THE DEVIL.





 いつからだったろう。
 鷹羽(たかは)はとても臆病で、神経質で、癇癪(かんしゃく)持ちで……いつも蒼白い眉間に皺を寄せて、時折激しく苛々(いらいら)として。現在の状況、状態を(いと)いながらも、それを打破しようとは考えず――考えられない、と言った方が正しいだろうか――そしてまたそんな自分自身を嫌悪しながら、どこまでも何もしようとはしなかったし、できなかった。
 八代(やしろ)は一目で、鷹羽のそんな性格、彼を取り巻くものを看破(かんぱ)した。だから鷹羽に近づいた。八代は、鷹羽の前では絶対的な独裁者として彼の上に君臨することができた。
 鷹羽は繊細で(もろ)く、純粋だった。そして、恐らく誰もが持っている、誰かを、何かを信じたい、愛したいという欲求を持っているぶんだけ、壊れやすかった。
 事実、鷹羽を傷つけるのは容易(たやす)いことだった。八代は鷹羽の脆弱(ぜいじゃく)さに()かれた。思うがままに扱える玩具を手に入れたと思った。そして本当に、鷹羽は八代の手の内に取り込まれてからずっと、八代を満足させ続けた。
 けれど。
 いつからだったのか、もう判然としない。
 判然としないが、いつからか、鷹羽は八代の一挙手一投足に動じない部分をゆっくりと、確実に広げていった。
 両腕にくっきりと刻み込まれていた傷痕(きずあと)は段々と薄くなり、新しい傷が増えることもなくなった。血色の悪い蒼白かった顔にほんのりと血の気が通いはじめ、鷹羽は確かに生きている人間なのだと八代に知らしめた。苛立(いらだ)ちを爆発させることも、八代の言葉に崩れ落ちることもやがてなくなり、彼は八代の手から少しずつ離れていった。
 それに気づいた頃には、鷹羽は既に八代の玩具ではなく、彼に意見するひとりの人間として確立されていた。
 どう表現したらいいのだろうか。わからない。ただ、八代は対象もわからないまま激しく嫉妬し、四肢が千切れそうなほどの焦燥の中で弱い鷹羽を再び取り戻そうとし、引きずり出そうとした。
 無理だった。
 鷹羽は八代に焦がれていた――それを、愛や恋と呼んでいいものなのかどうかはわからなかったが――八代はそれを知っていた。愛だろうが恋だろうが、そのほかの感情なのか、そんなことはどうでもよかった。鷹羽が一方的に八代を求めている、必要なのはその事実だけだった。鷹羽が一方的に八代を想っているという事実だけが、八代を絶対的存在たらしめるただ唯一の条件だったから。
 求めるのは、常に鷹羽でなければいけない。
 (すが)りつくのは、常に鷹羽でなければいけない。
 傷つき、苦しみ、弄ばれるのは、常に鷹羽でなければいけない。支配者であるのは己だ。それ以外は許されない。なのに。



 ベッドの周囲に散らばった服を拾い上げ、丁寧に(しわ)を伸ばしてハンガーにかける。さらに、部屋全体に散乱していたプリントや教科書、ノート、新聞を仕分けしてまとめ、教科書類を机の上に置き、新聞や広告はビニールテープで(くく)って部屋の隅に押しやった。
 ざっとカーテンが引かれ、眼球が痛むほど明るい光が部屋に射し込む。
 ベッドに横になったまま八代は目を擦り、眉間を押さえた。偏頭痛が酷い。昨夜からちっともよくならない。
「閉めて」
 低い声で命じたが、鷹羽はさらりと無視した。八代は苛立つ。
「鷹羽」
「八代」
 八代の声を(さえぎ)るように、鷹羽が八代を呼んだ。陽光に目がくらむ。鷹羽は窓辺に立っている。学生服を拾い上げ、袖を通している最中だった。鷹羽は黙っているが、八代は彼が八代の通う高校を受験することを知っている。だから離れることはない。関係は終わらない。
 そう思うのに、こんなにも心許(こころもと)ないのは何故なのだろう。
 八代は(まぶ)しさに目を(すが)めながら、学生服をきっちりと隙なく着込む、名前ばかりの恋人を見遣る。
「もう、来ない」
 言葉は無造作に投げ捨てられた。
 もう、来ない。
「――何それ」
 上体を起こす。鷹羽は八代をちらりとも見ない。
 全開にされたカーテン、(あふ)れる清潔な朝の光、まだ冷たい大気、その中に立って、どうやら鷹羽は左手首を見つめているようだった。
「言葉のままだよ。僕はもう、ここには来ない」
 静かな声だ。はじめて聞く種類の声だ。不安も苛立ちもない、平坦な――感情の見えない声。
「そんなことができるの?」
「やるさ」
 嘲笑(ちょうしょう)まじりの八代の言葉を、鷹羽はきっぱりと切って捨てた。
 背筋がざわついた。
 身体が冷たくなっていくのがわかる。
 鷹羽は本気だ。
「どういう風の吹き回しかな」
 平静を装う。求めるのは、焦がれるのは、傷つけられるのは、()てられるのは、常に相手でなければいけない。己は常に、絶対的、圧倒的支配者でなければいけない。
「どうもこうもないよ。もう会わない」
 どこまでも、鷹羽はにべもない。中性的な顔立ちはなんの表情も浮かべていない。
「どうして」
 言ってしまった。
 八代はさらに激しい頭痛を覚える。
 ――こんなのは嘘だ。
「おまえといても、僕の中の何もよくならない。逃げても、見えないふりをしても、在るものはどうしたってそこに在るんだ。それがわかったから、もう、おまえとは会わない。ここにも来ない」
「それはまた、ずいぶんと強くなったもんだね」
 嘲笑しながら言う。鷹羽はじっと左手首を見つめている。未だそこに残っている傷痕は生々しかったが、すっかり乾き、うっすらと新しい皮が覆いはじめていた。
 消えるのだろう。
 いつか、きっと、あの傷痕は消えるだろう。
 ――頭痛が。
「違うよ」
 頭痛が。
「強くなるために、そうするんだ」
 頭痛が。



