JUDGEMENT.





 避けようと思えば、避けられた。
 甘んじて受けたのは、その気力がなかったからだ。
 どうでもよかった。
 したいことなど、もう何もない。自分がどうしたいのか、何をしたらいいのか、わからない。考える必要すら、ない。
 鷹羽(たかは)の拳は容赦なく八代(やしろ)の頬を殴り、八代は背を書棚に強く打ちつけた。衝撃を受けた棚から、本が何冊かかすれた重い音を立てて落ちた。
 一瞬呼吸が止まり、次いで酸素を求めた身体が激しく咳き込む。頭痛がするが、いつもの偏頭痛でないことくらいは、今の八代にもわかっている。
 そのまま、ずるずると座り込んだ。
 立ち上がれない。
「いい加減、眼を()らすのはやめろ」
 激昂(げっこう)を抑制した低い声で、鷹羽が言った。
 八代は暗く鼻で(わら)う。
「俺の何を知って、――何をわかってそんなこと言ってる? 鷹羽。おまえが」
 裏も表もなく、ずっと(ひろむ)に愛され続けていたおまえが。
 彼女にひとつの嘘もつく必要のなかったおまえが。
 ――俺の知らないところで、ひとり救われ続けていたおまえが。
 顔も上げない八代を見下ろしたまま、鷹羽は毅然(きぜん)とした態度を崩さない。
「何も知らないし、わからないよ。おまえはわからせてもくれなかったし、僕もわかろうとしていなかった。僕たちは脆弱(ぜいじゃく)で、お互い惰性(だせい)で依存し続けてきた。――これまで、ずっと」
 人間は何度も絶望する。何度も。
 鷹羽自身、これまで幾度絶望の(ふち)彷徨(さまよ)っただろう。奈落の底に沈んだだろう。眼前に崩れ落ちている八代は、かつての己だ。鷹羽は八代の手によって、気が遠くなるほどに闇の深淵に(ひた)されてきた。
 今は、それが決して八代ばかりが原因ではなかったことを知っている。
 八代は鷹羽に絶望を強いてきた。
 鷹羽は八代に絶望を強いられてきた。――表向きは。
 望んでいたのだ、鷹羽は。絶望していれば何も考えなくていい。束縛されていれば足掻(あが)く必要もない。絶対的な支配者に蹂躙(じゅうりん)されていれば、諦めていても誰にも責められない。
 それはとても甘美な誘惑だ。
 何もしなくていい。項垂(うなだ)れていればいい。
 いっそ幸福と呼んでもいいほどに楽だった。
 事実、幸福なのだろう。それはある意味で、幸福なのだ。けれど。
 耳にやさしく響く声。鷹羽の一部にとって、彼女はすべてだ。
 ――忘れないで。わたし、いつでもあなたの幸福を願ってる。
 鷹羽は知ってしまった。笑いかけてくれるひとがいるということ。遠く離れても、幸福を願ってくれるひとがいるということ。
 鷹羽を想って怒り、泣いてくれるひとがいるということを。
 ――世界にひとりきりだなんて思わないでね。
 弘が言ったとおりだった。
 確かに、鷹羽はひとりきりではなかったのだ。ひとりきりだと思い込んでいただけで、いつだって本当は、孤立してなどいなかった。
 人間は何度も絶望する。けれど、そのたびに光を見出す。
 絶望など、言葉があるだけで、ひとは一度も真実の意味で絶望したりなどしないのだ。もし本当に絶望していたら、光などどこにも見出せない。期待などしない。
 きっと生きていられない。
 鷹羽は幸運にも弘という光に出逢い、それを知った。
 ――暗い部屋だ。
 いつも遮光のカーテンが引かれた、乱雑な情報が散らばった、冷たい寒い部屋。
 八代はいつもこんな冷たい部屋に帰り、たったひとりで寒い夜を過ごしているのだろうか。凍えながら、冷えきった指先をあたためてくれる存在があることすら知らないまま。
 八代を殴った右の拳が痛い。
 ここに弘がいてくれたらいいのに。
