THE MOON.





 何故に兄弟の目にある小さきほこりを見れど、同時に己れの目にある梁のことを考えざるか。
 己れの目に梁がある時、何して兄弟に向い’汝の目よりほこりを取らせよ’と言うことができようぞ。
 偽善者よ、まず己れの目より梁を取りのけよ。さらば、はっきりと見ることを得て、兄弟の目よりほこりを取りのぞくことを得ん。
                            ――モルモン書〜ニーファイ第三書第十四章



 園芸部の仕事は、温室内の植物の世話だけではない。校内のそこかしこの植え込みの手入れやら落ち葉の始末、水遣り草取りも含まれている。
 とにかく、植物カテゴリに分別されたものに対して、園芸部員は心血を注がなければならない。それが成花(せいか)第一高等学校園芸部における心得だ。
 五月の下旬ともなればあらゆる緑は勢いよく、夏の気配をまといはじめた陽射しの下で、八代(やしろ)と二手に分かれた(ひろむ)はひとり躑躅(つつじ)の植え込みの下草を手入れしていた。
 同じ植物でありながら、雑草と十把一絡(じっぱひとから)げにして引き抜かれ、打ち()てられるささやかな若い緑を取り除いていく。
 花と雑草の境界線はどこにあるのだろうと思いながら。
 八代はどう考えているのだろう。
 花の名前を知るひと。それらが持つ物語を聞かせてくれるひと。弘は八代の口から雑草という単語を耳にしたことがない。
 ――柘植(つげ)サンは神様じゃない。
 ――だからキミは、特別を作ってかまわない。
 綾野(あやの)の悲痛な告白と、八代の謎かけのような一言一言。
 綾野は弘を特別な意味で好きで、それは弘が綾野に対して抱く好きとは違って。
 あのとき八代を好きだと思った弘のこの気持ちは、特別なものだろうか。
 弘はまだ、恋を知らない。
 好き、という気持ちそのものを特別だと思っている弘は、愛情に種類があるという理解はしたものの、距離感を(つか)むことができないでいる。優劣、と言うべきなのだろうか。
 どんな種類の愛情であれ、そこに優劣はないと弘は思う。誰もがそれぞれに特別で、大切だ。同じ人間はいない。あえて天秤にかける必要があるのだろうか。そのとき、天秤の支柱たり得るのは一体なんなのだろう。どのような判断基準で、こちらが重しと答えを出すのか。そんな答えを出すことは、――天秤にかけること自体が、相手に対する侮辱になりはしないのだろうか。――けれど。
 ある一点において、既に答えは出てしまった。
 眼は()らせない。
 たとえ傷つけることになるとしても、傷つくことになるとしても。
「弘君」
 小さな声が、弘を呼んだ。
 (おもて)を上げる。
 伊織(いおり)だった。
 弘は「はい」と返事をして立ち上がる。伊織が腹を立てているのはすぐにわかった。
 彼女は普段、次子(つぎこ)以外の人間を適当な渾名(あだな)で呼ぶ。弘はヒロリンと呼ばれ、鷹羽(たかは)ははーくん、綾野はあーやと呼ばれている。きちんと名前で呼ぶのは、伊織の感情が決していいとは言えない意味で(たかぶ)っているときだ。
 いつもふざけているように見せているのは、彼女なりの足掻(あが)きなのだろう。深く関わらないように、いつでも忘れられるように、知らない他人に戻れるように。名前を呼ばないのは、そのための予防線なのだ。
 無理矢理に引いたボーダーライン。わかっているからこそ、弘はそれについて触れたことはない。
 大きな(くすのき)によって濃く広い影が落とされた渡り廊下から、伊織は靴を履き替えることもなく、つかつかと歩いてくる。乾燥した(ほこり)っぽい土が、(わず)かに舞い上がり陽の光に反射する。
 不思議な静けさだ。
 聴こえてくるのは葉擦れの音だけ。
 今なら、耳をすませば光が降る音ですら聞き取れるような気がした。
 腕を伸ばせば届く距離まで来て、伊織は足を止めた。無表情だ。感情が見えない。いつもの伊織は我儘(わがまま)いっぱいに表情を多彩に変えるのに。
 じっと弘を見つめる伊織の視線を正面から受け止めながら、弘は、まるで人形のようだと思う。
 毛先が緩く波打つ長い髪。長い(まつげ)に縁取られた猫のような大きな瞳。かたちのよい鼻梁(びりょう)と、やわらかそうな頬と。荒れひとつない陶器のような肌に、小さな唇。
 女の子が憧れるすべての素敵なものを集めて完成させたお人形のようだ。
