THE TOWER.





「あんたなんか死ねばいいのよ!」
 その言葉にこめられた呪詛(じゅそ)、嫉妬や憎悪は本物だった。
 けれど、本気ではなかった。
 真実だったけれど。
 本気ではなかった。
 本気は別のところにあった。認めたくなかったけれど、嫉妬や憎悪とともに、それも真実だった。
 どうしようもない。出口がない。地球上のすべてのものが重力に逆らっているのを見たことがないように。
 その絶対的な法則は例外なく綾野(あやの)にも当て()まった。
 落ちはじめたら止まらないのだ。
 落ちると思ったときには、もう既に遅いのだ。



 屈辱。
 父と母は、それぞれ異なる大学で教鞭を(ふる)っている。三歳年嵩の兄は一流大学にストレートで合格し、今は家にいない。荷造りをすませて出発という朝、階段ですれ違った兄は自身の頭を軽薄に指差しながら、綾野に向けて軽く片目を(つむ)ってみせた。
「おまえと俺とじゃココの出来が違うんだから。無理すんなよ」
 あのときの屈辱を、綾野はきっと一生忘れない。
 そして。
 新入生その他大勢の中で進行した入学式を。
 新入生代表で挨拶をした――つまり、入学試験を首席で合格したあの女を。
 彼女が壇上に立ったとき、綾野は絶望にも似た眩暈(めまい)を覚えた。
 やわらかそうな濃い茶の髪。零れ落ちそうに大きな鳶色(とびいろ)の瞳。薄い縁の眼鏡。
 一般入試の際、消しゴムを忘れた綾野に、見ず知らずの綾野に、蹴落とさなければならない敵であるはずの綾野に、真っ直ぐな笑顔で消しゴムを差し出した彼女。
「消しゴム忘れちゃったの? ――はい。これ、よかったら使って」
 消しゴムを手渡されるとき微かに触れた彼女の指先は、赤ん坊のように甘くあたたかかった。
「がんばろうね」
 持参の消しゴムをカッターで真ん中から切り、ひとつだったものをふたつにして。
 蹴落とさなければならないはずの。
 敵以外の何ものでもないはずの綾野に向かって。
 彼女は、笑顔で。
「がんばろうね」