 微笑んで、抱きしめて、「あなたの明日は今日よりも素晴らしいものになる」と、魔法をかけてくれたらいいのに。
 鷹羽にはできない。
 笑うしかない。ここに至ってもまだ鷹羽は八代に()がれている。胸の端に熾火(おきび)がある。だからこそできない。だからこそ弘がいたらと思う。
 でも、弘がもしもここにいて、鷹羽にしたように抱きしめても、八代はきっと満足しない。
 八代は、求められることを望んでいるから。
 ひたすらに見返りを求めず惜しむことなく与える弘と。
 求められることで安定を得ようとする八代と。
 駄目なのだ。弘が『神様』のままでは、八代は弘を信じられない。
 鷹羽は胸が詰まるように苦しく思う。
 神様は残酷だ。
 その公平さと愛で、神を愛するものを傷つける。
 ――光を見ているのに。
 鷹羽も八代も、ふたりの目は同じくひとつの光を見ているのに、この隔たりはどうだろう。
 絶望するしかないほどの、この隔たりは。
 何かに反応して、崩れたままの八代の身体が小さく揺れた。少し躊躇(ためら)うような間が開き、億劫(おっくう)そうにも、恐れているようにも見える緩慢な動きで鷹羽を見上げる。
 長めの黒髪、銀縁の薄い眼鏡の奥の黒瞳が、(わず)かに見開かれた。
「……鷹羽」
 八代の唇から(こぼ)れ落ちた自身の名。
 呼ばれて鷹羽は涙に気づいた。が、(ぬぐ)いもせず、隠すこともせず、そのまま言葉を紡ぐ。
「……駄目なんだ、八代。逃げても、見えないふりをしても、在るものは在るんだ。どんなに眼を逸らしても、……駄目なんだ、八代……」
 何も変わらない。悪くなることはあっても、良くはならない。絶対に。
 認めるのが怖い。
 でも。
 二度と来ないと誓った八代の領域に自ら足を踏み入れたのは、制裁を下すためだとか、そんなくだらない幼稚な自己満足を得るためではない。
 鷹羽は、八代を恨んでなどいないのだ。
 憎んでもいない。弘に手を上げたと知ってなお、怒りはあるが呪っていない。
「好きだった」
 声が涙に揺られるのが嫌で、吐き出すように強く言ったそれは、紛れもなくはじめての告白だった。
 真摯(しんし)な、純粋な、ずっと(いだ)き続けてきた、告げられずにいた想いだった。
 瞠目(どうもく)している八代を前に、鷹羽は続ける。
「僕はおまえの中に自分を見た。(ひと)()がりで、卑怯で、惰弱(だじゃく)な――だから僕は、おまえといた。おまえといれば、僕は何もかも放棄することができたから」
 喉が痛い。(まぶた)が熱い。
 鷹羽は八代を殴りつけた右の拳を、きつく、震えるほどにきつく握り締める。
「……こんな……こんな簡単な事実を認めることすらできないほど僕は臆病で、それは八代、おまえも同じで。でも、」
 同じじゃなかった。
 八代にとって鷹羽は傀儡(かいらい)だったかもしれない、でも、鷹羽にとって八代は。
 ひとになんと言われようが構わない。ただの依存だと(そし)られても、幻想だと吐き捨てられてもいい。
 好きだ。
 ほかのどんな言葉で表せばいいだろう。
 これがずっと逃げ続けていた答えか。本当に簡単だ。なんて単純な想いだろう。認めてしまえば、ほかの言葉を思いつかない。
 痛いほどに、それしかない。
 ひととき、暗い部屋は蒼い静寂に沈んだ。
「だった、か」
 ひっそりとした清和井(せがい)のような無音を破ったのは、八代の、どこか諦めたような独白だった。
 伏せていた視線を上げる。鷹羽は息が詰まった。
 ――そんな顔をするな。
 少し寂しげな、(はかな)い、穏やかな微笑。
 八代は気づいていないのだ。
 温室の中、のびやかに育つ植物たちの中で弘と話すとき、八代はいつも儚いほど穏やかに微笑んでいる。
