THE STAR.





 温室を見るのは懐かしい気がした。
 それは確かにそうなのだろう。八代(やしろ)が学校に来るのは植物たちの手入れをするためだった。ただそれだけのために登校していた。それなのに、一ヶ月以上も寄りつきもしなかったのだ。
 将来の夢などと呼べる(まぶ)しいものなど持ち合わせていなかったし、だから進路について考えたこともない。経済的な支援を八代に施している養父が、最低でも高校は卒業しろと言うから、自宅として与えられたマンションからほど近いこの高校に唯々(いい)諾々(だくだく)と進学した。
 なんの目標があったわけでもなく、人付き合いも上辺だけで、八代は入学早々疲弊(ひへい)した。
 すべてが面倒くさかった。
 意義を欠片も見出すことができなかった。
 どうせこの場だけのものなのだと、未来に繋がっていくものなど何ひとつありはしないのだと思うと、あらゆるものはただ滑稽(こっけい)でくだらないだけだった。馬鹿馬鹿しい三流芝居だ。
 そんな八代を尻目に、周囲の人間たちはその三流芝居を心から楽しんでいた。その中に登場する人物として、誰ひとり可不足なく馴染み、与えられた役に魂を注いでいる。
 八代は上澄みで彼らと折り合いながらも、深いところで決定的に弾き出された異物だった。
 温室は、逃げ場だった。
 成花(せいか)第一高等学校の名物、全面硝子(がらす)張りの、どこか秘密めいてひっそりと花を(ふところ)(いだ)(その)
 八代が入学したとき、既に部員はいなかった。聞けば、今年部員が入らなければ同好会に降格だという。現在のところ入部希望いない、とも。
 顧問が鷹羽(たかは)の従兄弟である橋爪(はしづめ)(りん)だった偶然には驚いたものの、かえって都合がいいかとも考えた。彼なら、八代が言葉の限りを尽くして説明するまでもなく、八代の背景や思惑を()んでくれるだろう。すべて思いどおりになるとはさすがに思わないが、まったくの他人に比べれば確実に面倒は少ないに違いない。
 そんな打算だけで、八代は園芸部に入部した。
 途中から入部してくる者もおらず、凛には「仕事はするから、極力温室には近づかないでほしい」と頼んだ甲斐あってか、八代は日々孤独に親しみ、温室で静寂と沈黙とともに過ごしてきた。
 植物は素直だ。草も、木も、花も。
 そして静かで、やさしい。
 温室の扉を閉めさえすれば、そこは完全に外界とは隔絶された、八代だけの箱庭だった。
 あるのは、硝子越しに揺らめく空と、白い床に(はかな)く広がる虹、緑の呼吸と花の色だけ。
 誰も踏み入ってこない。
 誰も八代を傷つけない。
 何も考えなくていい。
 何も考えず、思い出さず、土をならし水を()く。  そんな日々。
 うすぼんやりと、半ば白昼夢の中にいるような状態で、ずっとこのままならいいと思っていた。時が止まってしまえばいい、と。世界のすべてのものから切り取られ、放り出されてしまいたいと。
 それはとても、楽だから。
 温室の観音開(かんのんびら)きの扉はいっぱいに開かれている。八代だけの箱庭だった頃には考えられないことだ。
 こんなところにまで変化は及んでいる。
 不快ではない。ただ胸が苦しくて、息が詰まるようで、世界の眩しさに目がくらむ。
 白い石畳は乾いている。温室の硝子を通り越して降る陽光が白さを一層引き立てて、周囲の薔薇はいきいきと輝いている。土はふくふくと肥え、育てている植物たちにとって害になるものはひとつも見当たらない。一見しただけで手入れが行き届いているのが知れる。
 ――あれからもずっと来てたのか。
 恐怖に駆られた八代が、罪のない頬を手酷く一方的に打ち据えたあの日。夕焼けにはまだ至らない時刻、温室内は不思議な明度で静まり返っていた。
 ――柘植(つげ)サンらしい。