 成花(せいか)第一高等学校は、中間、期末の定期考査はもちろん、成績そのものにはあまり関わってこない長期休暇明けの実力テストも、とにかくテストと名がつくものはすべて、成績上位五十名までが掲示板に大きく貼り出される。それは次の試験が開始されるまで貼りっ放しだから、新入生ならまだしも、これが中間、期末と終わって一年生二学期以降の上位、それも十位以内となってくると、顔ぶれにあまり変化がないので、どんなやつだか知らないけれど名前だけなら知っている、とかいうことも多い。
 入学して一回目の実力テストの結果が出た。
「ほーえー」
 掲示板に群がる、決して少なくない生徒の中で()競饅頭(くらまんじゅう)状態になりながら、長い髪をゆらゆらさせて伊織(いおり)はぽかんと口を開けた。
「オイ」
「ふがっ」
 伊織の頭をすぱんとはたく。長い指、大きなてのひら。伊織はわざとらしくふくれっ面をして、「ぶーっ」と言いながらふり向いた。
次子(つぎこ)。痛いよー」
「馬鹿口開けて見てんなよ馬鹿。馬鹿がばれるだろ」
「だぁってぇ」
 なおもふくれる伊織を、次子はきれいに無視して流す。平均よりもずっと高い身長で掲示板にある順位表を見た次子は、はあ、と溜息をついた。
 得たりとばかりに伊織が(わめ)く。
「ね、ねっ? タメイキ出ちゃうでしょ? なんかうわーってなるでしょ?」
「ああ……あいつほんとにできるんだなあ……」
 一位の欄に見慣れた名前。次子は小学生のときから、伊織は中学生のときから付き合っている、柘植(つげ)(ひろむ)、の三文字。弘はヒロム、と読む。堂々とした男名前だが、本人は小柄でふわふわと綿のようにやわらかな印象の少女だ。
一色(いっしき)は四十八位か。まあまあだな」
「ヒロリンもはーくんも、とりあえずは中学時代の定位置に高校でも収まったってわけかー。うーん。いいなー。伊織もヒロリンの半分くらいでいいから、お勉強できるようになりたーい」
「……おまえは弘を(うらや)む前に、自分の成績を見て落ち込むところからはじめろよ」
 次子はこれ以上ないというくらいの呆れ顔で言った。
 そのすぐ隣。
 眉の上で真っ直ぐに切り揃えられた短い前髪。背中に垂らした黒髪はそれもまた真っ直ぐで、整った顔立ちと相まって日本人形のように(りん)として美しい。次子ほどではないが、すらりとした長身。黒い制服がしんと似合っている。
 意志の強そうな眉の間を心持ち蒼くさせて、名瀬(なせ)綾野は拳を握り締めた。
 唇が震える。
 頬が熱い。
 胸の奥が、何かが詰まっているように苦しく重く、どろどろとして気持ちが悪い。
 握り締めた拳が痛い。
 爪がてのひらを傷つけているのかもしれなかった。
 頭の中で、ぐるぐると同じ場面が回っている。壊れたレコードが同じ部分を延々と奏で続けるように、綾野の頭の中では、ただひとつの場面が、ばかみたいに繰り返されている。
 柘植弘と同じクラスだと知ったとき、綾野はもう何度目かもわからない絶望に全身を(ひた)した。
 入学試験の際、消しゴムをくれた柘植弘。
「がんばろうね」と微笑んだ柘植弘。
 入学試験を首位で突破した、新入生代表で挨拶をした、同じクラスになってしまった、出席番号が五十音順だったせいで前後に並んでしまった、実力テストでも首位を守った、綾野に笑いかけてきた柘植弘。
 弘は綾野を覚えていた。
 入学式の日、教室で綾野を見つけると、弘は人懐っこく笑った。
「わたしのこと覚えてる? 試験のときに消しゴム渡した……柘植弘っていうの。よろしくね」
 忘れるはずがない。
 あの記憶は、綾野にひどい衝撃を与えたものだったから。
 様々な中学校から進学してきた生徒たちの新しいにおいにざわつく教室で、弘はすぐに皆の中に溶け込んだ。性別に関係なく、出身校に関係なく、弘は周囲に慕われてクラス委員長に選出された。
 それは。
 弘が手に入れているすべての成績、称号、立場は、本来なら綾野のものであるはずだった。これまでずっとそうだった。誰も綾野に敵わなかった。ずっとずっとそうだった。それが当然だった。そうでなければならなかった。
 家族の中で一員として認められ、生活していくには、何においても常にトップでなければ存在を許されなかった。
 しかしそれらは高校で一気に失われた。
 綾野が得るはずだったものすべて、弘が(さら)っていってしまった。
 綾野は、家庭での居場所をなくした。
 ――最初からそんなものはなかったのかもしれない。見えないふりをしていただけなのかもしれなかった。
 綾野は弘を恨んだ。
 それなのに。
 弘は、綾野に笑いかけてくるのだ。
「名瀬さん。さっきね、先生に聞いたんだけど、数学のテストの最後の問題、できたの全クラスで名瀬さんだけだったんだって。数学得意なの?」
 何故、笑っていられるのだろう。
「あのね、迷惑じゃなかったら、あとで教えてもらってもいい? 模範解答見たんだけど、いっこわからないところがあって」
 その台詞(せりふ)を聞いて、綾野はかっと頭に血が上った。
 弘は、綾野のことなど歯牙(しが)にもかけていないのだと思って。
 敵視しているのは綾野だけなのだ。弘は、綾野のことなど単なるクラスメイトのひとり――その他大勢の中のひとりとしてしか見ていないのだと思い知って。
 怒りと羞恥に震える腕を支えながら、綾野は図書室の扉を開けた。
 歯を食い縛っているから、(あご)が疲れて痛む。
 放課後の図書室には、都合のいいことに生徒の姿は少ない。綾野は全身に力を入れて、何かを壊してしまいたい衝動を無理矢理に抑えつけながら、荒い足取りで書棚の間を通り抜け、一番奥まった場所にある席にどかりと座った。
 震える。
 身体が。
 怒りと。
 羞恥で。
 苦しい。
「あ!」
 びく、と心臓が跳ねた。