 ――そんな顔、弘君以外に見せるな。
 僕に見せるな。
 ――せっかく過去形にして言ったのに。
「とうとう愛想尽かされたなあ」
 ぼろぼろと涙を落とす鷹羽に、困ったように笑って天を仰ぎ、八代が抜けるように明るい声で言った。
 そして、手を伸ばす。意味がわからず戸惑う鷹羽に、屈託(くったく)なく笑う。
「手、貸して。立ちたいから」
 すぐ(そば)にある、手。
 長い指。
 鷹羽を堕落させるためだけに存在したもの。
 今は。
「……自分で、立てよ。甘えるな」
 ふり払おうとしたのにできなかったのは、八代の瞳が思いがけず真剣だったからだ。
 その儚い微笑に、哀惜(あいせき)或いは寂寞(せきばく)、そんなものが一滴(ひとしずく)落とされたような痛みを感じたからだ。
「甘えさせてよ。最後だから」
 最後。
 そうだ。
 鷹羽は最後にするために、終わらせるために、失うためにここに来た。
 甘えていられる、閉ざされた箱庭を出る日が来たのだ。
 ――今日は、子どもでいられる最後の日だ。
 この手を取ったら。
 最後だから、そうしたらもう、ひとりで立つのだ。
 だって本当は、自分の足で立ち、どこへだって歩いていけるのだから。
 ぎゅ、と手を握る。確かな重みが腕にかかる。力は入れずに、格好だけ引っ張り上げる。八代は黙って立ち上がった。
 本当に、力は、必要なかった。
 手はふつりと自然に離れた。春先に降りた霜が朝陽に溶けるよりも早く。
 鷹羽は涙を残したまま、くすりと笑う。
「なに?」
「いや……」
 不思議そうに覗き込んでくる八代が、なんだかおかしかった。あんなにも恐ろしい存在だったのに。
 そんなふうに思っている自分自身もおかしい。少しの寂しさと、哀しさと、それから、嬉しい、なんていう気持ちも。
「おまえの手って、あったかかったんだな。……今まで、いつも冷たい手だと思ってた」
「ああ……俺も」
「え」
「鷹羽の手って、もっと小さいような気がしてた」
 微苦笑しながら、ついさっき離れたばかりの手を、握ったり開いたりして眺める。
「お互い、本当に何も知らなかったんだなあ」
「同感だ」
 笑って(うなず)く。頬に残った涙の跡を拭い、鷹羽は窓辺へ行ってカーテンを開けた。
 八代が目を(すが)める。
 愉快そうに。
(まぶ)しい」
「うん。ここの部屋、日当たりいいんだよね」
 知らなかったろ?
 少し意地悪く()いてやると、答えは当然のように返ってきた。
「知ってたよ」
 だから、いつも暗くしてたんだ。
 八代は眼鏡を外して、片手で目頭を()むように擦った。本当に眩しかったからかもしれない。
 泣いていたのかもしれない。
 希望ほど重いものはないという。その重みに耐えられるのは、孤独と、孤独に在ることの強さを知っている者だけなのだという。
 光へと向かうのは、彼にとってどれほどの(いばら)の道だろう。その道は、靴を履くことさえ許されていないのだ。
 これから八代は、どれだけの傷を負うのだろう。
 それでも、どうか。
 どうかと願う。
 ――わたしは祈る言葉を持たないけど、でも、願うから。あなたを信じてるから。忘れないでね。世界にひとりきりだなんて思わないでね。
 あの言葉の意味を、はじめて知る。
 願うとは、こういうことか。
 これほどまでに、心を()める。
 鷹羽は知らんふりをして窓を開け放ち、空を見上げた。どこまでも透きとおって青く、盛夏を迎えようとする雲が輝いている。反射する白に眼を射られて、鷹羽も目を細めた。
 新しく(にじ)んだ涙は、あまりにも眩しい空のせいにした。




 20 JUDGEMENT.
 「ロスト・エデン」

 END.