WHEEL of FORTUNE.





 きりきりと、(つる)が鳴く。
 矢を(つが)えた腕はぴんと張り詰めて緊張している。そのくせ、余分な力は一切入っていない。
 あるのは静寂。
 大気すらその流れを止めているかのような、真空の状態。
 そうしてひたすら、待つ。
 矢は放つのではない。放たれるものだ。
 矢が、この手から離れるのを待つ。
 ふと、自身と世界の境界線が消失した。意識が遠のく。無になる瞬間。気づくと、矢は的の中央から(わず)かに右上に突き立っていた。
 (ひろむ)はそこではじめて呼吸を知ったように、深く息を吸った。
 弓道は、父が(たしな)んでいたことで、幼い頃から弘の身近にあった。弓に触れるようになったのは自然な流れだ。最初は弦を引くことすらままならず、矢を番えるなどもっての外だった。的を射抜くなど、何をかいわんや、だ。が、心が次第に平らかになり、意識が集中するのを自分自身で感じ取れるようになった頃、矢は放つのではなく、放たれるものだということを知った。すべがそこに在りながら、己もその中に在りながら、完全な無になる、そういう感覚を知ってからは、弓は心を静めるのにとてもいい方法になった。
 弓道場の後片付けをしながら、弘は唇を引き結ぶ。
 土曜の午後だ。空は晴れ渡っている。綿を千切(ちぎ)ったような雲が、眠たいときの羊みたいにぽっかりと浮いている。教師に頼んで弓道場を開けて貰った弘は、ひとりで弓を引いていた。
 落ち着きたかった。
 落ち着いて、そして考えたかった――考えなければいけなかった。それは困難を極めた。今までに経験したことのない出来事だったから。しかも相手にとってはとても、とても大切なことだったのだと、それだけはわかったから、冷静に考えるということが、弘には珍しく上手くいかずにいた。
 弓道場を出、鍵をかける。職員室に向かいながら、弘は手をじっと見つめた。
 八代(やしろ)の胸を押し返した右手。
「弘君!」
「はい」
 名前を呼ばれて反射で返事をする。ふり向くと、鷹羽(たかは)だった。部活だったしい。シャワーを使ったのだろう、まだ濡れた髪が(つや)やかに黒い。
 鷹羽は小走りに寄って弘の横に並ぶと、微笑しながら覗き込んできた。そこに心配の感情を読み取れるのは、相手が鷹羽だからだ。
「珍しいね、いつも市民体育館の弓道場に行くのに」
 何かあった?
 続ける瞳が不安に染まっている。弘は笑って首を振った。
「ううん。今日、市の試合だから。ご迷惑になっちゃうと思って」
「ああ、そういえば佐伯(さえき)が言ってたな」
 弓道部の友人との遣り取りを思い出したらしく、(うなず)いた。
「じゃあ、本当に」
「なんにもないよ。ふふ、鷹羽くん心配性。大丈夫だよ」
 弘は明るく笑うが、鷹羽の表情からは暗さが抜けきらない。弘は眉尻を下げる。鷹羽が過剰なほどに心配をしている理由が自分にあることを知っているからだ。視線を落とし、鷹羽の左腕を見る。
 七月、衣替えはすっかり済んだ。弘も鷹羽も夏の制服だ。白い、きちんとアイロンがあてられているのだろうぱりりとした開襟シャツの半袖から伸びる腕。包帯こそしていないものの、痛々しい傷痕(きずあと)が肘から手首にかけてざっと下りている。
 鷹羽が自ら爪を立て、皮膚を引き裂いた痕。
 暗く沈んでしまいそうになるのを抑えて(たず)ねた。
「怪我はもう大丈夫?」
「うん。……心配かけて、ごめん」
 弘はくすりと笑う。
「うん。心配した。でもわたしも鷹羽くんにいっぱい心配かけたから」
 しばらく鳴りを潜めていた鷹羽の自傷癖(じしょうへき)が、一時の激情に駆られた突発的なものだったとはいえ再発したのは、弘が八代に殴られたことを知って、彼が負いきれない責任感と恐怖に押し潰されたからだ。
 それがわかっているから、弘はあえて軽く受け流す。もちろん、無残に傷ついた鷹羽の腕を見たときは、叫ぶようにして泣いたが。
 鷹羽が自傷癖を持っていることは知っていた。当時まだ弘は八代を知らず、だから鷹羽が何に追い詰められて自分で自分を傷つけているのか見当もつかなかった。
 無知だった。
 無力だった。
 そんな弘に、鷹羽は愛していると言ってくれた。
