THE HANGED MAN.





 銀色の雨が、糸のように細く細く降っている。
 (ひろむ)は濡れた鞄を抱え直して、溜息とともに空を見上げた。分厚い雲が気だるげに垂れ込めている。晩春の雨は冷たく、寒い。
「やまないね」
「うん」
 ぽつりと(つぶや)いた言葉に、隣の鷹羽(たかは)(うなず)く。
 夕方、電話ボックスの中だ。
 クラス委員長と副委員長である弘と鷹羽は、生徒会の仕事の手伝いを終えて一緒に帰ろうと帰途についたすぐあと、突然の雨に降られたのだった。
 バケツをひっくり返したような土砂降りだったから、ふたりはあっという間に濡れ鼠になってしまった。緊急避難にと、この狭い電話ボックスの中にふたりで収まっているわけだが――
「やまないねー……」
 再び呟く。
 雨は一向に止む気配がない。
 寒気がして、弘は、くしゅんと小さなくしゃみをした。
「大丈夫? 弘君、寒い?」
「ん。うん、大丈夫。でもちょっと寒いね」
 笑う弘の吐息はうっすら白い。ぺた、と(ほほ)に触れてみると、案の定冷えきっていた。鷹羽は少し迷い、それから、
「ここから家、近いから。寄っておいでよ。そのままじゃ風邪ひくから」
「え、でも、ご迷惑じゃない?」
 髪から滴る雨滴をハンカチで押さえながら、弘が言う。鷹羽は微苦笑した。
「大丈夫だよ。従兄弟と一緒に暮らしてるんだけど、この時間じゃたぶんまだ帰ってないと思うから、誰もいないよ」
 ああ、と(のど)の奥でくぐもった相槌(あいづち)を打つ。
 そういえばそうだった。鷹羽は、高校に上がってからは従兄弟――ちなみに弘たちが通っている学校の養護教諭だ――と二人暮らしをしているのだった。
 鷹羽は、両親との折り合いがよくない。父は仕事一筋のひとで、母は夫に従うだけの、まるで意思のない人形のようなひとなのだと聞いたことがある。はっきりと話し合ったことがあるわけではないけれど、ちらりと覗いた言葉の端々から、お世辞にもよい関係をお互いに築いているという印象は受けられなかった。だから弘は漠然と、鷹羽と彼の両親が上手くいっていないのだな、と想像することしかできない。
 弘には、家族が上手くいっていないという状況を想像するのが難しい。弘の父と母は本当に仲が良いし、弘自身、幼い頃から、ふたりの裏表のない純粋な愛情を一身に受けて育ってきた。父からはひとを許す優しさを、母からは偽らない強さを、そしてふたりの間に流れる空気からは、個を個として明確に区別し、尊重し合うことを肌で教えられてきた。自分は幸せなのだと弘は思う。なんの(てら)いもなく父や母に対して「大好き」と言える自分は、きっととても幸せなのだろう。
 けれど、だからこそ、弘は鷹羽や綾野(あやの)にかける言葉がない。
「でも……」
 弘は(うつむ)いて、言葉を濁した。
「母に……自分の身は自分で守るようにって。迂闊(うかつ)なことをしないようにって言われてるし、わたしもそう思うから。――鷹羽くんのことは信じてるけど、でも、やっぱり」
 ふたりきりっていうのはよくないと思う、と小さな声で結んだ。鷹羽はふと笑う。
「確かにふたりきりになっちゃうけど、心配ないよ。本当に。――もう、わかってると思うけど……僕は、女の子には、……そういう気持ちを(いだ)かないから」
 はっとして弘は鷹羽を見上げた。寂しそうな、困ったような微笑があった。弘は何故だかその表情にほんの少しだけ、傷ついた。



 雨が小降りになってきた頃を見計らって、弘と鷹羽は電話ボックスを出た。小雨の降る中を早足でぱしゃぱしゃ歩いていく。
 ここだよ、と示されたのは、まだ建って間もないのだろう真新しい瀟洒(しょうしゃ)なマンションだった。
 お邪魔します、と言って入る。鷹羽はまずバスタオルを持ってきてくれた。
「シャワー浴びておいでよ。玄関上がって真っ直ぐ行って、突き当たりの左側。制服も乾燥機にかけておくから脱いだらそのままにしておいて。僕ので悪いけど、着るものも貸すから」
 おかまいなくと言う暇もなく、鷹羽はてきぱきと指示して部屋の奥に消えていった。弘はまごついたが、ここまで来てしまったのだから、と思い直す。
 鷹羽の台詞(せりふ)を――女の子にはそういう気持ちを抱かないから――思い出して、何故だかはっきりとしない、けれど確かに少し沈んだ気持ちでシャワーを浴びた。
 あたたかいシャワーを浴びて、ほっと息をつく。タオルの上に丁寧に畳んである白い綿のシャツを広げて袖を通した。鷹羽は単身痩躯(たんしんそうく)なので、並んでいてもそれほど身体的な差異を感じない。
 それでもやはり彼は男性なのだった。ぶかぶかのシャツの袖を捲りながら、耳を澄ます。雨の音が続いている。弘は知らず思考の海に沈み、その底でゆらゆらとたゆたった。
