JUSTICE.





 紫煙(しえん)がゆらりと立ち上る。それは薄白く透けながら空を漂い、やがて霧散する。
 次子(つぎこ)は自身が吐き出す煙の行方を目で追いながら、ぼんやりとしていた。
 温度が常に一定に保たれている温室内は、暑くもなければ寒くもなく、身体に心地よい。勢いのついた緑の草木のにおいに満ちてはいるが、換気もじゅうぶんだから苦しいことはない。
 中庭の片隅に位置する温室は、普段は一般生徒の立ち入りが禁じられている。入れるのは園芸部員くらいのものだ。もちろん施錠もされている。が、昼休みだけは鍵がかかっていないことを、次子は最近知った。友人の柘植(つげ)(ひろむ)が園芸部員で、彼女から聞いたのだ。なんでも、温室に出入りをしているのは園芸部員とその顧問だけではないらしい。用務員なども管理を手伝っているのだそうだ。実験に使用するような植物もあるから、それらの世話や様子を見るために昼休みだけは開放しているとのこと。確かに、事ある毎に鍵を開けたり閉めたりするのは面倒だろう。おまけにここは、温室の鍵が保管されている職員室から遠いのだ。
 ――静かだ。
 次子は目を閉じる。
 遠く、低く唸っている空調機。
「一本貰える?」
 突如降って湧いたように、背後から声をかけられた。次子は別に気に(とが)めたふうもなく、ふり向きもせずに制服の内ポケットを探る。
「マルボロでいいか」
「何色?」
「赤」
「いいね」
 満足そうな微笑が伝わってきた。蔓薔薇(つるばら)の意匠の椅子に腰かけた次子の後ろから、す、と手が差し出される。残酷な猫科の獣のような手だ。普段は巧みに爪を隠した、獰猛(どうもう)な獣の手。
 取り出した煙草を一本、人差し指と中指で挟んで渡してやると、相手も同じくして受け取った。
「火も貰えると嬉しいんだけど。ある?」
「今のあたしのどこ見て火ィ持ってないと思うよ」
「確かに」
 今度はスカートのポケットからマッチを取り出した。背後の人物が感嘆の声を()らす。
「古風だねえ」
「ライターは燃えねえからな。証拠隠滅(いんめつ)できないだろ。マッチならいざとなったら箱ごと燃やせる」
「悪いなあ」
 あっけらかんと笑われる。いい気もしないが、悪い気もしない。
「それを言うならあんたも相当のもんだと思うけどな。優等生で通ってるんだろ、久我(くが)先輩?」
 斜め後ろをふり向き、にやりと口角をつり上げる。相手は素晴らしい優等生スマイルを浮かべた。
「ひとを(だま)すのって恐ろしく簡単にできるよね。物理的にはともかく、精神論だよ。なんの痛痒(つうよう)も感じないからね俺。ところではじめまして、有馬(ありま)次子ちゃん」
 きしりと椅子が(きし)んだ。八代(やしろ)が体重をかけたらしい――と思ったら、煙草を(くわ)えた八代の顔が至近距離にあった。手渡したばかりの煙草を指で挟んで安定させ、次子が咥えている煙草の、熱を持った先端と触れ合わせる。
 煙草のにおいがほんの少し、強くなった。
 火が燃え移る(わず)かの間、お互い焦点が合うギリギリの距離で相手の眼光を確かめ合う。
 黒い瞳だと思った。
 八代も、次子も。
 お互いが。
 底の見えない瞳だと。
 八代は飄々(ひょうひょう)と向かいの席に腰を落ち着けた。
「よく俺が俺だってわかったね。キミは実は運命の恋人かな?」
「死んだ方がマシな運命だな。――誰かさんが話してくれる人となりにあんまりにもぴったり来てたしさ、ここに来る人間は限られてるから。それだけだよ。あんたこそよくわかったな」
「理由はキミと同じく。――さて、議題は?」
 椅子と揃いの意匠の白い円卓に両肘をついて手を組む。裁判官のような様だ。にっこりと笑っているその下で、何を考えているのか。
「ない」
 即答した。
 八代は笑う。否、(わら)っているのか。
「嘘でしょう。柘植サンのこととか、気にならないのかな」
「気にはなってるよ。でもあたしが口を出せることじゃない。弘は誰の所有物でもない、ひとりの人間だ」
詭弁(きべん)だね」
「何か問題が?」
「nothing.」
 八代の擬態(ぎたい)は相当なもののようだ。弘から聞くところの人物像とまるで異なる。
 ――それとも。
 次子はある仮説を立てる。というよりも、泡が水面(みなも)を目指して上昇していくように、それは次子の深層から上ってきた。
「久我先輩。あんたいつもそうなの」
粗方(あらかた)ね。灰皿持ってる?」
 灰皿くらい持っとけよ、と毒づきながら、次子は手にしていた携帯用の灰皿を放った。薄っぺらな袋状のそれは(いびつ)な放物線を描いて、それでも八代の手の中に収まった。