 弘は何も知らないまま、それならそんなふうに自分を傷つけないでと言い、鷹羽はそうあることを誓ってくれた。
 だから今回鷹羽に新しい傷をつけたのは、ほかならぬ弘なのだ。
「お互い様っていうことで、気にするのはやめよう」
 ね、と笑って鷹羽の手を取る。
「……うん」
 控えめに、鷹羽は笑った。少し困ったような、照れたような笑顔。その表情と繋いだ手の温度に、弘は安堵(あんど)する。
 見上げれば空は果てしなく、夏雲がはるかに輝いている。哀しいことやつらいこと、痛いこと、怖いこと――そんなものがあるという現実が嘘のように、目映(まばゆ)い光が隅々までを照らしていた。
 しばらくの間、ふたりとも無言が続いた。蝉の声が風に乗って、近くなり遠くなりを繰り返す。
 手を繋いだまま歩く。
「鷹羽くん、これから何かご用がある?」
「え、あ……ううん、ないよ」
「じゃあ、ちょっと公園に寄り道、お付き合いしてもらってもいい?」
 小首を傾げて微笑んだ弘は、どこか寂しそうだった。こんなときいつも、鷹羽はどんなに長い時間を一緒に過ごしても、抱き合って泣いても、触れ合えない部分があるのだということを思い知る。
 夏の公園に音はなく、ひたすらに清浄で苛烈(かれつ)な白い光が乱反射していた。
 あまりの(まぶ)しさに目がくらむ。
 かなり広い公園で、夏ともなればアイスクリームやクレープを売るワゴン車が毎日のように来ている。案の定、その日もアイスクリームを売るワゴンがクラシックな時計台から少し離れたところに店を開き、白いセーラー服姿の女の子が三人、小鳥のようにはしゃいでいた。
 ついこの間まで、弘も着ていた制服だ。
 ちょうど今の彼女たちのように、次子(つぎこ)伊織(いおり)と三人で、夏の帰り道、一緒にアイスクリームを買って食べた。
 あの頃、弘にとって世界は甘やかなものだった。常に現在進行形のやさしい想い出のようなものだった。
「ごめんね」
 木陰のベンチに並んで腰かけ、弘は出し抜けに謝った。
 正面には小さな池があり、そこに傘を差しかけるようにして古い桜の大木が枝を伸ばしている。春には無数の花をつけ、池の面に静かに花びらを舞い落とす桜の木。
 既に葉も散り終え、枝だけになってやわく照るそれは、もう次の春への準備に入っている。
 不意の謝罪に彼女を見遣ると、真っ向から視線がぶつかった。
 時折、弘は畏怖(いふ)を抱くほどの強い眼差しを向ける。ひとの眼を、真正面から射抜く。
 相手の両眼をはったと見据えて揺るがないその眼光から逃れることは不可能だ。強すぎる重力の前に、光ですらも張りついて動けなくなってしまうように。
 眼を逸らすことはできない。
「僕の傷のことなら」
「ううん。……これは、そのことについてじゃないの」
 見当がつかず鷹羽は僅かに困惑する。それ以上に、心配になる。また何か、たったひとりで抱え込んでいるのではないかと思って。
 弘は決心するように、一度瞑目(めいもく)した。
 ゆっくりと(まぶた)を開く。
 鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)に宿る、強い光。
「わたしはこれから、鷹羽くんを傷つける」
 まるで宣言するかのように。
「鷹羽くんだけじゃない。綾ちゃんも次ちゃんも伊織ちゃんも……みんなを、傷つける」
 そして、久我(くが)先輩も。
「わたしは今までずっと無自覚に、不用意にみんなを傷つけてきた……けど、これからは、……みんなが傷つくってわかってて、それでもわたしはわたしが信じていることを曲げないし、それに従う。……だから、……ごめんね」
「――弘君」
 今。
 傷ついているのは、弘ではないのか。
 鷹羽は手を伸ばしかける。何かできることはないのかと。何か言えることはないのかと。何か。
 けれど伸ばしかけた指先が弘に届く前に鷹羽は手を引き、(こぶし)を握った。
 ――僕に何が言えるんだ。
 八代との関係に決着をつけることもできず、弘は彼に殴られて。綾野と弘が互いのことで悩み、苦しんでいたときも、弘が伊織に爪を立てられたときも、いつだって鷹羽は弘から遠く、あとになってから知った。
 鷹羽の手はいつも届かない。
 鷹羽の依存や甘え、脆弱(ぜいじゃく)さは、婉曲(えんきょく)し、歪曲(わいきょく)して弘を深く傷つける。