 綾野は塾があるのでいつも早々に帰ってしまうし、次子(つぎこ)は美術部、伊織(いおり)は放課後と休日はアルバイトの鬼なので、長く付き合ってはいるが、学校で一緒にいる時間は結構短い。もちろん、クラスが異なるというのも理由のひとつだろうが。
 弘は不思議な感覚に(ちい)る。
 次子とは小学校六年生から。鷹羽とは中学一年の初夏、伊織は同じく中学の、二年生からの付き合いだ。綾野に至っては、知り合ってまだ半年も経っていない。けれど、なんだか、昨日は今日と同じような昨日で、明日も今日と同じような明日が続くような気がした。
 ずっと前から知り合いで、ずっと前からいつも一緒にいたように錯覚する。良いとか悪いとかの話ではなく、なんとなく、膨大な時の流れとそれが有する情報の海に不意に投げ込まれて、上も下もわからなくなってしまったような。
 気が遠く遠くなるような気がした。
 不快ではない。
 が、その形容し難い感覚に(とら)われたあとはいつも、よくわからない、漠然とした不安に駆られる。
 今日は昨日の延長で、明日は今日の延長――確かに、時計の針だけを見ていればそれもひとつの真実なのかもしれないけれど、本当はそんなことはない。一分、一秒ごとがそれぞれ完全に独立した時を構成する欠片だ。
 何も考えなくても明日はやがて今日になり、過ぎて昨日になる、それを繰り返す中で、明日や一週間後や一ヵ月後の自分を想像すると、当たり前に学校生活を送っているのだけれど、今日の延長、などと呼べる未来が約束されていることなど決してない。
 学校はやることを与えてくれる。生徒たちはそれを消化していく。そういう生活だから、まるで明日も決まって同じことがあるように感じてしまう。
 現実は、そんなことはない。
 本当は、誰にも未来はいつも見えはしないのだ。先などありはしない。あるように錯覚しているだけだ。
 ――果てしない。
 わたしはこれから何を選び、何を捨てて、何を得ていくのだろう。
 弘がリビングにひょこんと顔を出すと、鷹羽は笑顔で迎えてくれた。「どうぞ」と紅茶を出してくれる。入れ替わりに鷹羽が風呂に向かい、弘はだだっ広いリビングのソファに、彼に勧められたとおりにちょこんと座った。
 部屋を見渡す。
 弘が座っているソファがある。その前にテレビ。四人程度しか座れないだろう小さなテーブルがぽつんと置いてあり、整然としている。すっきりと片付いていると言えば聞こえはいいが、それよりもなんだか、あたたかい生活感、――生きた人間が寝起きし、食べて、生活している、そういう気配のない、ひんやりとした部屋だと思った。
「……弘君」
「ん? はい。鷹羽くん、お風呂先にありがとう」
 遠慮がちに、鷹羽に呼ばれた。押された勢いのまま言えなかった礼を述べながら、弘は顔を上げる。鷹羽は濡れた髪を拭きながら、弘の隣にすとんと腰を下ろした。
 何か、言いかけている。
 弘は直感的に見抜く。何拍か置いて、けれど鷹羽はなかなか口を開かない。だから弘は、ああ、言い難いことを言うのだな、と。
 言い難いことといったら、きっと久我(くが)先輩のことだろうな、と思った。
「……部活は、どう?」
 頭からタオルを被っている鷹羽の表情は見えない。声がくぐもっている。一体どんな言葉を選んだらいいのか、きっと決めかねているのだ。
 弘は何も知らない。鷹羽も八代も何も教えてはくれないし、弘自身も尋ねない。彼らの関係を問い質せるような立場に、弘は立っていない。ただ、ふたりの間に流れる空気を、一種異様な緊張を感じ取って、無責任に触れていいものではないのだと思うばかりだ。
「楽しいよ。大変だけど、でもね、がんばってお世話した子がきれいなお花咲かせてくれるとすごくうれしい」
 部活を思い出す。八代(やしろ)とふたりきりの園芸部は、確かに膨大な仕事量に呆然としたりもするが、楽しい。
 八代は色々な花の名前を知っている。花言葉を、特徴を、その植物が持つ逸話や神話、おまじないの類まで、多くの知識を持っている。花が好きなのだろうなと思う。植物に接しているときの八代は静かでやさしい。八代自身がひとつの植物であるように、穏やかにそこにいる。弘は、そういうときの八代が持つ空気がとても好きだ。
 しんとした。
「弘君」
「ん?」
 沈黙。
 雨の音。
 見えない未来。
「……弘君」
 鷹羽が名前を呼ぶ。
 が、そのあとが続かない。弘は黙って続きを待つ。
 鷹羽の手が、そっと肩に触れた。
「鷹羽くん?」
「……」
 そっと力をこめられて、ソファに座ったまま、鷹羽と弘は向かい合った。
 鷹羽はするりと被っていたタオルを落とす。タオルの行く先を追うように視線を落とした。
「――身体、――見せて、くれる……?」
 小さな。泣きそうな声で。
 弘は戸惑う。
「鷹羽くん?」
「身体、見せてくれないかな。何もしないから」
 何かに。
 必死に。――(すが)りつこうとしているの?