 弘は毎日ここへ来て、花に水をやっていたのだろう。頬を()らしたまま、葉や茎や(つる)の手入れを怠らなかったのだろう。
 想像するのはあまりに容易で、八代は微かに苦笑した。同時に、胸が塞がれる。
 それまで当たり前に弘の横にいた自身の姿が、光景のどこにもいない。にもかかわらず、弘に変わったところはないのだ。
 西の空に積雲は溶け、雲は穏やかに浮いている。白い和紙をやさしく千切(ちぎ)ったような薄い雲。時刻は五時前だが、夏の今、まだまだ空は青い。
 薔薇(ばら)が主に育てられている温室、その奥に、(ひろむ)はいた。
 白いレースのりぼんが巻かれたつばの広い麦藁(むぎわら)帽子をかぶって、ひよこ色のエプロンをかけた後姿。
 最後に弘を見た日、彼女も自身もまだ合服だったのに、今はもう夏の制服だ。半袖から伸びる腕はシェアバターのようなどこかあたたかく懐かしい白で、肩で切り揃えられた濃い茶の髪は少し癖があって、でもやわらかくて。
 夏服の弘の後姿を見るのははじめてなのに、なんだかとても、懐かしかった。温室を前にしたときよりもずっと。
 (した)わしい小さな背中。
「柘植サン」
 少し、小さな声になってしまった。
 弱気な、声になってしまった。
 ずっと会っていなかったのだ。八代は逃げて、今日まで逃げ続けていた。
「はい」と返事をしながら弘がふり向く。彼女は誰に名前を呼ばれても、必ず「はい」と返事をする。
久我(くが)先輩……」
 目が、合った。
 弘の大きな鳶色(とびいろ)の瞳が、(わず)かに驚きに見開かれる。
 今、自分は弘の目にどう映っているのだろうと思うと、心許(こころもと)ない。不安だ。眼を逸らしたい。
 けれど、ここで逸らしたら、この瞬間に至るまでのすべてが水泡に帰ってしまう。
 眼は逸らさなかった。真っ直ぐに見つめ返した。
 ふ、と、弘はやわらかく微笑んだ。
「ちょうどいいところにいらっしゃいましたね。これからちょっと休憩しようと思っていたところなのです。先輩、お茶にいたしましょう」
 いつもの調子で。
 まるで何事もなかったかのように、昨日「また明日」と笑顔で別れたように。
 弘は穏やかに言って帽子を脱ぎ、軍手を取ってエプロンのポケットに入れると、八代の脇をするりと通っていく。
「え……柘植、サン、」
 咄嗟(とっさ)の言葉が出てこない。もしかしたら、弘はなかったことにしようとしているのだろうか。――弘の性格上、それは考えられない。では、この態度は。
「久我先輩? どうなさいました?」
 不安に揺れる八代を、弘が呼び戻す。にこにこと裏も表もない笑みを含んで、数歩先で八代を待っている。
 結局、八代は迷いながらもほかにどうすることもできずに、弘に従った。
 温室の一角には、蔓薔薇の透かし彫りの意匠の白い円卓と、揃いの椅子が二脚。長椅子が一脚。観葉植物に隠されるようにして、小さな冷蔵庫。
 当然といえば当然なのだが、何も変わっていなかった。
 そこで立ち働く弘の姿さえも。
 八代は軽い偏頭痛と、眩暈(めまい)を覚える。
 錯覚してしまいそうになる。あれは悪い夢だったのではないか。
 ――そんなことがあるはずもないのに。
 自嘲(じちょう)に染まった苦い溜息が()れた。
 音をまったく立てずに、テーブルについた八代の前に抹茶が出される。いつもそうなのだ。本当に質量のあるものなのかと疑いたくなってしまうほど、弘は食器類の音をほとんど立てない。
 見上げると、弘はにっこりと笑った。
「召し上がってください。久我先輩には遠く及びませんけれど……お抹茶、お好きでしょう?」
 溜息には聞こえなかったふりをしてくれたのだろうか。それとも本当に聞こえなかったのか。お(うす)ですよ、と笑う弘の態度からは計り知れない。
「柘植サンが、()ててくれたの?」
「はい。お茶請けはくずもちです。暑い日が続きますので」