 綾野も整った容姿の持ち主だが、伊織とはタイプが異なる。綾野が帯をきつく締め屋敷の奥にひっそりと(たたず)幽玄(ゆうげん)の花なら、伊織は髪にドレスに宝石を飾って舞台を沸かせる華の踊り子だ。
 その華美(かび)な容姿と引き換えのようにして、伊織はずっとひとの輪に入れずにいた。伊織は常に、同性の嫉妬の対象だった。
 ひゅ、と空を切る音がして、弘の耳の奥で風船が破裂したような音が響いた。
 びりと(しび)れるように頬が痛む。
 名で呼ばれ、伊織の無感動な瞳を見て予想はしていたから、唐突に平手打ちを喰らっても驚きはしなかった。
 弘は(かが)んで、落ちた眼鏡を拾い上げる。
「……何も言うことはないの」
 限界まで感情を押し殺した声で、伊織が問うた。
「いきなり殴られて、何も思うことはないの?」
「……わたしは」
 ポケットからハンカチを取り出して、眼鏡についた土埃を払う。
「それだけのことをしてるっていうことだと思うから」
「いい子ぶるのもいい加減にしてよ!」
 弘の語尾を(さえぎ)るように叫んだ伊織の声は、古い校舎に耳障りに反響した。
「どうして? なんで弘君っていつもそうなの? あたし弘君を殴ったんだよ? いきなり、なんの説明もせずに、弘君の話を一言も聞かないで! なんであたしのこと責めないの!」
 弘は静かに、ゆっくりと瞳を驚きの色に染めていった。それから、やっと痛みに気づいたように、哀しげに眉宇を寄せる。鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)が憂う。
 伊織が何を伝えたいのか、わかってしまったから。
 弘のそんな表情の変化を目にして、伊織は唇を噛んだ。
 ――もう、いやだ。
 弘君といると、あたしばっかりがいっつも悪い子だ。
 涙が浮かぶ。悔しくて、涙も劣等感も、すべてをふり払うように声を荒げた。
「なんで綾野にちゃんと答えてあげないの? 綾野には弘君しかいないんだよ。どうして受け止めてあげないの!」
 語気荒く吐き続けながら、伊織は自身が綾野をカモフラージュに使っていることに気づいていた。本当に言いたいのはこんなことではない。
 でも、重なる部分が多すぎて、どうしようもない。
 ――どうして、弘君は一色(いっしき)君を愛さないの。友人や兄妹としてではなく、あたしが彼を想うように愛さないの。唯一、一色君に愛されていながら。
 ――どうして綾野を愛さないの。あんなにも一途で純粋な心をまるごとぶつけられておきながら、どうして弘君は同じ気持ちを返さないの。
 弘ばかりが愛されているような気がした。ただそこにいるだけで。
 弘は捧げられるばかりで、添えられた想いには触れもせず、甘い蜜の部分だけを(すく)っているような気がした。
 裏切りのように思えた。
「伊織ちゃんの目にそう映るなら、そういう面もあるのかもしれない。でも、綾ちゃんから逃げてるつもりはないし、ちゃんと答えようとも思ってるよ」
曖昧(あいまい)な言い方で逃げ道つくるのやめてよ! そんな言い訳いらない! 答えが決まってるならはっきり言えばいいじゃないっ」
 金切り声を上げながら、伊織はどんどん(みじ)めな気持ちになってくる。これだけ叫んでいるのに、弘に届いている気がしない。弘が遠い。
 ――何故、こんなにも時を置くの。
 あまりにも残酷ではないか。弘はきっと、綾野が望むかたちの想いを返さない。遠からず綾野は失うのだ。傷つくのだ。
 どうせ叶えさせるつもりがないのなら、早く突き放してしまえばいいのに。こんなの苦しいだけだ。
 ――届かない想いなら、早く風化してしまえばいい。
 風化、させてほしい。
「……どんな言葉を選んだらいいのか、わからない」
 ぽつりと弘の唇から(こぼ)れ落ちたのは、伊織がはじめて聞く、迷いと不安に(いろど)られた声だった。
 伊織は思わず絶句する。
「どんな……って」
「どんな言葉を選んでも、わたしは綾ちゃんを傷つけるから……」
 手にしたままの眼鏡を、ぎゅっと握る。弘は睫を伏せた。
「綾ちゃんを、傷つけたくない」
 ぶつり、と皮膚が弾けるような、破れる音がした。
 反射的に両目をきつく閉じた弘が(まぶた)を開いたとき、至近距離の眼前にあったのは泣き濡れた伊織の顔だった。
「そんなの偽善だよ! 綺麗事言わないで!」
 伊織の両手が、弘の頬を掴んで固定している。怒りによる震えが(じか)に伝わってくる。いつも淡い色のマニキュアで整えられた伊織の右手の爪が、頬に喰い込んでいるらしかった。