 何に?
 何を求めているの?
 ――わからない。
 けれど。
 俯いた鷹羽は少し震えていた。濡れた黒い髪が電気に緩く反射している。外では雨が降り続き、まるで世界にふたりきりにされたような気持ちになる。それはとても心細い。とても寂しい。本能の部分で忌避を望む孤独だ。
 弘は、ぎゅっと固く目を(つむ)った。
「……いいよ」
 緊張に、声が震えた。
 いいよ、と言っただけで、心臓が壊れてしまうのではないかというくらいに激しく脈打った。顔が熱い。
 鷹羽の手が、そろりとシャツの(ぼたん)にかかった。
 ぷつり、ぷつりと外されていく。
 下着は下しか身に着けていない。雨の音が耳につく。
 ――今、世界中に、わたしたちはふたりぼっちだ。
 釦が外されると、弘には大きいシャツは身体を滑り落ちそうになった。反射的に胸もとをかき合わせる。鷹羽の指先が、シャツを押さえる弘の手に触れた。
「あ……あの」
「弘君、お願い」
「う、うん……」
 頭痛がするほど動悸が激しい。きっと真っ赤になっているだろうと思う。弘は震える手の力をそろそろと緩めた。
 鷹羽が肩に手を掛け、するりとシャツを落としてしまう。
 雨の日特有の薄暗い部屋、電気がぼんやりと白い。その下に、弘の、まだ幼さの残る裸身が(さら)された。
 弘は顔を上げることができない。鷹羽の視線を痛いほど感じる。腕を縮こめてはいるが、胸まで(あらわ)だろう。恥ずかしい。
「た、鷹羽くん……」
「……触っても、いい?」
 そっと、裸の腕に指先が触れた。
 微かな感触だったが、弘の身体は大げさなほどにびくりと痙攣してしまう。
「ひどいことはしないから」
 約束する。
 囁くように言う鷹羽の声が、何故だか泣きそうに思われて。弘は胸を締めつけられる。今の、この状況が――弘の身体が、弘の身体に触れることが、鷹羽にとってどんな意味を持っているのだろう。弘には知り得ないことだったけれど、彼がとても切迫していることだけは明瞭にわかった。だから。
 もう一度、固く目を瞑る。耳の奥で、心臓がどんどん鳴っている。細く息を吸って、吐いて。
 そうして、
「――いいよ」
 と、言った。
 触れてもいいかと尋ねてきたわりに、鷹羽の手は明らかに恐れていた。弘が薄い硝子(がらす)で出来ているかのように怖々と触れてくる。
 そして、恐れて触れながら鷹羽は思う。
 弘の肌。やわらかい。あたたかい。
 ひどくやさしい。
 ――駄目だ。
 遠い。
 指先で辿(たど)っていた肩をてのひらで包む。そのまま、そっと、ゆっくりと腕を撫で、白い手の甲に掠めるようなキスを落とした。
 驚いて身体を引こうとする弘の背中に腕を回して引き寄せ、抱きしめた。
「た、鷹羽くん。あの、」
 情けない声が出た。おろおろする。思考回路がどうにかなってしまったように、何も考えられない。混乱するばかりだ。
 鷹羽の手が背中を撫でる。少し身体を離されたかと思うと、首筋にくちづけられた。ぎょっとして鷹羽を押し返そうとするが、びくともしない。
 鷹羽のてのひらが背中から脇腹にかけてを大切そうに撫で、唇が首筋からはじまり、鎖骨を辿って胸のふくらみに触れた。
「! 鷹羽くん――も、もう、だめ……ごめんなさい、もうだめ。は、恥ずかしい……っ」
 弘は真っ赤になって、ごめんなさい、もうだめ、と繰り返した。羞恥で涙が(にじ)んでくる。
 鷹羽の動きがぴたりと止まった。
「鷹羽くん、」
「きみの身体は、きれいだね」
 しんとした冷えた部屋に、その声はあまりにも(はかな)く響いた。弘は羞恥を忘れ、自身の胸に額をつけて震えている鷹羽を見つめた。
「きみが――きみに、恋したかった……」
 鷹羽の声は身体同様、震えていた。
 弘は瞬時に理解した。そしてその理解は、恐らく真実を限りなく正確に捉えていた。まるであらかじめ決められていたように、涙が(あふ)れた。
