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 実母の悪夢は見なくなっていた。養父に与えられたマンションの自宅に追い立てられている感覚もない。ここは八代がいていい場所だ。眠っても呪われないベッドだ。
 でも、眠れない。



 情報量ほぼ皆無の安い紅茶しかないのは先刻承知だったので、八代は茶葉を持ってきた。
「インターハイお疲れ様」
 トレイに載せたアイスティーを出す。鷹羽(たかは)は穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう」
「結果はどうだったの」
「準々決勝敗退。団体は準決勝までいったけど、残念ながら敗退」
「よくがんばりました」
「ありがとう」
 ストローを咥えてひとくち飲んだ鷹羽が、
「……ん?」
 と(のど)の奥を鳴らして止まった。
「味が違う」
「おいしい?」
「おいしい。こんなに違うものなんだね」
 今度はきちんとわかってくれたらしい。
「ねえ、鷹羽」
「なんだ?」
 持ってきたルマンドをパーティー開きに――しようと思ったのだがなかなかうまくいかない。仕方なく、トレイの上にざらざら出した。
 袋の中にプラスチックのケースが入っていた。開けにくかったのはこれのせいだ。
「女の子って謎だよね。鷹羽、わかる?」
 弘の許容が単純に性別から来るものなのであれば、八代は少し安心できる。解決はしなくても、弘が特別でないのならばそれでいい。
「わからない」
「わからないなりの意見を聴かせて。男としてどう感じるの」
 鷹羽はルマンドをざくざく食べて、困ったような顔をした。
「僕はあんまり女の子とはいないし……意識することもないから、意見を求められても困るよ」
「でも男でしょ」
「僕のどこをどう見たら女の子に見えるんだ」
 顔。
 などと言ったら、今後一切絶対に話を聴いてくれなくなる。現時点で鷹羽の顔はもう不機嫌だ。顔と言われるだろうことをわかっている。
 それなりの情報をリークしてくれる伊織(いおり)によれば、鷹羽は弘とふたりで歩いているとき、
 ――彼氏?
 と()かれたことは一度もないが、女の子のふたり連れと勘違いされて声をかけられたことが複数回あるらしい。
 夏が近づいてきて袖が短くなれば腕でわかる。どう頑張って見ても女の子のラインではない。が、寒さが極まってくると当然厚着になるわけで、身体のラインが消えればどうしても顔に目が行くわけで。
 人間の先入観は恐ろしい。見間違いを見間違いと瞬時に気づけば問題ないが、男の子にも見える女の子と思ったら(くつがえ)すのは意外と難しい。とはいえ、手を見ればすぐにわかる。鷹羽は線が細いというだけで、身体つきそのものは疑いようもなく男だ。
「女の子は意識しなくても、柘植サンは四六時中意識してるよね?」
 外見のことは流して、弘に触れた。
「四六時中って……」
 (あき)れたような声で息をつくが、否定はしてこない。図星一歩手前くらいだろうか。
「俺が話したいのは柘植サンのことだけだから安心して。だから柘植サンのこと全部教えて」
「暴論だな」
「柘植サンのこと好きでしょ?」
「ひとの話を聴け。弘君を好きかなんて今さら馬鹿馬鹿しい質問だろう」
 うんざりしたらしい。また呆れた息をつかれた。
「結局意見を聴きたいっていうのは弘君限定なんじゃないか」
「そうでもない。女の子って好きな相手にどんなふうに振る舞うの。一般論で」
「女の子に聴けばいいじゃないか。有馬(ありま)さんとか宇佐美(うさみ)さんとか……名瀬(なせ)さんは八代に答えてくれるかどうかわからないけど」
 綾野が八代に女の子の一般論を教えてくれるかは難しいだろう。独断は百も承知だが、興味があるようにも見えない。
「……なんでも受け入れるって女の子の専売特許なのかな」
「極端だな」
 おかしかったらしい。新しいルマンドを開けようとしていた手に力が入ったようで、鷹羽の手もとからくしゃりと音が立った。折れたというか割れたのだ。
「柘植サンが俺のことなんでも受け入れてくれるから、女の子ってみんなそういうものなのかなと思って」
 そうあってほしいと思っている。
「女の子だからっていう理由じゃないと思うよ。弘君だからだ。受け入れてくれるんならいいじゃないか」
「……それは……そうなんだけど」
「何か問題なのか?」
 大問題だった。
 でも、言えないことだ。いくら鷹羽でも、これは言えない。
 八代は伏し目がちになり、(つぶや)くように言った。
「……少し、息苦しいだけ」
 鷹羽は八代を(なぐさ)めなかったが、問い(ただ)すこともしなかった。
 八月が終わる。
 もう終わってしまう。
 学校は目の前だ。
 弘と顔を合わせずにいることはできる。できると思う。
 でも、逃げ続けられるとは思わない。
 養父と対峙(たいじ)したときのように、彼女とも向かい合わなければならない日が来る。約束がまだ生きている以上、黙ってやり過ごしていいものではないからだ。八代の人生には彼女の人生が触れていて、彼女の人生に八代は影響を与える。
 腕時計を見る。
 秒針が動いていた。
 進路の決定がなされていない頃、八代の時間はどんどん短くなっていく蝋燭(ろうそく)と同じで、タイムリミットが明確だった。何かを選ばなければならないのと同時に、何も選ばなくとも終わりが来る時間だった。
 今は違う。



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