 ひやりと冷たいものが額に触れる。
 八代はうっすらと(まぶた)を開いた。
「大丈夫ですか?」
 大きな鳶色(とびいろ)の瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。片手には濡れたハンカチ。そろそろと、火照(ほて)った八代の額をそれで撫でる。冷たくて心地よい。
「やっぱり保健室に……」
「やだ」
 おずおずと言う(ひろむ)の意見を、幼い子どものような言い方で却下する。弘は困ったように眉尻を下げた。
 温室の中だ。
 普段は一般生徒の立ち入りが禁止されている、学校の名物のひとつでもあるこの大きな温室は、一定の気温が保たれるよう空調が常時稼動していて過ごしやすい。一角に、蔓薔薇(つるばら)の透かし彫りの装飾が施された白い円卓と椅子が設えてあり、その横には、これも蔓薔薇の透かし彫りの長椅子が一脚。鉢植えの観葉植物に隠されるようにして、小さいが冷蔵庫もある。
 園芸部の部室は、この温室だ。年中快適で冷蔵庫付き(つまりは三時のおやつができる)、教師も顧問と用務員くらいしか入ってくる者はなく、やろうと思えば好き放題やれるだろう環境にありながらも園芸部員が八代と弘だけしかいないのは、ひとえに園芸部に任されている仕事の内容に()る。
 温室内の植物すべての世話と、学校の敷地の周囲をぐるりと取り巻く躑躅(つつじ)銀杏(いちょう)、桜と梅の手入れ、中庭の手入れ、落ち葉の始末に草取り、水遣り。植物という生き物を相手にしている部活だけに、夏休みも冬休みも活動日数だけなら運動部よりも多い。
 そんなわけで、部員は現在二名。
 八代と、新入生の柘植弘、それだけだ。
 弘はクラス委員長で、しかもかなり有能だから、生徒会に助っ人を要請されることも多く忙しいのだろうに毎日真面目にやってくる。朝は早く登校してきて、水遣りを率先してやっている。言いつけたわけでもないし、まして強制したわけでもないのに、彼女は自発的によく働く。
 天井の硝子(がらす)がきらきらと光っている。()せ返るような緑のにおいに、花の甘い香りが混じる。空調機が働いているモーター音が微かに聞こえてくる。
 静かだ。
「草取りしないと……」
「わたしがやりますよ」
「いくらなんでも柘植サンひとりじゃ無理でしょう」
 少し笑って、よいせ、と言いながら長椅子から立ち上がる。偏頭痛はまだ酷かった。
 弘が不安そうに見上げるので、八代はぽんぽんと軽く頭を撫でてやった。――実際は、ぴよんと跳ねている癖っ毛を指先で(かす)めている。
 大丈夫だよ、と伝えるために微笑むと、弘は安堵したようにほっと息をつき、それからにっこりと笑った。
「つらくなったらおっしゃってくださいね」
「ん。ありがとう」
 いつからだったろう。
 鷹羽は八代を見なくなった。
 ――見なくなったというよりも、見つめる先が変わった。
 いつからか、鷹羽から苛立ちが、焦燥が、自棄や諦めが薄くなっていった。いつも蒼白く、眉宇(びう)を寄せていた顔に、時折微笑が上るようになった。けれど、
 それはいつでも、八代に向けられたものではなかった。
 何があったのか。
 知ったのはつい最近だ。
 思い出して鼻で(わら)う。鷹羽にとって弘はきっと、生きるために必要な清らかな水のような存在であるに違いない。大切に包んで、壊れないよう細心の注意を払い、両手で胸に押し戴いて。
 八代は弘を知らなかった。鷹羽がひたすら隠し続けていたからだ。
 そうして。
 八代は知ったのだ。
 鷹羽が救いを見出したものが、なんなのかを。鷹羽がどれほど、弘を大切に想っているのかを。
 知って、嗤ってしまった。まだ優位は揺らいでいない。
 鷹羽は弘に救いを見出した。それなら。
 それなら、弘を酷く傷つけてやったら、鷹羽はどんな顔をするだろう。弘の中に醜いものがあると知ったら、それを見せつけてやったら、――八代が弘を手に入れたら、鷹羽はどんな顔をするのだろう。
久我(くが)先輩久我先輩、かわいいお花が咲いてます」
 花壇の前に屈んで膝をつき、片手にビニール袋を持った格好で弘が笑う。
 微笑んで、感謝して、やさしくして、許す。
 それらをなんの疑いもなく、なんの(てら)いもなく、誰の区別もなく与える弘。
