TEMPERANCE.





 (ひろむ)はどうして、あんなにも真っ直ぐにひとの眼を射るのだろう。
 ――頭が痛い。
 ぼんやりと思い、綾野(あやの)は意識が浮上してくるのを感じた。不思議な感覚だ。俯瞰(ふかん)するとはこういうことか。
 継ぎ目が古ぼけて灰色にくすんだ、元は純白だったのだろう素っ気ない天井が視界いっぱいに広がっている。鼻腔をつく消毒液のにおい。白にごく淡い水色を一滴垂らしたような色の、薄いカーテンに囲まれている。
 保健室だ。
 しかもベッドに寝かされている。
 何故だろうと疑問が湧くが、解消しない。思い出せないのだ。記憶が途切れている。
 頭の中に(なまり)が詰まったように鈍重で、身体もだるい。動く気がしない。思考すら働くことを拒否しているかのようで、あまりにも気だるい無気力感に、綾野はおかしな懐かしさを覚えた。
 以前は毎日こうだった。
 朝も昼も晩も。
 ――なんだか、疲れた。
 深い息をつくと、(ひそ)やかな話し声が聞こえてきた。
 鼓動が強くなる。
 聞き間違えようのない声だったから。
 綾野はどうしようか迷った。声は三人、次子(つぎこ)と、鷹羽(たかは)と、――弘だ。
 弘と顔を合わせたくない。合わせられない。今の綾野には、弘の眼差しを受け止めるだけの勇気がない。
 どうしようどうしようと思っている間に、保健室の引き戸が開く音がして、すぐに閉まった。どうなったのだろう。カーテンに囲まれたベッドに横たわっている綾野からは、外の様子を窺い知ることはできない。
 自分がどういった経緯でここにいるのかはわからないが、保健室のベッドに寝かされている以上、弘が心配していないはずはない。疑うべくもないことだ。綾野がたとえ道ですれ違っただけの人物だとしても、弘は必ず心を砕くだろうから。弘はそういう人間だから。
 もし弘が来たら、どんな顔をして会えばいいのだろう。何を言えばいいのだろう。
 ――逃げ続けているだけの綾野に、何が言えるだろう。
名瀬(なせ)
 悶々(もんもん)としていた綾野を不安の海から引き揚げたのは、次子の声だった。
 常からあまり大きな声は出さず、静かに喋る人物だが、一段と声が低く、小さい。場所を(わきま)えてのことだろう。
「気ィついたか」
 抑揚の少ない、感情の見えにくい声だ。綾野から見て、次子はいつも何を考えているのかわからない。それだけに、少し怖いと感じている部分がある。
 綾野は返事をしようかどうか迷い、結局、「うん」と(のど)の奥を鳴らした。聞こえなければそれでいいと思ってのことだ。――逃げ道を、用意したのだ。
「入るぞ」と短く言って、カーテンの隙間を縫って次子が入ってきた。ベッドの傍らの、黒い合成皮革張りの丸椅子に腰かける。繊細な針金のような短い黒髪が揺れる。次子の瞳は綾野を(とら)えないまま、問いだけを口にした。
「具合は」
 疑問符がついていない。独り言のようだと綾野は思う。
「最悪……では、ない、と思う」
 よくわからない。
 次子は苦笑した。
「最悪じゃないならいいさ。貧血だってよ。鏡見てみろ、蒼いも白いも通り越して土気色(つちけいろ)してるぞ」
「……まさか、倒れたの?」
「ものの見事にな。一色(いっしき)が抱きかかえてグラウンドからここまで運んできたんだ。教室戻ったら礼言っとけよ」
 グラウンド。
 そうだ。
 美術の授業で、透視法(とうしほう)について学ぶために実際に外に出たのだ。
 そこで倒れたのか。
 綾野はまだ少し朦朧(もうろう)としている意識の中で、その部分については納得する。
「……なんで有馬(ありま)さんがいるの」
 恐らくまだ授業中だろう。生徒たちの喧騒(けんそう)が聞こえない。別のクラスの次子がここにいる理由がわからない。すると、次子はふふんと悪戯っぽく、少々意地悪げに笑った。
「体育は単位落とすギリギリまでサボることにしてる」
「……」
 弘が「次ちゃんはちょっと困ったさんなの」と言っていたのはこの部分に起因するのか。
 貧血の虚脱感の中、綾野は思考の先を転じた。
 ――一色君が。
 想像できなかった。鷹羽と綾野の身長は変わらない。加えて彼はとても細身だ。いくら男性だからといって、自身と同じ身長の人間を抱きかかえ、保健室まで運んでくるなんて。グラウンドと保健室はお世辞にも近いとは言えない距離なのに。
 特別に親しい間柄では、もちろんない。
 弘が間に入っているから、希薄(きはく)ながらに関係があるようなものだ。今回鷹羽が綾野に世話を焼いてくれたのも、弘あってのことだろう。そうとしか考えられない。綾野は鷹羽のことを知らないし、正直なところ興味もない。自分の知らない弘を知っているのだと、嫉妬の対象になるだけで。