「傷つけたくない? 笑わせないでよ。綾野がどんな思いで弘君をずっと好きだったか知らないくせに! どんな思いで告白したのかわかってもいないくせに、――誰のことも好きになったことのない弘君に何がわかるの? 適当なこと言って聖人ぶるのもいい加減にして! ――本当は、誰も好きじゃないくせに!」
 伊織の右手指に力がこもる。次の瞬間、彼女の爪は容赦なく弘の左頬を引き裂いた。
 烈火を宿した両眼。
 間違いなく、今、伊織は怒り心頭にあるのに、何故だろう。泣きだしそうな子どもに見える。寂しい、心細いと震える迷子のように見える。
 ――ああ。
 弘は思い知る。
 ――今のわたしには、傷つけることしかできない。
 泣きそうになる。でも、駄目だ。
 泣いてはいけない。
「好きだよ。綾ちゃんも、伊織ちゃんも」
 ――わたしは、ここで泣いてはいけない。
「伊織ちゃんは、ない? 誰のことも傷つけたくなんかない、好きなひとならなおさら傷つけたくないって思わない? ――たとえそれが現実的に無理なことだとしても」
「……っ」
 伊織は一瞬呼吸が止まる。
 そんなの当たり前だ。
 でも今は、弘が傷つけばいいと思っている。
 ――どうしよう。あたしはやっぱり悪い子だ。
「たとえ現実的に無理でも――傷つけたくないと思ったり、傷つかないでほしいと思うから、ひとは、やさしくあろうと思ったり、誰かや何かを信じたりするんだと思う。……わたしは、そう信じてる」
 膨らんだ鮮血が(たま)になる。未だ弘の頬に爪を立てたままの伊織の指に、血が染み入る。
「だからそれが」
「偽善でも、綺麗事でもかまわない」
 肯定し、言い切った。
 伊織はすべての反論を失う。
 弘の小さな手が、伊織の両手に重ねられる。
「わたしは、綺麗事が悪いことだとは思わない。理想はいつも綺麗事で、夢はいつだってきれいで……叶わないことがわかってても、信じることすら放棄したら、きっと世界は誰にとっても痛いだけの、傷つけるだけのものになっちゃうと思うから」
 弘の左頬に、じわじわと絵具が(にじ)むようにして血が広がっていく。
 怯えるように伊織は手を引いた。
「は、放して」
 これ以上、弘に触れていてはいけない気がした。
 必死で両の手を引っ込めようとするのに、弘は伊織の手をしっかりと握ったまま放そうとしない。
「放して!」
 弘が怖い。
 こんなにも揺らがない。
 伊織はもがいて弘から離れようとするが、弘の力は存外強く、敵わない。
「弘君、放して!」
「放さない」
 半ば恐慌状態に(おちい)った伊織の耳に、静かに意志の強い声が通った。
 大きな声ではなかった。
 大粒の涙を落とし、長い髪をふり乱しながら泣いていた伊織は、不意に我に返ったように(うつむ)いていた顔を上げた。
 小さな花のような、やわらかな微笑があった。
 伊織の激情をいささかも恐れていない眼差しだった。
「放さないよ。――今手を放したら、伊織ちゃんはきっと、自分は世界中にひとりぼっちだって思っちゃう。……だから、放さない。絶対に」
 絶対。
 言い切った弘の手のぬくもりや、やわらかさが伊織の胸を刺す。
 信じたい、と思う。
 信じかけているのがわかる。
 ……違う、きっと、もう――
 力なく、伊織はふるふると首を振った。
「独り……だよ……」
「自分と同じ存在は、どこにもいないよ。そういう意味ではみんな独りだよ」
 ひとりぼっちは怖いことだ。
 誰も助けてくれないのは怖いことだ。
 どこにいても人目を引く容姿の伊織は、長いこと孤立の中心にいた。皆が車座(くるまざ)を組んで遊びに興じている中、伊織はただひとりどこにも加わることができず、いつも背中を見つめて(うらや)んできた。
 思春期、或いは女という生き物特有の、美しいものに憧れる一方で、いざ美しいものが現れると途端に排他しようとする一種の集団心理に伊織は呑まれ、自身の容姿を、呪った。
 ――みんなと同じになりたい。
 どれほど願ったことだろう。
 みんな、が何を指すのかもわからないまま。同じになるとはどういうことなのか考えもしないまま、伊織は願い続けてきた。
 そうすれば、もう明るい公園に独り取り残される(むな)しさや寂しさと別れられると思っていた。
 夢想だ。
 理想とは違う。
 けれど、夢だ。
 かつての伊織にとって、それは確かに何よりも美しい夢だった。そこでは誰も、伊織を傷つけなかったから。
 伊織は大きくしゃくり上げる。
「そんな……ふうに、言ってくれるの……弘君しかいないよ……っ」