 もし鷹羽が、弘が予想しているとおりの立場にあり、弘が予想しているとおりの感情を持っているのだとしたら、それはとてつもなく苦しい現実だ。
 とても痛い現実だ。
「つらい恋なの?」
 耐えきれず、思わず()いてしまった。鷹羽は黙って、――それから小さな声で、「つらい恋だよ」と答えた。
 雨の夕暮れ、声も立てず、弘は泣いた。
「弘君」
「ん、うんっ……」
「愛してる」
「うん……!」
 涙が止まらない。弘は堪えきれなくなったらしく、小さな嗚咽(おえつ)()らしはじめた。
 ぽたぽたと落ちてくる滴を感じながら、鷹羽は切実に思う。
 鷹羽は弘を愛している。とても、愛している。それなのに、どうして、恋していないのだろう。どうして恋いうる相手が、弘ではないのだろう。
 叶わなくていい。
 片想いでいい。
 ただひたすらに弘だけを想う、それだけでいい。
 この想いの先にいる相手が弘なら、哀しみの中に在りながらも、やわらかな気持ちで恋の(ひつぎ)に花を供えることができたはずだ。
 けれど、それは、無理なのだ。夢の中のお伽噺(とぎばなし)なのだ。こんなにも摩耗(まもう)しているのに、鷹羽の想いはちっとも(すた)れていない。新たな傷を(えぐ)りこそすれ、癒えることは決してない。こんな心を抱えて弘を求めるのは卑怯だ。逃げている。
 これは恋ではないだろう。
 恐らく愛でもないだろう。
 けれど、鷹羽の心は、確かにあの男を。熱を宿さない、冷たい暗い瞳に焦がれている。これをなんと呼ぶのだろう。苦しい。
 鷹羽は裸の弘を抱きしめたまま泣いた。弘は鷹羽を抱き返すこともできず、溢れ出る涙を(ぬぐ)うこともできず、まるで泣くためにつくられた人形のように泣き続けた。どうしようもなく哀しかった。遣る瀬無かった。もどかしかった。
 鷹羽と八代は、鷹羽が中学一年のときに知り合ったのだそうだ。空手部の試合があって、市民体育館へ行ったとき、当時まだ空手を(たしな)んでいた八代と偶然知り合ったのだと。
 そう八代に教えてもらった。それだけを。
 その間にどんな感情が挟まれていたのか、弘は知らない。そもそも八代の存在を知らなかった。鷹羽とは中学校三年間ずっと同じクラスで、ずっとクラス委員長と副委員長で、一緒にいるのが当たり前すぎて誰も弘と鷹羽の仲をからかわなかった、それだけ一緒にいて、弘は八代の存在にまったく気がつかなかった。
 鷹羽が隠し続けていたからだ。
 八代を、ではなく、弘を、八代からひた隠しにしていたからだ。ふたりが互いを認識しないよう、点と点が結ばれないよう、必死で。
「僕はきみを愛してる」
 それはいつもの、何度聞いても真摯(しんし)であたたかい鷹羽の告白だった。
「うん」
「……ごめん……」
 鷹羽は、弘を守りたかった。
 八代からではなく、鷹羽自身から出た(うみ)の余波から。
 弘はただぼろぼろと涙を落とすばかりだった。声が声にならない。言葉にならない。鷹羽が謝らなければならないことなど、ひとつもありはしない。弘だって、鷹羽を好きだ。
「ごめん。……守って……あげられなくて、……ごめん……!」
 首を横に振る。鷹羽のせいではない。誰のせいでもない。誰も悪くない。
 八代にさえ、きっと罪はない。なのに、なんなのだろう、この閉塞感は。何が何を閉じ込めて、すべてを歪ませてしまっているのだろう。
 謝る鷹羽に、弘は彼の背中に触れて、泣きながら告白した。
「わたし、久我先輩を好きだよ。――もう、――どうにもならないよ――……」
 もう、弘は八代と出会ってしまった。
 知ってしまった。
 言葉を交わした。
 名前を覚えた。
 一瞬でしかなかったかもしれないが、確かに心を触れ合わせた。
 あの、暗い、冷たい瞳が胸に焼きついて離れない。
 弘の中に、八代という存在は既に根を張ってしまった。
 やり直しは利かない。
 もう、
 ――弘はもう、八代を知ってしまったのだ。



 12 THE HANGED MAN.
 「主の祈り」

 END.