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 成花(せいか)第一高等学校の屋上は、ありがたいことに開放されている。だが、利用客は少ない。弁当を広げる生徒もほとんどいなかった。
 八代がそれを何故知っているのかといったら、惰性(だせい)の喫煙があったからだ。煙がすぐに流されて消えていく。(はかな)紫煙(しえん)を目で追いながら、過去の八代は何も考えていなかった。
 欲しいものもなく、失くしたいものもなく、捨てたいものもなければ、守りたいものもない。
 ただただ逃げて、怯えていた。
 誰もいない。
 天気がいいのはいいが、九月はまだ暑い。誰が好んで太陽の近くに行くだろう。コンクリートも熱されているから、とても座れたものではなかった。
 高いフェンスに囲まれている。所々()びた緑色が、青空を規則正しく菱形(ひしがた)に区切っていた。
 案の定風が強い。コンクリートに熱された風が吹き寄せてくる。熱い石のにおいがする。
 温室には、もう行けない。
 引退してしまった。それ以上に、あの場所は、八代の逃げ場という仕事を完全に放棄してしまっていた。
 光射す庭なのだ。
 花が咲き乱れる(した)わしい場所なのだ。
 明るすぎて、足を踏み入れることができない。
 そ、とフェンスに触れてみた。熱くて勝手に指が引っ込む。
 校庭は白かった。十月になれば、体育祭と文化祭がある。中間試験があって、センター試験の出願がある。十二月になれば期末試験があり、私立大学の出願がある。
 やることはある。
 暇はないはずだ。
 だから。
 だけど。
 ――会わずにいられるわけがない。
 背後で重たい音がした。がちゃりというより、ごぉん、に近い。誰か来たらしかった。ふり向くつもりなどまったくなかったが、その人物は八代の怠惰(たいだ)を許してはくれなかった。
「やっしー先輩」
 こんなアホな呼び方、彼女以外にいない。
「ごきげんよう、不機嫌な王子様?」
 隣に並んだ伊織が、下からぴょこんと(のぞ)き込んでくる。
「誰が王子様って?」
「じゃあお猫様」
「血統書はついてないよ」
「そのわりに毛並みいいんだよね」
 にこりと笑う。花の(かんばせ)が華やいだ。
「ねえ、谷崎(たにざき)潤一郎(じゅんいちろう)(ひょう)を飼いたいって言ってたの、知ってる?」
「……『飼ふなら豹ですよ』」
「そう、それそれ」
 あははっと笑った。
次子(つぎこ)に教えてもらって笑っちゃった。美しくてしなやかで宮廷楽師みたいに気取り屋で悪魔みたいに残忍で好色で美食家で、飼ったらおもしろいに違いないっていうの。もうまるっきりやっしー先輩だよね。やっしー先輩は黒豹って感じ」
「宇佐美サン何しにきたの」
「やっしー先輩に会いにきたの」
 伊織は唐突に笑みを消した。
 怒ってはいない。
 ――心配してくれてるのか。
「ずーっと温室に来ないから()れちゃって、次子に訊いたら屋上かもって。会えてよかったよ」
 短いスカートを押さえている。風が吹くたび、捕まえられていないプリーツが蝶々みたいにひらひらした。毛先が緩く波打つブルネットの長い髪が流れ、時折巻き上がる。
「やっしー先輩ってさ、キス上手そうだよね」
「……何を出し抜けに」
「えっち上手そう」
「それはどうも。光栄だね」
「……」
 反応がない。怪訝(けげん)に思って視線を遣ったら、伊織は長い(まつげ)の猫目をぱちぱちさせていた。
「なに」
「あ、うん……。試してみる? って絶対訊かれると思ったんだけど」
「訊いてほしかったの?」
「まさかぁ。訊いてくるだろうなって思っただけで、訊かれたかったわけじゃないよ」
 伊織はわずかにつま先立ちになると、うん、と言って背伸びをした。
 八代は彼女から視線を()らした。
 白い校庭。
「……もう、冗談でもそんなこと言えないよ。言わない」
「弘君が泣くから?」
「違う。俺が言いたくないだけ」
 (みさお)を立てているなどというつもりはない。けれど、そんな冗談すら口にしたくないと思う原因に彼女が深く関わっているのは事実だ。
 誰かに触れたいと思わない。
 弘でなければ意味がない。
 そう思うと不思議だ。これまで、キスやセックスに価値を見出したことなどなかった。誰としても同じだと思っていたから、誰とでもできたのだ。望んだものは確かにあったけれど、それを手に入れられたことは一度たりともない。
 八代にとって、キスは支配だったし、セックスは征服だった。ただそれだけの、乾いた、引き()れたものだった。
 自分の身体をいい加減に、乱暴に扱ってきた。
 ――ああ。
 そうか。
 だから弘に触れられないのだ。
 触れてはいけないと思っているのだ。
 怯えているのだ。
 彼女に触れるには、自分はあまりにも――……
「弘君とキスした?」
 伊織の声は寂しがっているように聞こえた。
 八代は(うつむ)く。
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