 ――(みじ)めだ。
 こんなふうにしか考えられない自分が。弘しかいらない自分が。
 あんなにもはっきりと告げられたのに。
 もう駄目だとわかったのに、まだ綾野は弘以外の何をも見ておらず、見ようともしていない。見たくもない。
 心が、砕けてしまいそうだった。
 不意に、次子が溜息をつくと同時に立ち上がり、カーテンを細く開けた。首を伸ばして外を確認している。なんだろうと思っていると、窓開いてるなという独り言が聞こえ、さらに、
「煙草いいか」
 と訊いてきた。
「……駄目に決まってるでしょ」
 内心どうでもいいとは思いながら、一応の決まり文句を述べる。ここに弘がいたら、「もう!」とか言いながら、次子の手から煙草を取り上げようとするのだろう。次子はそれを上手くかわして、伊織が「ヒロリンいい加減ほっといちゃえば?」なんて投げ遣りなことを言い、そして鷹羽が困ったような微笑を浮かべて眺めていて。
 ――あたしは?
 あたしはいつも、どこにいるの。
「名瀬」
「……なに」
「弘は、おまえを無視したわけじゃないだろう」
 次子は制服の内ポケットから煙草を取り出すと、マッチで火を()けて(くわ)えた。
「あいつはあいつなりに、おまえの気持ちに答えを出した。受け止めた上でだ。おまえがそれを認めないんじゃ、お互い苦しいだけだろう」
「なんでっ」
 布団を頭まで被ったまま、綾野は次子の言葉を(さえぎ)って押し殺した声を上げた。次子のすべてを見透かしたような物言いが(かん)(さわ)った。気に入らない。
「なんであたしばっかりなのよ。なんであたしばっかり諦めろって言うの? なんで久我(くが)先輩の肩を持つのよ!」
「違う。名瀬、聞け。そうじゃない」
 段々と激してくる綾野に動じることなく、次子は(わず)かばかり疲れているとも、同情しているともとれる口調で(いさ)めてくる。それがますます綾野の苛立(いらだ)ちを(あお)った。
「あたしが女で、久我先輩が男だから? あたしだって好きで女に生まれたわけじゃない。こんな思いするなら、男に生まれたかったよっ」
 (たかぶ)る感情を抑えることができず、最後の方は叫びに近かった。悲鳴のようでもあった。
 嘆き、だった。
 次子の深い溜息が聞こえた。
「そうじゃないだろう、名瀬。それは確かにおまえが思ってる真実なんだろうが……でも、わかってるんだろう、本当は」
 少し疲れた、諦観にも似た感情の見え隠れする声音だった。綾野は歯を食いしばり、唇を噛み締める。血が(にじ)むほど。
 目頭が熱く、頭はがんがんしている。
 ――本当は。
 涙が(こぼ)れた。
 ――言われなくても、わかっている。
 もし自分が男だったら、などという考えは、するだけ無駄だ。弘の中心はそんな場所にはないのだから。
 綾野だって、もしもという届かない希望を(いだ)くのは、ひとえに弘だけのためだ。これまで、自身の性別に疑問を持ったことも、不便を感じたこともない。幸福に思ったこともなかったが、不運とも思わなかった。当たり前のものだった。今さらこんなことを思うのは、淡すぎる期待を捨てきれないのは、それさえあれば弘との隔たりはなくなるのではないかと。距離が縮まるのではないかと考えてしまうからだ。
 弘は綾野を隔ててなどいないのに、いつもすぐ(そば)にいて、微笑んでくれるのに。
 壁をつくっているのも、距離を取っているのも、綾野だ。
 自分が女で八代が男だから、弘は八代を選んだのではないかと勘繰(かんぐ)るのは苦しい。猜疑心(さいぎしん)が重い。捨てきれないその考えがいつも綾野を縛り、傷つける。
 女であるという、努力ではどうにもならない、自分で選択して得たわけでもなく生まれ持たされた事実が、綾野を醜く(おとし)める。
 八代はずるい。
 男であるというだけで、綾野がどんなに願っても手に入れることの叶わないものを、いとも容易(たやす)く手中に収めてしまう。
 けれどこれは言い訳なのだ。
 弘がはっきりと綾野に伝えたことで隠蔽(いんぺい)しきれなくなった、もはや言い訳であることが白日の下に(さら)された逃げ道。
 弘は誠実だった。
 逃げなかった。
 彼女は勇敢だ。
「あたしが女だから駄目なの?」という綾野の詰窮(きっきゅう)微塵(みじん)狼狽(ろうばい)も見せず、性別は関係ないよ、と言った。
 ――綾ちゃんが男のひとでも、わたしは綾ちゃんを今と違う意味では愛さないよ。
 静かな瞳で言い切った。