「“幸福は誰の痛みの上にも成り立ってはならない”」
 唐突に、弘は言った。
 目の前にある桜の大木を見つめたまま――或いは、見つめていたのは虚空だったのかもしれない。
 弘は眼前に広がる目映いばかりの美しい夏の光景を瞳に映し込んで、まるで今にも光の粒になって消えてしまいそうに現実味なくひっそりと存在していた。
「幸福は誰の痛みの上にも成り立ってはならない。……不思議だね。わたし、一度も疑ったことがなかった」
 繰り返して言い、弘は思う。
 いつ知った言葉だろう。
 いつから信じてきた言葉だろう。
 幸福とは、そういうものだと思っていた。
 誰の涙も流させてはいけないのだと、誰も哀しませてはいけないものなのだと。
 疑わなかったのが、今ではただ不思議だ。
 盲信(もうしん)していたのだ。何も見えてなどいなかった。
「それは……いいことなんじゃないかな」
 やさしい世界だ。
 誰もが夢見る世界だろう。
 誰も傷つかない世界。
「だめだよ」
 弘には珍しく、彼女は突き放すような調子で強く否定した。鷹羽は驚く。
「疑わないままだったなら、……もしかしたら、それでもよかったのかもしれない。でももうわたしは、――そうじゃないことを知っちゃったから」
 ――退(しりぞ)きなさい、久我八代。
 八代の胸を押し返した右手。
 あのとき確かに、弘は八代を突き放した。
 長い間、次子の想いに気づかずにいた。伊織を不安にさらし続けてきた。――綾野に、同じ想いを返すことができなかった。
 罪悪ではなくても、傷つけた事実は変わらない。
 そしてこの瞬間も、鷹羽に遣る瀬無いほどの無力感を与えてしまっている。
 ――誰も傷つかない世界。
「……きれいな、世界、だよね……」
 続けようとした声が詰まった。(のど)が痛い。涙を必死で(こら)える。
 ――世界が揺れる。
「無理、だよねぇっ……」
 もう、知ってしまった。
 誰かの願いが叶うとき、別の誰かの望みが断たれることがあるという現実を。
 願いや祈りが二律背反(にりつはいはん)になってしまうことなど、知らない人間は恐らくいないのだ。気づいていない人間は存在しても、誰もが心のどこかで理解しているに違いない。
 だから誰もが、愛するひとの幸福を願ってやまない。
 あなたに幸福が降り注ぎますように、だとか。
 明日あなたにいいことがありますように、だとか。
 元気でいてね、だとか。
 ときに気安く交わされるそんな単純なお願い事が、本当はとても尊い。
 ひととひととが関われば、そのぶんだけ思いも交錯する。願いは増える。想いは募り、祈りは積もる。
 絡むこともあるだろう、()じれることも、切れてしまうことも。
 傷つかないわけがない。
 幸福はいつだって誰かの痛みの上に成り立っていて、だからこそこんなにも尊く輝く。だからこそ忘れない。()えることのない傷だから。
 わかる。
 痛みのない、幸福だけの世界なんてない。
 弘はもう知ってしまった。
 でも、胸が痛い。
 無理だとわかっていながら、その身をもって知りながら、それでも弘は夢見てしまう。
 誰も傷つかない世界を。
 これを偽善と呼ぶのだろうか。綺麗事というのだろうか。
 そうなのだろう。
 だってこれは理想だ。
 理想はいつも美しい。
 あり得ないとわかっていながら、手を伸ばさずにはいられない。愚かだと(わら)われても、信じるのを諦められない。
 唇を噛み締めて落涙(らくるい)する弘を、鷹羽はたまらず抱きしめた。
 頼りないほどに細い身体。
 薄氷(はくひょう)よりも容易(たやす)く砕けてしまいそうに(はかな)いのに、弘は確かにここにいて、生きて存在して、これまでいつも寄り添い微笑んでくれていた。
 弘の涙を肌で感じながら、言葉の無力を痛く知る。
 伝えたいことはたくさんあるのに、どんな言葉も舌に載せようとした途端に色褪(いろあ)せていく。思いばかりが(あふ)れて言葉は圧倒的に足りず、追いつかず、鷹羽は彼女を抱きしめる腕に力をこめることしかできない。
「鷹羽くん」
「うん」
 少し()せながら、弘が必死のように鷹羽を呼ぶ。彷徨(さまよ)うように伸ばされた華奢(きゃしゃ)な手を、強く握る。
「わたし、久我先輩を好きだよ――……」
