THE SUN.





 光を。もっと光を。



「何を描いてるの?」
 突然降ってきた声に、次子(つぎこ)は取り出そうとしていた煙草を思いきり握り潰して、ポケットの中へ突っ込み戻した。
 周囲をぐるりと確認するが、誰もいない。それに声は、上から――
「何を描いてるのか()いてもいい?」
 見上げると、次子が(もた)れている木の一等太い枝を(また)いで座り、片足をぶらぶらさせている小娘――と言ってもここにいる以上、次子と同い年なのだろうが――がいた。左手には筆を、首には画板の紐を引っ掛けて。何かおもしろいものを見つけでもしたように、きらきらした瞳で次子を見下ろしている。
 初夏の濃い緑の中の木漏れ日を浴びて、やわらかそうな濃い茶の髪がふわふわ風と遊んでいる。白いワンピースを着ているが、下着が見えはしないかという懸念はあまり持っていないらしい。
 ふくふくと幸福そうな薔薇色(ばらいろ)の頬。穏やかに微笑を含む澄んだ鳶色(とびいろ)の瞳。
 次子は一目で看破(かんぱ)した。
 自分とは相容れない存在だ。
 次子は眼を伏せ、面倒くさそうな溜息とともにぼそりと答えた。
「――空気」
 適当だった。
 そのときの言葉だけではない。
 十二のとき、次子は既に適当な世界で適当に生きていた。そうするしかなかった。そうでなければ壊れてしまうから。
 が、
「素敵!」
 と明るい声が次子の頭頂部をぶん殴った。
「すごい! 空気? すてき! そうか、うん……! わたし、全然思いつかなかった。空気……空気! すごい、すてき……! どうやって描くの? 見せてもらってもいい? 今降りるからちょっと待っててね!」
 冗談だろう、と思った。
 本気にするか。本気にするかよ、普通。空気だぞ。見えねえんだぞ。どうやって描くんだよ。信じるなよ。アホか。
 呆然と思い立ち尽くす次子を尻目に、小娘は木の上で画材をまとめ、見ているこちらが苛立(いらだ)つほどもたもたと木から降りてきた。地面に足をつけると、一応スカートをぱんぱんと叩いて直す。
 ずいぶん小柄だった。次子が平均をはるかに上回る長身であることを除いても、小さい。ちまちましている。ぬいぐるみみたいだ。額を軽く小突くだけでころんと後ろに転がっていきそうだった。
 そうしてやっと次子に顔を向ける。
 どこかで見たことのある顔だ。
 いや、それはそうなのだろう。あるに決まっている。たとえ一度も同じクラスになったことがなくても、クラスは一学年に二つずつしかない。二つのクラスに分かれていても、丸々五年も一緒にいたら面識くらいあって当然だろう。
 小娘は親しげに、よちよちと次子に寄ってきた。圧倒的なほど無防備だ。次子は戸惑う。こういうタイプに次子は慣れていない。
「ねえ、あのね、だめじゃなかったら、あなたの絵、見せてもらってもいい?」
 画板を抱えて、次子を覗き込む。くっきりとした二重の、大きな鳶色の瞳。裏切ることも裏切られることも疑うことも疑われることも知らない、突き抜けて透明な瞳だ。
「別にいいけど……」
 何も描いちゃいねーからな。
 と心の中で思ったのだが、相手は次子の「けど」のあとを、
「あ、じゃあ、見せっこしよう。わたしも見せる! そしたら公平だもんね」
 と誤解してくれた。
 次子は溜息をつく。小娘は一度閉じた画板を開き、その中からついさっきまで描いていたのだろう四つ切りの画用紙を取り出して、はい、と次子に示した。次子は仕方なく画用紙を受け取る。面倒くさいと面倒くさいと思いながら見て、
 ――絶句した。
「なんだこれ」
 一面水色に塗り潰してあった。
「え」
 小娘はきょとんとして、それから少し照れ笑いをした。
「わたし、あんまり絵を描くのは得意じゃないから……へたっぴだけど……それ、空、なの」
 空?
 次子は怪訝(けげん)そうに眉を寄せ、もう一度水色に染まった画用紙を見た。なるほど、確かに濃淡がある。
 丁寧に見てみれば、それはとても繊細なグラデーションなのだった。
 思わず空を見上げる。
 快晴。
 雲ひとつない。
 小学校最後の年の、最後の写生大会。近所の緑地公園に来た生徒たちに、教師はこう言った。
 ここに来て、自分がいちばん美しいと思ったものを写生してください。
「木とか、お花もすごくきれいだと思った。きれいな色だって。ちょっと丘みたいになってるところへ行ってみたら、風景そのものもすごくきれいなことに気がついたの。ほんとうにきれいで……どうしてこんなに全部のものが明るくてきれいで、見ててしあわせになるんだろうって考えたら、きっと空がとても青くて透きとおってるみたいで、その下にあるから、きっとこんなにきれいなんだって思って。だから木に登ってなるべく空に近いところで写生してたんだけど、」
 難しくって、あんまり上手に描けないの、と小娘は言った。
「でも、空気なんて考えつかなかった。でも、そうだよね。空気は全部を包んでるんだもんね。見えるものがこんなにきれいなんだから、空気もきれいだよね。思いつかなかった……!」
 小娘は大切そうに言って、その小さな身体でゆっくりと深呼吸をした。感動しているようだった。感情がそのまま表情に出ている。
 今、こいつは本当に本気で感動している。
 次子はさらに戸惑う。白いまま画板に広がっている画用紙を悔いた。悔いてから、なぜ悔やまなければならないのか、とその思いをふり払う。
 小娘は待っている。
 次子を真っ直ぐ見つめている。
「……あたしも……むずか……しくて、」
 (うつむ)いて、言い訳をするように言葉を探した。
「どうやって描こうか考えてたところ」
 そうなんだ、と小娘はにっこりした。それから次子に歩み寄り、
「わたしも一緒に、ここにいてもいい?」
 遠慮がちに尋ねてきた。次子はやはり戸惑い、うろたえる。こんなふうに身を寄せてくる人間など、家族を除けばはじめてだった。クラスメイトはいつも遠巻きに次子を眺め、息を潜めて次子の様子を窺っていた。教師は皆、扱い辛い問題児として次子に接していた。
 ――こんな、ふうに。
 無防備な笑顔を向けられたことなどない。
「いいよ」
 低い声は実にぶっきらぼうに放り出された。それでも小娘は嬉しそうに笑う。
「ありがとう!」
 弾けるように笑って言って、それを見て次子は、なんだかやさしい色をした花みたいだと思った。