 (くつがえ)すことは不可能だ。敵わない。完璧な失恋だった。
 綾野は嗚咽(おえつ)を堪えながら思う。
 失恋とは一体なんなのだろう。どういうことを言うのだろう。決定的な審判を(くだ)されても、綾野はまだこんなにも弘を好きで、彼女しかいなくて、欲しくなくて、哀しいほどに何も失ってなどいない。
 綾野は次子に背を向けて、枕に顔を押しつけ、身体を硬くし、両手でくちもとを覆って泣いた。
 知らないわけではない。
 綾野の、ちょうどこんなふうに、(かたく)なに現状を直視しようとしない、認めようとしない態度は、弘を傷つける。
 彼女は誠実で勇敢だ。弘は本当のことに向き合うのを怖がらない。真実を口にすることから逃避しない。誰かを傷つけるとき、返り血を浴びることを(いと)わない。
 綾野とは正反対だ。
 だから焦がれた。それは、既に、信仰に近かった。限りなく。
 綾野は、彼女の前に跪いて(こうべ)を垂れる、生贄(いけにえ)になることを望む敬虔(けいけん)な子羊だった。
「なァ、名瀬」
 しばらくして、次子が口を開いた。
「弘は久我先輩を好きで。――あのひとと一緒にいられるのが嬉しいって言ってて、今、それは叶ってる」
 叶わない願いは、あった。
 誰かの幸福が、別の誰かの哀しみになるという痛みは、確かに現実のものだった。掃いても掃いても終わりなく降り積もる花びらみたいに、無数にあるものだった。
 生きていく中で、どんなに祈り、願っても、思いどおりにならないことは必ずある。
 綾野の場合、それがいちばん欲しいものだったというだけの話だ。生まれてはじめて欲しいと願ったものだった、それだけの話だ。
 次子は咥えた煙草の吸い口を噛む。奥歯が(きし)みそうだった。
 これから自分が綾野に言おうとしていることは、綺麗事だ。
 泣きたくなる。
 でも、いいのだ。
 こういうときは、いいのだ。
 次子に可能なことなど、この程度が関の山だ。それでも、もしもこの言葉が綾野にとって僅かでも救いになるのなら、いいだろう?
 許されるだろう?
「……本当に弘のことが好きなら、――あいつの願いが叶ってることを、あいつが幸せである今を、いちばんに喜んでやれ」
 ――ああ。
 こんなの。
 地獄があるなら、あたしはきっとそこへ()く。
 次子は携帯用の袋状の灰皿に、火を点けただけでほとんど吸っていない煙草を押し込んだ。手が、指が震える。
 怒り、叫ぶ伊織や、眼を逸らすことなく物事に対する弘を想う。知らず、てのひらの中の灰皿を握り潰した。
 見るがいい、この姿を。
 あたしこそが、偽善の(かたまり)だ。
 押し黙った次子は必然的に沈黙を(もたら)し、綾野は透明な静寂の中で、ひとしきり泣いた。
 次子の強い言葉は綾野を打ちのめした。
 奇跡は起こらず、助けはなく、闇は果てしなかった。千切れた言葉は綾野に突き刺さり、新たな傷をつくった。千億を数えてもまだ足らない破片から逃れることは叶わず、痛みは変わらず絶えず綾野を(さいな)み、ぼろぼろの身体は熱を持って病んだ。
 何も失っていないからこそ、今でも、これからも、何ものにも許されそうになかった。
 唯一の祈りは打ち()てられて、それでも朽ちてはくれなかった。
 ――どうしたらいいの。
 弘に出逢うまで、綾野は独りだった。それを自覚できないほどに。
 弘と出逢い、綾野は泣いた。助けてほしいと思っても、名前を呼べる相手がいない。手を伸ばしても誰もいない。ひとりぼっちだ。寂しい。それを知って、身を切られるような孤独感に震えた。
 今は、弘がいる。
 ――だけど、ねえ、弘。
 どうしたらいいの。
 いつでも(かたわ)らにいて、微笑んで抱きしめてくれる掛け替えのない救いが、綾野の痛みになっているのだ。
 激しく痛む胸を抱いたまま思う。
 言われるまでもない、弘が幸せなら、それでいい。嘘みたいだ。こんなふうに思っている自分を信じられない半面、それが認めるしかない厳然たる真実であることがわかる。弘が笑っていてくれたら、それでいい。
 たとえ路傍に捨てられてしまっても、綾野はもう、弘を恨むことなどできない。
 綾野は弘を好きだから。
 想いは常に一方通行なのだ。自棄などではない、言い訳でもない。本当にそういうものなのだ。
 見返りなどいらない。
 ()いて挙げるとすれば、想うことを許してほしい。それこそが最大の見返りになる。それ以上などいらない。
 ――幾千億に砕かれたあたしの心が、あんたという光に反射してきらめき、あんたの心を照らすなら、あたしの心なんて砕かれてしまっていいの。
 ――でも、あんたは本当に幸せなの?