「名瀬さん」
 穏やかな声。
 綾野は最近よく眠れない。
「よかったー。だいぶ遅くなっちゃったから、もう帰っちゃったかと思った。頼んでおいて遅くなってごめんね。先生がプリント刷るのお手伝いしてたんだけど、コピー機の調子がおかしくって、わたわたしてたら時間がどんどん経ってっちゃった」
 ごめんね、ともう一度言って、弘は心から申し訳なさそうな顔をした。
 そうだ。
 実力テストの数学。たったひとり、綾野だけが解くことができた最後の難問。教えてくれと頼まれて、何故だか断ることもできなくて、曖昧(あいまい)(うなず)いたのが三日前のこと。
 綾野は最近よく眠れない。
 弘が身近に存在するようになってから、ずっと。
「名瀬さん、時間は大丈夫?」
 教科書やノートを取り出しながら弘が言う。綾野はどうしようもない苛立(いらだ)ちに身を焼かれる。
 綾野が得るはずだったものをすべて奪っていった弘。
 でも本当は、本来は自分が得るはずだった、などと言えるものなど何ひとつありはしないのだという真実を知っている。
 頂点から転がり落ちたことで、家での居場所を失ってしまった現実。
 でも本当は、それは弘が原因なわけではないのだ。
 綾野の苦しみなど欠片も知らず、無邪気に懐いてくる弘。
 綾野はきつく目を(つむ)る。椅子に座ったまま、身を硬くして、ぴったりと合わせた膝に腕を突っ張って拳を握り締めて、
 ――どうしたらいいのだろう。
 どこにいたらいいのだろう。
 どうして。
 こんなに苦しいのだろう。
「名瀬さん? どうしたの? 具合が悪い?」
 弘が、心配そうに声をかけてくる。
 ――どうして。
 やさしさを惜しまないのだろう。
「名瀬さ」
 乾いた音が、図書室に響いた。
 かしゃん、と軽く音を立てて眼鏡が落ちる。呆気にとられたように、弘は綾野を見つめている。片頬を赤くして。
「どうして!」
 自分でも驚くほど、大きな声だった。
「どうしてこんな思いしなきゃいけないの! 勉強ができなきゃ、いつもいちばんでなきゃいけないの? そうじゃなきゃそんなにあたしには価値がないの? なんであんたはよくてあたしは駄目なのよ!」
 苦しい。
 目の奥が熱い。
 どうして、どうして。
 苦い表情の父が、怒りの形相(ぎょうそう)の母が、嘲笑(あざわら)う兄が脳裏を駆ける。
 条件付きでなければ与えられない愛など、愛ではない。
 そんなもの、愛とは呼ばない。
 けれど綾野は、それしか知らない。
 ならば自分は、誰にも愛されていないのか。
 どうして。
 どうして私は愛されないのですか。
 これほどまでに耐えて、支えて、保っているのに。
 これ以上何を望むというのだろう、もう、立っているだけで精一杯だ。
「あんたなんか死ねばいいのよ! あんたのせいであたしなんにもなくなっちゃったよ! 返してよ、全部! 返して!」
 ここにいることさえ許されないなんて。
 自分はこんなにちっぽけだ。
「かえして……っ」
 息が詰まった。涙が浮く。
 自分は何も持っていなくて。
 何も持っていなくても愛してほしいのに。
「あんたが! ……あんたさえいなかったら、……っ……」
 言葉が続かない。
 真実ではないからだ。
 それがわからないほど、綾野は馬鹿ではない。
 でも。もう。苦しい。痛い。心が。千切(ちぎ)れてしまう。
 助けて。
 誰か。
 助けてほしいのに、助けてほしくても、誰の名前を呼んだらいいのかわからない。助けを求められる相手すらいない。ひとりぼっちだ。寂しい。
 弘が憎い。
 夜も眠れないほど憎い。
 弘が、綾野にないものを持っているとわかるからだ。それが、とても大切なものだとわかっているからだ。
 どんなに欲しくても手に入らなくて足掻(あが)くのに、苦しむのに、誰も綾野の苦悩をわかってくれない。
 弘はこんなにもあたたかいのに。
 ――がんばろうね。
 弘の一言が忘れられない。あの笑顔を忘れられない。
 クラスが同じだと知ったとき、出席番号が前後していると知ったとき、彼女が自分のことを憶えてくれていたと知ったとき、綾野は、
 ――綾野は、嬉しかったのだ。
 生まれてはじめて、何かに許された気がした。
 本当は、(すが)りついて泣きたかった。
 ずっと寂しかった。
 誰にも手を差し伸べられたことがなくて、背中を押してくれるひともいなくて、弘の存在に触れたとき、彼女が綾野が望むすべてを持っていると気づいて、
 ――助けてほしくて。
 気づいてほしくて。
 ぼろぼろと涙が流れ落ちる。頭が痛い。嗚咽(おえつ)を隠せない。身体がひどく震えていた。涙が止まらない。
 ふ、と。
 肩に、何かが触れた。
 弘のてのひらだとわかるのに、少し時間がかかった。
 そろそろと遠慮がちに、背中に腕が回される。
「……!」
 驚いて、一瞬息が止まる。
 身を小さくして泣きじゃくる綾野を、弘はぎこちなく、けれどとても大切そうに抱きしめた。
「あの……どうしたらいいのかわからないんだけど……」
 小さな、戸惑った声。
「こうするしか知らないから……」
 背中の小さな手に、緩く力がこめられる。
「死にたくないから、死なないけど、でも、一緒にいることはできるから。……あの、迷惑じゃなかったら、このまま抱っこしてるから、さ――差し出がましいけど、その、……いっぱい、泣いていいよ」


 落ちる。


 お ち る 。


 駄目だ。
 落ちる。
 何も見えなくなってしまう。
 落ちる。
 助けて。
 助けて。
 そうして手を伸ばした先にいるのがあなただなんて。

 落ちると思ったときにはもう遅いのだ。
 落ちてしまっている。
 ひかれる力に敵わない。


 ――落ちる。




 16 THE TOWER.
 「LA TRAVIATA」

 END.