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ツルゲーネフのワンセンテンス 前編






 自由は、それを担おうとする者にとって、実に重い荷物である。勝手のわからない大きな荷物である。それは、決して楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。
                           ――ル・グウィン『こわれた腕環 ゲド戦記2』



 受験生の夏は忙しい――そういうけれど、八代(やしろ)の夏はあまり代わり映えしなかった。成績に余裕があるというよりは、彼の性格によるところが大きい。基本的に落ち着いている。普段の生活でも、(あせ)ったり慌てたりするようなことは少なかった。八代は本来静かな人間なのだ。心が波立つことがあまりない。
 八代の心をかき乱す事柄といえば、かなり限定されてくる。
 筆頭は(ひろむ)だった。
 彼女の微笑み、触れてくれる指先、悪夢を遠ざけてくれる金色のキスは甘くやさしいものだから、八代はとても安らぐ。眠りを歓迎できる。
 その一方で、不安に突き落とされた。
 いつも、いつも。
 さらには、折に触れて孤独に襲われた。
 弘に責任はない。彼女を責めるのはお門違いだ。
 八代が勝手に傷ついているだけだった。不安になり、不安定になって、焦燥(しょうそう)()りつかれて疲弊(ひへい)しているだけだった。
 許容が息苦しいなんて。
 自分は彼女にどうしてほしいのだろう。彼女がどんな言葉を選べば満たされるのだろうか。
 ――満たされてないわけじゃない。
 ひどい充溢(じゅういつ)だ。残酷なほど。満ち足りているのに遣る瀬無い。
 弘の鳶色(とびいろ)双眸(そうぼう)は透明に徹していて、眼差しは(さや)かで。そんな純粋な何もかもに、八代は追い詰められた。責め立てられ、(ほほ)を打たれた。心を千切(ちぎ)られ、砕かれた。
 砕かれた心が足もとに散らばる。星屑よりもささやかに光る彼女の指先に反射して、八代の心の破片はきらきらした。
 両手でかき集めようとしたら、破片は白い砂になった。指の間から(こぼ)れて、風に吹かれてやさしい青い空に吸い込まれ、消えた。
 八代の中はからっぽになった。



 オープンキャンパスに行こうかどうかは迷った。これまでの自分だったら絶対に行かなかっただろうなと思ったから、行ってみることにした。遠方なわけでもない。
 朋幸(ともゆき)に熱心に(すす)められ、八代は三校受験することにした。それがいいことなのかどうかはわからなかったけれど、学校の資料を持って熱弁してくれる養父の姿を見たら、彼をがっかりさせたくないと思ってしまったのだ。
 朋幸は時折電話をかけてきた。休みなどあってないようなひとだろうから、移動中の時間を割いてくれているのだろう。
 養父は、八代と親子になる努力をしてくれている。
 八代も自分なりに努力することにした。八代は父親というものを知らない。でも、サンプルは持っている。弘と(ひろし)を思い出して、親子のかたちをそろそろと辿(たど)っている最中だった。
 養父を父と呼んだことは、まだない。
 素直に父親だと表すことができない。養父、あなた、あのひととしか言い表すことができない。母親に対しても同様だ。八代はどうしても、養母としか表現できなかった。父、母と言うことにすら躊躇(ためら)うのだから、父さん、母さんなどと呼べるはずがない。
 朋幸は、八代に父と呼ばれることを望み、待ってくれているのだろうか。何も言われたことがないから、想像するしかなかった。
 そして、いくら想像してみようとしても、うまくいかなかった。
 大学は『箱』ではなかった。複雑なかたちをしていた。広く、階段がたくさんあり、ひとびとは色とりどりで目に鮮やかだった。
 通うようになったら『箱』と感じるようになるのかもしれなかったが、それは今のところ皮算用に過ぎない。
 夏期講習を選ばなかった八代は、自宅で黙々と勉強した。たまに図書館に行く。身体が()り固まるのがいやだったのだ。ずっと同じ姿勢でいると、時間を忘れてしまう。だから、青空のもと遠慮なく(わめ)いている(せみ)の声の中、どぎつい直射日光を浴びながら、図書館までの距離をバスと徒歩で行き来した。
 帰ってきたら紅茶を()れた。
 めいっぱい入れた氷で冷えた紅茶を飲み、甘いものを食べて、また机に向かう。
 朝昼夜と食事もつくってきちんと食べる。朝は相変わらず五時起床だった。気分が向いたときは、早朝の散歩をする。
 本当に――
 ――静かなものだ。
 やることが明確だから、そういう意味では深く考えることはない。それは今までの思考の放棄とは根本から異なっていた。
 夢中とは違う。熱中とも違う。一生懸命も、違う。
 でも、集中はしている。
 悪い気はしなかった。
 ソファを見る。薄茶色のぬいぐるみがころりと転げていた。弘は彼女の存在を知らない。恥ずかしすぎて隠してきたのだ。
 なんとはなしに手を伸ばして、座らせた。
 彼女はしばらく(こら)えていたが、やがてころんと転がった。
 柘植(つげ)家には行っていない。
 弘を誘ってもいなかった。
 部活も引退している身だから、温室に行かなくても不自然ではなく、彼女とはまったく会わなくなった。夏休みに入ると決定的になり、八代は今、弘がどのように過ごしているのかを知らない。
 現状で弘と会わないのは、逃げている。
 進路に迷っていたときよりも、はるかに逃げている。
 弘が学校にいることが間違いない、要するに平日昼時に柘植家に電話をかけた。受験勉強に集中したいので、と言ったら、電話に出た博は「無理しないようにね。がんばって」とだけ言ってくれた。
 博と(みやび)が、弘からあのことを聴いたのかどうか。内容が内容だから、いくら相手が親で、しかも信頼しているといっても、さすがに包み隠さずそのまま話しているとは思わない。八代と弘の間でだってきちんとした話し合いはできていないのだ。
 して当然なのに、できていない。しなければいけないことなのに、していない。
 八代は弘の視線を受け止められない。
 告白できたのに。
 告白さえしてしまえば、安らげるのではないかと思っていた。
 八代の秘密は大きく分けてふたつ。
 弘には、ふたつとも明らかにしたことになる。隠蔽(いんぺい)の瞳の色を実際に見たことはなくても、知ってくれてはいて、彼女はそれに対して嫌悪感を抱いていない。左目の事情を知っても、八代を(いと)わなかった。
 今回だってそうなのだ。
 彼女は八代の秘密を許容し、真摯(しんし)に受け止め、一瞬で答えを出した。
 わずかも迷わなかった。
 ――わたしと結婚してください。
 ――わたしは子どもが欲しくてあなたに結婚を申し込んだのではありません。
 ノートの上にペンが転がる。ゆっくりと身体を倒して、背後のソファに体重をかけた。
 咳き込んでしまわないように、深い呼吸を繰り返す。
 七月はあっという間に過ぎた。
 八月もあっという間に終わるだろう。
 九月になれば、また学校がはじまる。
 最近、八代はあまり眠れない。
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