DEATH.





 朝の風はひんやりと冷たくて心地よい。けれど冬の厳しさからは解放されて、満ちる大気は春のそれ、初夏を迎えようとしている。
 開門したばかりの学校は静まり返っていた。
 教師たちもまだ来ていない者の方が多いし、部活動の朝練習までもまだ時間がある。
 校章にもなっている躑躅(つつじ)は、この成花(せいか)第一高等学校の至る所に植えられていて、白や牡丹色の花を盛られたようにして咲かせている。
 正門を抜け、二棟ある校舎の間――中庭に歩を進める。広い中庭は日当たりがよく、ここにも躑躅が、そしてその他様々な種類の植物が背を伸ばし、葉を広げていた。
 中庭の最南端に、全面硝子(がらす)張りの温室がある。屋根がアーチ型の、大きな温室だ。
 よく手入れされていることは外からでも容易に知れた。中にあるのは主に薔薇(ばら)のようだった。
 そっと近づいて、窓硝子に手を触れる。繁茂する緑の隙間から中を覗くと、薄い眼鏡の黒い瞳と出会った。綾野(あやの)は思わずひゅっと息を呑み、硝子から離れる。
 いつものように逃げようと思ったが、
「あ、綾ちゃん!」
 背後で明るい声が聞こえて、綾野は足を止めた。
「おはよう、綾ちゃん。早いんだね」
 注ぎ口の細い、ホーローの如雨露(じょうろ)を持ったひよこ色のエプロン姿の(ひろむ)が、のんびりと微笑んだ。
 そして後ろから顔を出す、長身の男子生徒。校章がついている襟とは反対側にあるピンから、学年がひとつ上であることが知れる。
「ああ、あの子が綾ちゃん?」
「はい」
「うん、柘植サンが言ってたとおり、美人だね」
 先ほど目が合った薄い眼鏡の男子生徒は、シャツの袖を捲り、こちらもエプロン姿で、弘の隣に立った。綾野は憎々しげに奥歯を噛み締める。何が、「あの子が綾ちゃん?」だ。白々しい。
 綾野は、八代(やしろ)を知っていた。
 弘が、嬉しそうに、楽しそうに話すから。とても博識の、心遣いの細やかな、穏やかな先輩なのだと、笑って話すから。
 嫉妬を絡めて興味が湧いて――綾野自身は、興味を持ったなどとは認めたくないのだが――何度も、早朝こっそりと園芸部の活動拠点である温室を訪れたから。
 そうしていつの間にか、八代と綾野は視線だけの知り合いになった。
 八代はすぐに、綾野が抱く弘への想いに気がついたようだった。一言も言葉を交わさず、ただ一瞬目が合う程度の関わりだけで。
 綾野が温室を訪れるたび、八代は無言で綾野をいたぶった。これ見よがしに弘を構った。けれど綾野も気づいていた。八代が、綾野を通して誰か別人を見ているらしいということに。
 綾野をいたぶることで、その誰かを傷つけようとしているようだった。
 そんなふうに屈折している八代に対して、どうしようもない嫉妬心を抱きつつ、その一方で軽蔑と、優越にも似た感情を抱いていた。
「綾ちゃん、紹介するね。いっつも話してる先輩だよ。久我(くが)八代先輩」
「ハジメマシテ、“綾ちゃん”」
 弘に気づかれないよう――本当に、彼の擬態(ぎたい)ときたら完璧すぎて恐ろしいほどだ――八代は酷薄(こくはく)な笑みを浮かべる。綾野も八代を睨み据えたまま、低い声で「どうも」と(こた)えた。
「先輩、改めまして、名瀬(なせ)綾野さん。おんなじクラスの友人です」
 おんなじクラスの友人。
 その他大勢と変わりない、ということか。
 綾野は自嘲(じちょう)気味に思う。弘に他意はないだろうが、綾野の弘に対する想いの属性が、時に綾野を卑屈にさせる。
「これも何かの縁でしょう。名瀬サン、せっかく来たんだから、キミ、遠慮しないで手伝っていきなさい」
 なんだその妙な言い回しは。
 綾野は苦く思うが、弘はぱっと顔を輝かせた。
「いいですね! 綾ちゃん、何かご用がある?」
「ないけど……」
 こんな朝っぱらから。
 律儀に(たず)ねてくるところが弘らしい。
「ね、じゃあ、ちょっとお手伝いしていかない? 今ねえ咲きかけのお花がいっぱいあってすごくきれいなの。見ていって」
 嬉しそうに言いながら綾野の手を取る。いつものことだが、なんの躊躇(ためら)いもなく触れる。そしてそれはいつもやさしい。
 綾野は、どうしたらいいのかわからなくなる。
 怖い。
 弘を好きだ。とても好きだ。胸が(きし)んで、砕けそうなくらい好きだと激しく思う。時折、不安に押し潰されそうになる。
 こんなに弘を好きで、あたしはどうしたらいいんだろう。弘がいなくなったら、あたしはどうなるんだろう。
 弘に手を引かれて、温室内の植物を順番に丁寧に教えられる。大抵、「久我先輩に教えていただいたんだよ」とくる。それは今だけではない。とっくに気づいていた。いつからか、「久我先輩」という固有名詞が、少しずつ、しかし確実に、会話の中に増えてきていたことに。
 ――弘は。
 好きなのだろうか。久我先輩を?