 子どもと同じだ。
 暴言を吐いても許してくれるだろうか。傷つけても抱きしめてくれるだろうか。
 ――このひとはほんとうに、私を受け入れてくれているのだろうか。愛してくれているのだろうか。
 わざと悪いことをして叱られ、親の愛情を試す幼子と変わらない。
 弘はくすりと笑った。
「それは違うよ」
 弘の手に包まれた両の手が、先ほどとは違う理由で震えている。右手の爪には血がこびりつき、既に乾いて赤黒くなっていた。
 それでも、弘は伊織の手を棄て去ろうとはしないのだ。
「次ちゃんは、何も言わなくてもずっと一緒にいてくれるでしょう。綾ちゃんだって、お話を聞いてくれるでしょ? 綾ちゃんはひとと会話するのに慣れてないところがあって、ぎこちないかもしれないし、仲良くお話するにはもう少し時間が必要かもしれないけど。……鷹羽くんだって。――誰も伊織ちゃんを無下(むげ)に扱ったりなんかしてないし、これからだってしない」
 伊織は震えながら息を吐き出し、俯いてぎゅっと目を(つむ)った。目頭が熱い。新しい涙が、重力に従ってぼたぼたと落ちていく。弘の指に自分の指を絡めて、強く握り締めた。
 苦しい。胸が痛い。
 誰かを好きでいるのは、こんなにも心が砕けそうになる。
「あたし、一色君を好きなの」
 次子以外の人間に言ったのははじめてだった。本人に言っているわけでもないのに、ひどく勇気が必要だった。緊張した。相手が弘だからかもしれない。
 弘はやさしく(うなず)いた。
「うん」
「一色君は、弘君を愛してるの、誰よりも」
「……うん」
 不安だった。
 伊織が持つ関係性は、すべて弘ありきのものだったから。いつも心のどこかで、弘がいなくなったらきっと自分に見向きしてくれるひとなんか誰もいなくなってしまうと思っていた。
 そんなふうに考えるのは不誠実だ。
 信じていない証拠だ。
 不信を相手との間に置いておきながら、自身の孤独を嘆くなど、なんという甘えだろう。信じていない相手に対して、どうして「何故信じてくれないのか」と責めることができるだろう。ひとはいつだって己の姿をありのままに映しだす忠実な鏡だ。
 弘は孤立を恐れない。だから常に孤独で、そうありながら必ず彼女の(かたわ)らに誰かがいる。
 弘が羨ましい。
 弘になりたい。
 でも、伊織が化けた時点で、その存在は既に弘ではない。そんなことは、伊織だって、誰に指摘されなくてもわかっていた。
「でも。でもね、」
 ()せながらも言を継ごうとする。
 息継ぎが上手くできず、発声できない。弘は繋いでいた指を解いて、伊織を抱きしめた。泣きじゃくる小さな子どもをあやすように伊織の背を撫でる。
 ――やさしくしないで。
 そんなふうに許さないで。
 ――苦しいよ。
 思いながらも、伊織は弘の背中に腕を回し、(すが)るように抱きしめた。
「……あたしも、弘君が好きなの……!」
 わかって。
 ひとりを想うことがどれほど不安かを知って。
 どうにもならない一方通行の想いが、どれほどもどかしいかを知って。
 ――弘君を嫌いになれないのが、どれだけ胸に痛いことなのかを、わかって。
「――もう、自分が誰を好きなのかわからないよぉ……っ」
 好きだという感情は、差別化することなのだと思っていた。
 等しく愛するなんて、綺麗事以外の何ものでもないと。みんな好きだよ、などという言葉は、詭弁(きべん)そのもの。そんなことあるわけがない。誰のことも愛していない証拠だと思い込んでいた。
 誰に対しても等しく微笑む弘は、いつも愛情をはぐらかしているような気がしていた。誤魔化(ごまか)しているのだと思っていた。
 愛は、愛し愛される幸福は、等しく(くだ)るものなのだろうか。
 ――早く、弘君に特別なひとができたらいいのに。
 そうすれば、未練がましく絡みつく想いや嫉妬や憧憬(どうけい)、そんなものすべてを断ち切ってしまえるのに。
 きっと、断ち切ってしまえるのに。
 弘の手が、ようやく落ち着いてきた伊織の髪を撫でる。
「……急いで恋しなくても、いいと思うよ」
 独白のような(ささや)きだった。驚いて身体を離し、顔を覗き込むと、弘の瞳から、一粒の涙がすうと頬を伝っていった。
 そこではじめて、弘は一体誰の膝にもたれて泣くのだろう、安らぐのだろうと思い、締めつけられた胸の苦しさに、伊織は数瞬の間、呼吸もままならなかった。




 18 THE MOON.
 「天はひとつぶの涙をこぼした」

 END.