 暗い感情が、欲望が湧き出し、広がる。八代の身体を染め上げる。
 弘のすべてをこの暗さで染めることができたら、それはどれほどの快感だろう。
「でも、抜いてしまうのですよね」
 花壇にちらちらと咲いていた白い野草を指先で撫でながら、弘は残念そうに、少し哀しげに(つぶや)いた。
「この子たちにもちゃんと名前があるのに……雑草、と一括(ひとくく)りにして捨てられてしまうのは、理不尽にも思います。お花屋さんには並んでいませんけれど、この子たちだって同じ植物で、こんなにきれいなお花をつけるのに」
 ――うん。
 そうだ。
 それは八代もいつも思う。けれど、
「偽善だね」
 考えるよりも早く、口が動いた。
 いつもの微笑を浮かべているに違いない自身の顔。張りついた仮面は簡単には()がれ落ちない。
 八代はぶつぶつと白い花を土から引き抜く。
「柘植サンはどこまでもそういうキレイゴトの世界で生きてるんだなあ」
 なんでもないことのようにさらりと言う。
 ――傷ついて。
 そう願いながら。
 己の中に暗い感情を見つけて、そしてそれに犯されるといい。
「偽善――でしょうか」
 弘は、八代が予想した――期待したどれとも異なる反応を示した。
 きょとんとして、首を傾げる。
「そう思うね」
 一体、何を思っているのか。
 わからない。
 頭痛が再び酷くなってきた。頭が割れるように痛い。苛々する。プロセスなどどうだっていい。こんな問答は必要ない。八代が欲しいのは、弘が傷ついたという結果だけだ。
 弘は草を取る手を止めて、はったと八代の瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「では、先輩は、善とはどういったものだと思われますか?」
 正面からぶつかってくる。
「わたしは未だに、善や悪というものを明確な言葉でもって定義づけることができません。色々と考えてはいるのですが――いつ如何なるときでも通用する定義を、未だに見つけることができずにいます。先輩は何を善とし、何を悪として善と偽善を見極めていらっしゃるのですか?」
「今柘植サンが言ったのは詭弁(きべん)だね、とりあえず」
 どこかに。
 あるはずだ。
 何故なら、弘も人間なのだから。
 ――それなのに。
 弘はすいと視線を手もとに戻して、ささやかな白い花を見つめ、呟く。
「詭弁――でしょうか。そう……でも、」
 弘も人間だ。
 八代と同じく。
 それなのに何故、こんなにも。
「わたしがそう思うのは本当のことですから……偽善でも詭弁でも、わたしが今思っていることは確かに自分の中の真実ですから、わたしは悩んでいるわたしがいるという事実は、せめてそれだけは心から信じます」
 信じる。
 信じる?
「一体何を?」
 自嘲気味に嗤うと、弘は少し驚いた様子を見せ、八代を覗き込んだ。
「自分が考え、思ったことです。考え、思っている自分がいるという事実です。自分自身で考えて出した答えや考えている途中のこと、たとえひとがそれに対してなんと言おうと考えているのは事実なのですから、それを否定する必要はないと思います。考えているのに考えていないのだと否定したら、矛盾してしまいますもの」
「矛盾を矛盾と感じないまま、或いは気づかないふりをして生きていくのは結構簡単なことですよ柘植サン」
「……? ……ご自分を? 信じられないのですか?」
「違うよ」
 ぶつりと、白い花を引き千切る。
 苛々する。
 頭が痛い。
 鷹羽の顔を思い出す。偶然遠くから見た。弘と談笑している鷹羽の顔。
 あんな笑顔を、俺は知らない。
「信じられないんじゃない。――信じないんだよ」
 押さえつけて、()()せて、泣かせたい。
 弘を手酷く裏切りたい。
 そして憎ませ、恨ませたい。
 そうすればきっと、弘も自分と同じ人間なのだと信じられるから。己が腹の底に溜め込んでいる醜いものを弘も持っているのだと思えたら、やっと安堵できるから。
 花を千切る。目を覆いたくなるほどの、激情がやってくる。
 傷つけたい。
 ――死を望むほどに、傷つけたい。




 15 THE DEVIL.
 「死に至る病」

 END.