「つくってきたの?」
「はい」
 黒に一刷(ひとは)鳩羽色(はとばいろ)が入った茶碗に、抹茶が満ちて揺れている。隣には手製だというくずもちが涼しげに懐紙(かいし)の上に落ち着いている。弘はやはり静かに、八代の向かいに腰を下ろした。
「いただきます」
 行儀よく言ったものの、弘は茶にも菓子にも手をつけようとしない。ああそうかと気づいて、――そしてまた、柘植サンらしい、と心の中で泣きたい思いにも似た苦笑を漏らして、八代は茶碗を傾けた。
 ひとくち。
 喉を下る、ひとに点ててもらった茶を飲むなど何年ぶりだろう。
「……結構なお手前で」
 世辞ではなく言うと、弘は頬を紅潮させてはにかんだ。無邪気な笑顔だ。変わらない。
 ――変わっていないとおかしいのに。
「柘植サン」
「はい。なんですか、久我先輩?」
 持参の菓子を切りながら応じるその様子も、自然そのものだ。視線を八代に転じ、花色の唇に微笑さえ浮かべて次の言葉を待っている。
「――……」
 言葉が、出てこない。
 喉に張りついて乾涸(ひから)びる。
 謝るべきなのだろう。
 許しを請いたいわけではない。ただ謝りたかった。
 謝罪の言葉ならいくらでも知っている。言い訳なら腐るほどある。それなのに、単語すら発声が叶わない。
 明確な言葉にしようとした途端、それらはぼろぼろと崩れて死んでいった。
 死んだ言葉を差し出す気などない。そんなものに意味はない。累々(るいるい)と積み上げられていくだけで届かない言葉など、いらない。
 届かない声なら、最初からない方がいい。
 ――気持ちは通じないし、心は伝わらないよ。
 言葉があっても伝わらないのなら、言葉がなければ根底からないのと同じだ。言葉も想いもその程度のものだと思い続けてきたのに、今になってその事実が痛い。
「申し訳ありません」
 沈黙の(とばり)を破ったのは弘だった。それも、信じられないかたちで。
「なんで柘植サンが謝るの」
 驚きのせいで、(いぶか)しんだ口調になってしまう。圧倒的大多数に比べれば無感動なものだったが。
 弘は謝罪とともに下げた頭を上げ、八代を見た。
「わたしはあなたを傷つけましたから」
 八代は最初からなかった言葉をさらに失う。
「間違ったことをしたとは思いません。前言の撤回もいたしません。ですが、あなたを傷つけた、その点について謝らせてください。許してくださらなくてかまいませんから」
「……俺を、責めないの?」
 情けない。
 弘を見る。
 正面を切って頭を下げて、謝って。背筋はしゃんと伸びて、まるで(りん)と咲く花だ。
 それに比べて八代はどうだ。
 謝罪の一言も口に出せず、今また、弘の眼を見ることもできない。呆然と、弘という存在を見つめるだけだ。
 弘はこくりと首を傾げた。
「何を責めるのです?」
「俺はきみを殴った」
「そうですね」
 首肯(しゅこう)して微笑む。八代の右手には、弘を殴ったあの感触、衝撃が鮮明に蘇っている。
 無意識に、右手は拳を握る。
「ずっと……騙されてたんだとか、裏切られたとか、――幻滅したとか、ないの?」
「ありません」
 乱麻を断つようにきっぱりと、弘は言った。刹那(せつな)躊躇(ちゅうちょ)も動揺もなく言い切った。疑う余地のない真実であることは明白だった。
「……どうして」
 不安や恐怖より、疑問が心の深奥から湧いた。声として弘の耳に届いた八代の一言は中途半端で、疑問符すらついていなかったが、気にしない。
「久我先輩が、いつも偽りでわたしに接していたとは思わないからです」
「買いかぶりだ」
「久我先輩にとって、ご自分はそんなに信じられない存在ですか」
 ああ、また。
 ――たった一言で、俺の中心に触れる。
「質問してもよろしいですか」
「……なに」
「久我先輩は今、嘘をついていらっしゃいますか? まだ猫を被っておいでですか」