 後日、次子は放課後に校内放送で職員室に召集をかけられた。
「六年一組、有馬(ありま)次子さん、六年二組、柘植(つげ)(ひろむ)さん。至急職員室まで来てください」
 ああやっぱり、と思って盛大な溜息をつく。当然だと思った。そして、あの小娘の名前を知る。
 つげ、ひろむ。
 見たことがあるはずだ。柘植弘といったら、年に一度校内で行われる漢字博士テスト及び計算達人テストで、六年連続満点の金字塔を打ち立てた偉業のひとだ。もちろん、その年毎に表彰台に上っているし、写生大会の数日前に、六年連続満点をメダルで称えられている。さらに言えば、彼女は現児童会会長だ。
 知らなかった。というよりも、結びつかなかった。
 会長の名前が柘植弘だというのは知っていた――何せ、役員の名前は常に職員室前の掲示板にでかでかと書いてあるのだ。そして次子は職員室呼び出しを頻繁に受ける――が、男だとばかり思っていた。
 あんなぽんにゃらした奴が会長なのか。
 失礼します、と機械的に発して職員室に入ると、弘は既にいて、次子を見つけてふにゃと笑いかけてきた。
「えへへ、こんにちは」
「……おう」
 ぼそりと返す。
 どうしろというのか。次子はこんな人間との接し方など知らない。
 すぐに教師はやってきて、次子は弘と並んで説教を受けた。で、新しい画用紙を押しつけられ、理科室にテッセンの鉢植えがあるから、それを写生しなさいと言われた。次子は予想どおりの展開に溜息が出るばかりだったが、弘はまったく理解していないようだった。
「どうしてテッセンなんだろう」
 広い理科室にふたりきりで、並んで座っている。目の前には見事な花をつけたテッセンが置かれていた。
 窓から射し込む陽光に鈍く照り返す黒い大きな机。外はあまりにも明るすぎて、理科室は薄暗く感じられる。
「どうして描き直しなさいって言われたのかなあ? それにわたし、空を描いたのに。描き直すのに、どうして空じゃなくてテッセンなんだろう。これって描き直してるって言わない気がする」
 弘はしきりに首を傾げている。それでも素直にテッセンと向き合い、せっせと手を動かしているが――
 何故こうなったのか、弘はまったく理解していない。
 あの画用紙一面の澄んだ水色が教師に理解されなかったことを、弘はまったく理解していない。
「あっ、そうか。もしかしたら、あんまり大きなものだったからだめだったのかな」
 何が「そうか」だ。やっぱり理解していない。
「だから空気もだめだったのかなあ」
 真面目に考え込んでいる。
 こいつは。
 こいつは違う世界で生きている。
 弘の横顔を横目で眺めながら、次子は思う。
 きっと、こいつの世界にはサンタクロースも妖精も妖怪も当たり前に存在している。
「有馬さん」
 突然弘がこちらを向いた。次子は弘を見つめていたことに気づかれなかったか少々焦りつつ、なんだと応える。
「次子さん。――つぎこさんか。次ちゃんって呼んでもいい?」
 なんなのだろう唐突に。
 弘の大きな瞳が、きれいに次子を映している。自身とは違う世界に生きる、同じ世界に存在する人間。自分とはまったく異なるもの。画用紙一面を空色に染めた、次子に空気を描かせた未知なるもの。
 心がほどける。
「……いいよ」
「ありがとう」
 弘はふわりと微笑んだ。
「次ちゃんが描いた空気の絵、……捨てるなんて言わないで。それならわたし、欲しい」
「あんなもんがか」
「あんなものじゃない。わたし、あんなに素敵な絵を見たと思ったのは、最近ではミレーの『晩鐘(ばんしょう)』以来だよ」
「そいつはどうも」
「捨てないで。……もらってもいい?」
「……いいよ」
 次子が(うなず)くと、弘はもう一度ありがとう、うれしいと言って笑った。やさしい色の小さな花だった。弘は座り直してテッセンの写生を再開した。次子は身体の向きを変えて、弘の横顔の写生をはじめた。