「――……」
 雨の夕暮れ。
 あのときと同じ言葉なのに、違う。
 それでも弘が口にした八代への想いは、恐らく世間一般で言うところの恋とは異なるのだろう。鷹羽が八代に抱いている感情とは、違うのだろう。分け隔てることなく惜しまず与える弘にとって、愛情は比較を含まない。恋とはイコールで結ばれていない。彼女は盲目の甘美も恐怖も知らない。
 弘は常に、安寧(あんねい)の闇の底に沈み、静かに光を生み出し送り続けるひとなのだ。
 その領域には、誰も踏み入ることはできない。
 誰をも愛し、誰しもに愛されながら、彼女はいつも孤独だ。
 こんなにも近くにいて、抱きしめていて、――愛しているのに。
 誰よりも愛しているのに。
「僕はきみを愛してる」
 強く言った。鷹羽にできることなど、言えることなどこれくらいのものだ。それでもこれは、鷹羽にとって弘に対する最上の言葉だ。
 鷹羽は弘を信じているから、彼女から教わったことを疑わない。鵜呑(うの)みにしているわけではない。妄信(もうしん)とも違う。
 純粋な信頼と、ひたすらな敬愛だ。
 最善が今よりも遅いはずはないのだと、幸福を願ってくれるひとがたったひとりでもいれば生きていけるのだと、今日よりも明日は素晴らしい日になるのだと。
 すべて弘から教わったことだ。
 この言葉で伝えられたらいい。
 僕はきみを愛してる。
「だから、きみがくれる傷なら、一生残ってかまわない」
 届け。
 恋ではない想いだけれど、届け。
 僕にとって、きみほど生きる(かて)となってくれるひとは存在しない。
 弘は鷹羽の背中に両腕を回してしがみつき、声を上げて泣いた。鷹羽は何も言わず、これまで弘が鷹羽にそうしてくれたように、包むようにして抱きしめた。
 ずっと、そうしていた。



「しょうがないや、好きになっちゃったんだもん。好きだなあって思う気持ちは自分のものだけど、意思でどうにかできるものじゃないから」
 微笑む弘を、鷹羽は泣きたい思いで見つめた。
 空は一面が茜色(あかねいろ)に染め上げられ、東の際にすらまだ夜の色は(にじ)んでいない、一日の中でも本当に刹那(せつな)の時だ。
 こんなに紅いものだろうかと信じられなくなるほど、景色は透きとおった緋色(ひいろ)の陰影で描かれていた。
 まだ昼間の熱は冷めやらないものの、風は火照(ほて)った肌を(いた)わるようにやさしい。
 蝉の声はいつの間にか途切れ、アイスクリーム・ワゴンも既に姿はない。通りすがる人影もなく、鷹羽と弘だけが取り残された影絵のようにベンチに並んでいた。
 隣で、弘が深い息をつく。
 鷹羽が渡したハンカチで、泣き()らして赤い両目を拭う。眼鏡はきちんと揃えられた膝の上に、行儀よく折り畳まれて載っている。
 叶わない願いは溢れていた。
 鷹羽の中にも痛みはまだあり、傷だらけの記憶は擦り切れ、けれど想いは消えてはいなかった。
「きっとつらい」
 鷹羽は言った。
 これ以上傷つく彼女を見たくはなかった。これ以上、彼女の瞳が涙に濡れるのを、見たくはなかった。
「つらい恋だよ」
 恋でないことはわかっていた。
 けれど、これほどまでにこの場にふさわしく響く言葉を、ほかに思いつかなかった。
 ――つらい恋なの?
 あの雨の夕暮れ、問われて鷹羽は答えた。
 ――つらい恋だよ。
 つらかった。苦しかった。弘への恋に逃げ込みたくなるほど。
 これ以上つらいことなどないと思っていたのに、どうだろう。
 傷つけるからと謝られる方が、逃げるという選択肢など最初から持たず正面を見据える瞳を前にする方が、ずっとつらい。
 苦しげに告げる鷹羽に、弘はにっこりと笑う。
 鷹羽は痛む胸を押さえる。
「大丈夫」
 強がりなどではなく本心から、自信に満ちた、惚れ惚れする調子で言葉を(つむ)ぐ弘を目の当たりにする方が、ずっと苦しい。
 どこまでも透明に徹する信念と決意の色。
 弘は花色のくちもとに微笑さえ(たた)えて、言った。
「“愛はすべてを解き放つ”」
 鳶色の瞳が強い光を(はら)む。
 本来意志とは切り離されて放たれる矢を、弘は強い意志を持ったまま放った。

 彼女は嚆矢(こうし)を放ったのだ。



 10 WHEEL of FORTUNE.
 「嚆矢」

 END.