 僅かに返答に(きゅう)する。が、結局八代は一呼吸置いて、聴きとれるか否かの声で否定した。
 弘が笑う。小さなやさしい色の花が咲く。
 花言葉はなんだろうと思う。八代の目の前に咲く、ささやかな小さな花。
「ありのままのお姿なのですね」
 言って笑みを深くする。
 どうしてそんな顔をするのだろう。何故、今になってもそんな無防備な笑顔を向けてくれるのか。
 あんな理不尽な仕打ちをした俺に。
 ごめんの一言も言えない俺に。
「幻が、滅びたということでしょう。幻滅という文字は、実はそれほど嫌いではないのです。……わたしは幻に惑わされ続けるより、真実を突きつけられて痛い目を見る方がいいのです。わたしは鈍感な世間知らずですから、いい経験になります」
 それに、と続ける。
「先ほども申し上げましたように、わたしは、これまで久我先輩がわたしにしてくださったすべてが、あなたの偽りだったとは思っていません」
 茶碗を置き、改めて姿勢を正して八代を見据える。
 くっきりとした二重瞼(ふたえまぶた)の、大きな鳶色の双眸(そうぼう)。八代が畏怖(いふ)した透徹(とうてつ)の瞳。
 ――大丈夫。
 八代に告げたあのときのように、誇らしげに微笑む。
「誠意を尽くしてくださったこと、あったでしょう。何度も」
 信じる、という行為を見せつけられる。
 ――あなたは誰かの救いになれます。
 詐力(さりょく)の手すらも包み込み、弘は八代を肯定した。
 ――退(しりぞ)きなさい、久我八代。今のあなたはわたしに及ばない。
 凍てつく大気が春という季節そのものに緩むように、けれど決定的に、八代を一度は突き放した弘の右手。
 それでも、彼女は否定したわけではなかった。
 どんなに引きずり込もうとしても、たとえあのとき弘の身体を裂いていたとしても、彼女は決して八代のものになってはいなかった。
 道連れにして地獄の底まで堕ちたとしても、弘は弘で、八代は八代だ。
 鷹羽が言ったように、どんなに眼を逸らしても曲げられない事実はあり、依存したところで同化は叶わず、逃げ場などどこにもありはしない。
 どこに逃れようとも、自分自身だけは、必ずともについてくるから。
「おめでたいね」
 泣き笑いのような表情になってしまったと思う。
 弘は言及せず、はい、と朗らかに笑った。
「毎日がお祭りのようです。人生は、とるに足りない日常と逆境こそをめいっぱいに楽しむものなのです。これは母からの受け売りですが、すぐに実感することになると思っています」
 とるに足りない、愛すべき日常。
 八代には想像もつかない。
 逆境なんて、つらいだけだ。
 考えを見透かしたように、弘は付け加えた。
「わたしの日常の光景の中には、もちろん久我先輩も入っていますよ」
 他人事だと思わないでくださいね。
 冗談めかして言う。
 のんきなものだ。
 罪な笑顔だ。
 ――俺が、どれほど救われているかも知らないで。
「俺がいても、いいの?」
「はい」
「裏切るかもよ」
「わたしが信じていますから、いいのです。誰かに傷つけられたからといって、自分が誰かを傷つけてもいい理由にはなりませんもの。それと同じです。それとこれとは別の問題ですよ」
「相変わらずのキレイゴトだ」
「研磨された強固な信念です」
 手を伸ばす。
 指先で、弘の小指に触れる。
 磨かれた桜貝のような爪の、華奢(きゃしゃ)な小指。
「裏切らない約束なんてしないよ」
「かまいません。――未来は、怖いですか」
 眼を伏せ、声には出さずに想う。
 うん。
 怖いよ。
 ――明日柘植サンがいなくなったら、きっと俺は今日を恨む。
 失うのは、怖い。
 明日が来るという保証などどこにもありはしない。未来に対して五感はあてにはできず、蓄えてきた知識ですら、本当にそれが意味あるものなのかわかりはしない。完全な暗闇の中では何も見えはしないのだ。