 八代に殴られ、伊織(いおり)に爪を立てられて。それでも弘は恨み言のひとつも言わない。ただ、音もなく微笑むだけで。
 深海に眠っていた真珠のような涙を、はらはらと落とすだけで。
 深く傷つけられて、誰も呪わないままで、弘の心はどこにあるのだろう。
「弘が……」
 顔が熱い。涙でべたべたする。綾野はベッドに仰向けになり、ぎくしゃくしながらも身体を伸ばした。次子は静かに言葉を待っている。
「どうして弘が幸せになれないの? なんで弘が傷つけられなきゃいけないのよ」
 自身に対する戒めと、悔恨。抑えきれない哀咽(あいえつ)
 あたしはどうしてあげたらいい?
「弘が幸せになれないなら、あたしはこの世の何も信じない!」
 綾野の叫びは嘆きとともに、涙が飛散するようにふたりきりの保健室に響いた。
 ひとの幸福を願ってやまない弘が幸福になれないなんて、そんな世界は何をも信じるに(あたい)しない。やさしさが報われない世界など壊れてしまえばいい。
 調子のいい話だと、自分でも思う。弘と現実から眼を()らして、彼女を散々に傷つけておきながら、こんなことを言うなんて。
 きい、と丸椅子が軋む音がした。次子が綾野に対して正面を向いたらしかった。
「……信じて、やれよ……」
 いつもの、少し疲れた面倒くさそうな声。
 どこか諦めの染み入った声。
 そう言えば次子は、一体何を諦めているのだろう。
 綾野は両手の甲で目もとを拭い、頭は枕に乗せたまま、首だけ回して次子を見遣った。
 次子はベッドの横に置かれた丸椅子に座り、膝に肘を置いて曖昧(あいまい)に手を組んでいる。(うつむ)いて、少し絡み合った両手の指先を見つめているようだった。
 何か大切なものを包んでいるようにも見える、その手。
「あいつが。生きてる世界なんだ。ここは。どんなにしんどくても」
 痛みしかないように思えても。
 おまえは確かに、世界が輝くことを知っただろう。その瞬間を、見ただろう。
 ――かつてのあたしと同じように。
「名瀬。おまえがそうやって弘を思い遣るのと同じように、自分も思い遣ってやれ。――信じてやれ。弘は、おまえが幸せだっつって笑ってりゃ、幸せになれるんだ。知ってるだろ。あいつはそういうやつだ」
 綾野にとって、はじめてのひと。
 たったひとりのひと。
 甘く微笑む、やわらかな小さな花のようなひと。
 綾野が目指す(いただき)
「それ、だけで、いいの……」
 しゃくり上げるようにして(たず)ねる。
 弘を想う。
 弘だけを。
「ああ。じゅうぶんだ」
 次子が微笑む気配がした。
 それだけ、は恐ろしく困難だ。
「笑って、くれるの」
「保証する」
 綾野は強張った身体から力を抜く。とても難しくて、時間がかかった。次子は助けもしないが、急かすこともしなかった。
 長い時間を費やして綾野が半身を起こして息をつくと、次子はぽんと頭を撫でた。荒ぶった感情のまま乱れた髪を、やや乱暴に手櫛(てぐし)()くように。
 そんなことをされたのははじめてだ。
 驚いて次子を見ると、彼女は少しつったやさしい目で笑った。傷が痛むのを我慢するように、誤魔化(ごまか)すように。
 そして、まるで過去を懐かしむように言った。
「誰かを好きだって、つらいよなあ。……なのに、……なんで止められねえんだろうな」
 本当だ。
 綾野は何か言おうとしたけれど、言葉が出てこなかった。ただ、また零れそうになった涙を耐えようとした瞼のむこうに、弘の笑顔が見えた。
 光そのもののような、弘の笑顔が。




 14 TEMPERANCE.
 「悲嘆の(はたて)

 END.