく弘なのだという事実は曲げようもなかった。
 想いは常に、一色(ひといろ)ではなかった。無数の色数があり、滲んだりぼやけたりしながら、様々に錯綜(さくそう)していた。伊織はその絡まりに足をとられた。
 終わりたい、という言葉が、どんな意味を持ったものなのか、次子にはわかりかねた。答えとなり得る可能性なら億でもあったが、現実はひとつだけだ。真実は常にひとつとは限らないが、現実は、選択された過去は、ひとつだけだ。
 次子は煙草を携帯用の灰皿に押し込んだ。背中で伊織が不規則に震えている。
「あたし……あたしだって……」
 終わりたい。
 届かない想いなら、早く風化してしまえばいい。
「あたしだって、弘君のこと好きだよ……」
 だからこんなにも苦しいのだ。
 次子はかける言葉を持たない。沈黙を続ける。それしかできない。ただ、
 ――伊織の恋は、叶わないだろう。
 次子にわかるのは、それだけだった。
 すん、と小さく鼻を鳴らして、伊織が呟いた。
「でも。――じゃあ弘君は、誰を好きなの?」
 切迫した問いだった。
 答えられる者は、いなかった。
 恐らく、本人ですら答えられないだろう。彼女は未だ深い眠りの中にいて、幸福にも不幸にも触れたことがなく、無垢なままだ。
 その質問に答えが出たとき、恐らく私たちはやっと真実に気がつくだろう。
 伊織の涙を感じながら、次子はぼんやりとそう考えていた。



 09 THE HERMIT.
 「神様の恋」

 END.