「何を描くの?」
 デッサンのためのスケッチブックを持って木に凭れていた次子に、冬用のジャージを着て、軍手をはめ、つばの広い麦藁(むぎわら)帽子をかぶった弘が尋ねた。
「おう。お疲れさん園芸部。草刈りか」
「うん。次ちゃんは?」
「あんなクソ暑いところじゃコンテ持つ気にもなれねーよ」
 さぼっちゃだめだよ、と弘は笑いながら言った。
「次ちゃん、百号キャンバスに選ばれたんだってね。おめでとう」
「誰から聞いた」
奈乃(なの)先輩。わたし、時々生徒会のお手伝いに行くから。奈乃先輩って書記やってらっしゃるでしょう」
 わたしもちょっと休憩、と言って、弘は帽子を取りながら次子の隣に座った。
「百号キャンバスって、部長さんに一年生の中から選ばれたひとりだけが描けるんでしょう? すごいね。次ちゃんの絵、素敵だもんね。出来たら見せてね」
「おお、できたらな。塗っても塗っても埋まらねえがな」
 大丈夫、ちゃんと埋まるよ、と弘は声を立てて笑った。
 風が吹く。緑の葉っぱのにおいがする。快晴。雲ひとつない。空気がきらきら光っている。
 世界は美しい。気づくことが困難なだけで、世界は誰にも開かれている。誰にもやさしくここにある。隅々にまで希望は広がり、誰かに見つけてもらえる日を、静かに輝き待っている。
「ああ、いいお天気だね。しあわせだね――」
 弘は微笑みながら、うんと背伸びをするように深呼吸をした。次子はその様を見て、思う。
 本当は、わかる。
 綾野(あやの)が弘を求める理由が。鷹羽(たかは)が弘に救いを見出す理由が。伊織(いおり)が弘に頼りながらも嫉妬する理由が。八代(やしろ)が弘を傷つけてやろうとしていると同時に、独占したがる理由が。
 わかる。
 綾野が激痛に(さいな)まれながら、それでも弘を諦められない思いもわかる。
 次子だって、次子でさえ、自身がもし男ならと思うから。
「ん? どうしたの、何かおかしかった?」
 ふと気づいて弘が次子を見遣る。
「次ちゃん、顔がにっこりしてるよ」
 弘は、惜しむことなく降らすから。
 心から求めてやまないものを、(はげ)しく憧れるものを、惜しむことなく降り注ぐから。
 ――あたしが。
 あたしがもし男なら。
「おまえが笑うからだよ」
「ん?」
「――あたしが笑うのは、おまえが笑うからだよ」
 あたしがもしも男なら、きっと弘を(さら)っていくのに。
 次子は少し乱暴に、弘の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。弘は、うわわとか言いながらずれた眼鏡を直して、一瞬きょとんとした。それから、ゆっくりと丁寧に微笑する。
 ああ、本当に。
 惜しむことなく降り注ぐ。
 誰の区別もなく降り注ぐ。
 求める心はなくならないけれど、それでも弘は許すから。
 手を伸ばさずにはいられないのだ。

 光を。
 もっと光を。




 19 THE SUN.
 「光あれ」

 END.