 次子は目を伏せる。美味くもない煙を吸い込み、細く吐き出した。
「……弘のことは。好きか」
「有馬サンも。好きなんだね」
 目を細めて笑う八代の仕草に苛立(いらだ)つ。ポーカーをしていて、どんなにカードを切っても揃わないあの感覚に似ている。恐らく八代はロイヤルストレートフラッシュしか持っていない。対してこちらはほぼノーカード。せめて悟らせるわけにはいかない。
「あたしが()いてる」
 八代は煙草をくちもとから離し、灰皿の中に灰を落とした。とん、と袋の縁に当たって揺れる煙草。長い指だ。
「有馬サンも名瀬(なせ)サンも宇佐美(うさみ)サンも、……鷹羽(たかは)も。みんな、なんでか柘植サンを好きだ」
「心の色に多少の差異はあるけどな」
 他人事のような距離感を置いて、言葉を放り出した。
 たとえば鷹羽の弘に対する想いは、なんなのだろう。恋というにはあまりにも欲がない。あのふたりは寄り添って眠る双子だ。
 綾野は激しい。文字どおり、危ういほどに弘しか見えていない。
 或いはそれこそが、恋と呼べるものなのかもしれなかった。
 弘しかいらないのだ。現実はそうはいかないことなどわかっているのだろうに、そこから必死に眼を()らしている。弘だけいてくれたらほかには何もいらないのだと、(かたく)なに思い込んでいる。しかも、綾野の場合、単純な自己陶酔とは違う。もっと切実だ。
 依存といえば、それがもっとも近いのかもしれない。赤ん坊が無心に母親を求めるようなものだ。赤ん坊は他者に依存しなければ生きていけないし、赤ん坊ならそれでいい。
 では伊織は。どうしてみんな弘がいちばんなんだろう、と泣いた伊織は。
 彼女は彼女なりに弘を好きだ。そうでなければ泣かない。伊織は嫌うものに対して一切の情け容赦をかけない。
 言葉を強いるなら、憧憬(どうけい)、だろうか。
 ――あたしは。
 次子に空気を描かせた弘。彼女は容易(たやす)く次子に奇跡を見せる。恐らくは他者に対しても。
 馬鹿馬鹿しくなった。
 名前をつけて区分することに、どれほどの意味があるだろう。そんなことをしても、弘の色は変わらないのに。
 そんな次子の心情を読み取ったかのように、八代が口を開いた。
(いだ)く心の色や気持ちにどんな名前をつけようが、本人の自由だ。恋と呼ぼうが愛と呼ぼうが、……信仰と呼ぼうが。勝手だよ」
 信仰。
 花弁がひらりと凋落(ちょうらく)するように、その言葉は次子の中心に(こぼ)れた。
「鷹羽も、名瀬サンも。見たところ宇佐美サンと、それから有馬サン、キミもね。誰も柘植サンの純粋を疑わない」
 八代はじりじりと(くす)ぶる煙草の赤を見つめながら思う。八代の仄暗(ほのぐら)い黒瞳に映り込む、地獄の業火のように揺らめく。
 何故気づかないのだろう。
 ある存在の純粋を疑わないのは、自分自身が純粋であるという何よりの証拠だということに。
「あれはもう信仰の域に達していると言っていい。誰もが、熱烈なる神の(しもべ)だ。彼女という神の」
 誰も彼女を(おか)すことはできない。
 彼女自身以外には。
「あんたもか?」
 次子は席を立ち、八代の手からするりと携帯用の灰皿を抜き取った。
「あんたは弘の僕なのか」
 抑揚のない、平坦な声色で次子が尋ねる。八代は手もとの煙草を見つめたまま、目を(すが)めた。見えないものを見ようとするかのように。
 ――彼女の前に(ひざまず)けと?
 俺が?
 (こうべ)を垂れろと?
「――ハ」
 嘲弄(ちょうろう)しか出てこない。
 やわらかな微笑を(たた)えた弘が(まぶた)の裏を()ぎったのは、幻想だ。
 八代は背凭(せもた)れに身体を預け、(あご)を上げて傲然(ごうぜん)と笑んだ。
「まさか」
 言い捨てた八代と、見下ろす次子の視線が合う。冷たい火花が炎となって、刹那(せつな)散る。
 次子は何も言わず、しんと八代に一瞥(いちべつ)をくれて(きびす)を返した。僅かに戦慄(せんりつ)を覚える。次子が八代に投げかけたあの視線は、あの黒い瞳は、八代のよく知るところのものだったから。
 諦観と軽蔑と自棄と。
 八代にかつての己を見たのだろうか。もっとも、現在もまだ残滓(ざんし)はあるようだが。
 ふう、と、最後の煙とともに溜息も吐き出す。温室の扉が閉まる軋むような重い音を視界の端で聞き流しながら、八代は(つぶや)いた。
「天秤を掲げ持つ者、か」



 11 JUSTICE.
 「ポーカーメイト」

 END.