 幼い頃から不思議だった。
 未来はいつも不透明なのに、何故ひとは翌朝目覚める自分を疑いもせずに眠りにつくことができるのだろう。もう二度と目覚められないかもしれないのに。夢の中にさえ恐怖は潜んでいるのに。
 悪夢に囚われたままの久遠(くおん)の時を(くだ)されるかもしれないのに。
「……俺は、傷つけ続けてきたよ」
「それは、傷つけられたからですか」
 静かな瞳が問う。
 うん、と(うなず)いた。
「俺は、実の父親の名前も顔も知らない」
 深く息をつき、目を閉じて天を仰いで唐突に言った。
 今まで誰にも話したことはない。鷹羽にも。
 でも、もう、いい気がした。
 弘に触れて、ひとりで抱え込んだふりをしているのが、はじめて信じられないほどの重圧に感じられた。
「母親が浮気してね。母親の結婚相手――養父は結構な資産家だから、母親はハナっから財産目当てだったんだと思うよ。養父は普段は穏やかなひとらしいけど、潔癖だから激怒したらしい。俺が生まれたのが結婚して間もない頃だったんだから、まあ怒りも一入(ひとしお)だっただろうね。……離婚して……母親からすれば離婚されて、一度は親子ともども放り出された」
 ずっと疲れていた気がした。
 大きく伸びをして頬杖をつき、何ともどことも知れず見つめる八代の黒瞳が(くら)(かげ)に沈む。哀しみでも恨みでもない、茫漠(ぼうばく)と乾いた暗黒。
「毎日責められたよ。おまえのせいだってね」
 殴られたよ、とは言わなかった。弘には伝わってしまうだろうが、実際に言葉にするには、八代にとってあまりにも重い過去だ。
 黙って聞いていた弘が、何か言いたげに口を開きかけた。だが結局声にはならず、弘は唇を噛み締める。
 仲の良い両親、純粋な愛情を一身に受けて育った自分。そんな弘に言えることなど、――違う、きっと、ほかのどんな人間でも同じだ。誰が何を言っても、これはどうしようもない部分なのだ。
 よくある話だといえば、そうなのかもしれない。ありふれているといえば、確かにそうなのだろう。だからといって、「そんなのよくある話だ」などという言葉は一時(いっとき)の慰めにすらならない。「ほかにも苦しんでいるひとはたくさんいる」などと説いたところで、つけられた傷が癒えることはない。
 幸運にも弘はそれらからほんの少し遠い場所に産み落とされたというだけの話だ。
「――久我先輩に、責任は、ないでしょう……」
 頭でわかってはいても、気持ちがたまらなくて、消え入りそうな声で言う。悲愴(ひそう)な面持ちで今にも泣き出しそうな弘を見て、八代は小さく笑った。
「ないとは言い切れないんだよ。浮気がバレる決定打になったのが俺だから」
「……? お顔立ちがお父様似なのですか?」
「いや顔は母親似。でもおしい」
 まったくわからない。
 弘は見当がつかずに、じっと八代の顔を見つめてしまう。嫌悪でも好奇でもないまっさらな視線を受けながら、八代は確認するように思った。
 ――もう、いいだろう?
「――左目が。実父と同じなんだ。それで顔立ちは母親に似てるんだから、養父からしたら言葉どおり見たくもない顔だよね」
 眼鏡を外す。もとより度は入っていない、伊達眼鏡だ。眼鏡を円卓に置き、少し(うつむ)く。
 左目に触れる指が、震えた。
 愕然(がくぜん)とする。凍りついたように身動きが取れない。
 ――怖い。
 恐れているのだ。ここに来てまでも。
 弘を信じられないのか。――違う、そんなことではない。それでも身体は動かなかった。
 浸透した恐怖。焼きついた痛み。八代の深奥を支配する記憶。
 どうしてだ。もういいだろう。もう、いい加減、俺を呪わない誰かに逢ったっていいだろう。こんな眼も、こんな産まれも、俺が望んだわけじゃない。
 ――許されたって、いいだろう?