 綾野が弘に焦がれるように、弘も八代に対してそんな想いを抱いているのだろうか。
 考えると、ざっと冷水をかけられたように背筋が凍った。
 弘が誰かを好きになる。
 誰か、ひとりを、想うようになる。
 ――それは。
 それは、いけないことだ。
 あってはならないことだ。
「? 綾ちゃん? どうしたの?」
 突然立ち止まった綾野に、弘がふり向いて首を傾げる。温室の最奥だ。八代は出入り口付近で何か作業していたから、大きな声を出さなければ会話を聞かれることはないだろう。
「弘」
 ごく、と喉が動く。
「うん、なあに?」
「――あんた、久我先輩のこと、好きなの?」
 無理矢理搾り出すように、綾野は苦しげに尋ねた。弘はきょとんとしている。大きな鳶色(とびいろ)の瞳をぱしぱしと瞬かせて、
「うん。好きだよ」
 何事もないように、あっさりと答えた。
 どうしたの急に、と言ってにこにこしている。その様子には、綾野が危惧(きぐ)している感情を(いだ)いているようには見えない。それでも、弘がなんの抵抗もなく発した「好き」という言葉は、綾野の中の、恐らくは最後の砦を打ち崩した。
「……やだ」
「え?」
「やだよ、弘」
 (うつむ)き、右腕をきつく握り締める。胸の奥底から、黒い不安が物凄い勢いで湧き上がり、広がっていく。
「そんな、誰かのこと好きになんてならないで」
「綾ちゃん?」
「誰も好きになったりしないで」
 苛々(いらいら)と、綾野は首を振った。長い黒髪がさらさらと音を立てる。弘は困惑しているようだった。
 駄目だ、と頭の片隅で声がする。駄目だ、これ以上は駄目だ、必死で(いさ)める声が聞こえる。でも止められない。
「あたし、」
 どうせ叶わない願いなら。
 どうしても手に入らないものだというなら。
「あたし、あんたのこと好きなのよ……っ」
 押し殺した声は、けれど悲鳴じみて響いた。
「……? わたしも綾ちゃんのこと好きだよ」
 綾野の様子に戸惑いながらも、臆することなく言葉をくれる。弘はいつも、誰に対してもそうだ。やさしく、誠実で、素直だ。どこまでも純粋で、憎らしいほどに無知だ。
 こんなふうに好きだと言われることが、どんなに残酷なことなのかすら知らない。
「違うの。そうじゃない……そうじゃなくて。あたし、あんたのこと好きなのよ。でも、――あたしのこと好きになってくれなくてもいい。でも誰かのこと――ほかの誰かのこと好きになっちゃやだ」
 憎らしいと思うのに。
 それでも好きなのだ、自分でも怖いほど。
 弘がいなくなったらどうしよう。思うと涙が浮いてくる。
「誰かのものになんてならないで。誰のものにもならないで。お願いだから」
 ――誰も、あたしから弘を奪わないで。
「綾ちゃ……」
「あんまりにも勝手すぎないかなあそれは」
 場違いに明朗な声がして、顔を上げると綾野のすぐ隣に八代が立っていた。八代は綾野に上辺だけにこりと笑いかけて、弘に歩み寄った。彼女の華奢(きゃしゃ)な肩に両手を置いてくるりと反転させ、綾野と真っ向から向き合わせる。弘は不安げに八代を見上げた。
 綾野の背筋がざわついた。
 弘は、八代を信じている。
「名瀬サン。忘れてるんじゃないかな」
 その声は嘲笑(ちょうしょう)を含んでいるように、綾野には聞こえた。けれど次の瞬間、八代の表情と声から、一切の感情が排除された。
「柘植サンは神様じゃない」
 冷たい黒瞳。吸い込まれそうな闇色。
 反駁(はんばく)の許されない真実を突きつけられる。
 弘は神様じゃない。
「あ、綾ちゃん、」
 (きびす)を返し、綾野は足早にその場を去った。弘が追うより早く、予鈴の鐘が鳴り響く。
 弘はしばらく呆然と綾野の背中を見送っていたが、不意に八代に視線を転じた。
 目が合う。
 真っ黒な八代の瞳。
 何を考えているのだろう。どうしてあんなことを言ったのだろう。
 ――神様。
 どういう意味だろう。
「久我先輩……」
「キミは神様じゃないから」
 八代は微笑むと、弘の髪の先をやさしく撫でた。
「特別に好きな誰か、ができても、何も悪くないよ」
 弘はその言葉を、そして綾野の言葉の意味を判じかねて、ただ瞳を不安に揺らせることしかできなかった。
 特別に好きな誰か。
 綾野の『特別に好きな誰か』が自分だと、そういうことだったのだろうか。
 ただ、「あたしのこと好きになってくれなくてもいい、けれどほかの誰も好きにならないで」という台詞(せりふ)が、信じられないほど重く、弘の心に沈んでいた。見返りはいらないという意味ではないように思えた。
「神様じゃない……」
 弘が(つぶや)く。
「うん。だからキミは、特別をつくってかまわない」
 八代の声は穏やかで、弘は少し、泣きたくなった。




 13 DEATH.
 「半睡半醒(はんすいはんせい)

 END.