 震えが徐々に広がり、思考回路が白くなりはじめる。これが世界を拒絶しはじめている状態なのだということを、八代は嫌というほど知っている。
 あたたかいものが、ひどく震える左手に触れた。
「……いいの……ですよ……」
 微かな声だった。
「怖いなら……。先ほどのお話だって、とても、勇気が必要だった……の、でしょう。……焦らなくても、……いいの、ですよ……」
 弘の表情を見ても、彼女の心の色はわからなかった。
 八代の胸を押し返したとき、あのときもそうだった。恐怖も歓喜も同情も憐憫(れんびん)も、何も読み取れない。
 魂を込められる前の、無垢(むく)で体内を満たされた人形のようだ。
 (にじ)むように伝わってくる弘の手のぬくもりを感じながら、言葉を継ぐ。――怖い。
「……虹彩(こうさい)異色症(いしょくしょう)、なんだ」
 勇気なんかない。
 俺はこんなにも臆病だ。
 知って欲しいとはじめて思った弘にさえも、秘密の色を(さら)すことができない。
 でも、せめて。
「はい」
 弘の手を握る。壊してしまわないように、そっと。
「遺伝なのか、突然変異が恐ろしい確率で重なったのか知らないけど――同じ、らしいよ。瞳の色が。隠しきれないでしょこれは。だから責められた」
「お母様は……?」
 甘やかな声。昔日(せきじつ)の八代が求めたものを思い出させる、やさしい声色。
「さあ? 死んでなきゃどこかで生きてると思うよ」
 弘はそれだけで理解したらしかった。幼い八代が母親に()てられたことも、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て皮肉にも母親の元夫に養われていることも。――養ってくれているとはいえ、養父に愛されているはずもないということも、恐らく。
 ぎゅう、と細い腕に抱きしめられた。弘は無意識だろうし、彼女は立っていて、八代は座っている。だから単なる偶然なのだけれど、ちょうど母親が子どもにするように、弘は八代の頭を撫でるようにして抱いていた。
 涙の気配はない。
 八代は泣かせていないことに安堵する。
 ――疲れていた気がする。
 八代は緊張して強張っていた全身の力を抜いて、恐る恐る、ほんの少しだけ弘に体重を預けてみた。
 やわらかい。あたたかい。
 かつて、八代も人並みに愛情を求めたことがあった。そして、叶わなかったから、諦めた。(すが)りつくよりも、諦めた方が――諦めたと思い込む方が、傷つかずにすんだから。
「だから」
 言い訳だ。
 八代の声に反応して、弘が僅かに身体を離す。透明な鳶色の瞳が、八代の黒い瞳を覗き込む。
 傷ついているのが、わかる。
 八代の傷に触れて震えているのが、涙を含んだ体温が、触れ合う指先から伝わってくる。
 ――言い訳、だけれど。
 どうか、許してほしい。
「……約束なんか、しないよ」
 そんなことを言いながらも、八代は弘の手を取って、小指を自身のそれに絡めてみた。
 滑稽だと思いながら。単なる(たわむ)れだと自分に言い聞かせながら。
 幼い頃誰とも交わしたことのないゆびきり。あらゆる約束は、一度たりとも果たされはしなかった。八代は約束を守る術を知らない。
 弘は微笑んで、八代の少し長い、黒い前髪をかき上げた。先のほんのりと染まった細い指先で、確かめるようにそっと左瞼(ひだりまぶた)に触れる。
 微かに怯えた八代の秘密の左眼に、おもむろにやさしいキスを落とした。
 震えた。
 恐怖ではなく。
 言葉にならない。声にならない。
 ――胸が痛い。
「すべてのこわいものから、あなたが守られますように。――あなたの明日は、いつも今日より素晴らしいものになる。久我先輩。あなたのこれからは、絶対に今よりもっとしあわせになります」
 それは八代が生まれてはじめて触れた、祝福という名の魔法だった。
 清らかな祈りであり、そっと寄せられた信頼だった。
 広大な砂漠にあってはるかな旅路を照らし、つめたい水を(たた)えた井戸まで導いてくれる一粒の星だった。
 存在を疑ってすらいたその星をなんと呼ぶのかくらい、知っている。
 本当はそんなものどこにもありはしないのかもしれないのだけれど、あるのだと思うことが。見上げればきっと輝いているのだと信じることが。
 ――この目で見る日が来るだなんて。
 こんなにもささやかな、小さな光だったなんて。




 17 THE STAR.
 「祈りの(ゆうべ)

 END.