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 視界の(きわ)で、短い黒いプリーツスカートがひらひらと揺れる。
「してないね。してくれるけど」
「そうじゃくて」
 伊織が可憐(かれん)な唇を尖らせる。彼女が何を言いたいのかはわかっていた。
「……今は、まだできない」
 眠る前、ベッドの中で彼女がしてくれる、おやすみのキスで満たされてしまっている。欲はない。自分でも驚く。
 ……それすら今は遠いのだ。
 何故弘は汚れないまま、ずっときれいなままなのだろう。
 やさしく抱いてくれる、ゆったりと息づく甘い肌を思い出して、涙が(こぼ)れそうになる。彼女の身体はひどく純粋で、八代の身体とはまったく違う。
「純愛だねえ」
 大切なものを愛おしむような声で言われて、八代はただ、
「そうかもね」
 とだけ答えた。
 肯定も否定もふさわしくない気がした。
「……ねえ」
「うん?」
「なんで、――なんでっていっても、……あたしが訊くのはやっぱりだめかなとは思うんだけど、でも訊くよ。申し訳ないけど、あたし、やっしー先輩より弘君の方が大事だから」
「宇佐美サンは順番つけるタイプなんだ」
「うん。じゃないと落ち着いてられないの。自分を見失うっていうの? 立ち位置がわかんなくなっちゃうのよ」
 わかる気がした。
 ――俺のいちばんは、
 弘だと思う。
 それは間違いない。
 では、次は? その次は?
 思い浮かばなかった。
「なんで弘君、避けてるの?」
 ――煙草、()いたい。
「受験勉強してるだけ」
「答えになってない。勉強してるだけなのに顔も合わせないわけ? どんなに忙しくたって睡眠は取るでしょ。ごはん食べるでしょ。顔洗って歯磨きするでしょ? そんなの言い訳にならない」
 すっと冷たい息を吸った。
「宇佐美サンには関係ないよ」
 伊織は(ひる)まなかった。
「そりゃそうよ、あたしただの友だちだもん」
「ふたりの問題だから、ほっといて」
「ふたりの問題なら、なんでツラ突き合わせて話しないのよ!」
 伊織の激情が思いきり八代の鼓膜を張った。
「宇佐美サンには関係ない」
 (あふ)れそうな黒いものを(おさ)えつけて、低い声で繰り返した。それでも彼女はやはり怯まない。八代を鋭く(にら)み上げてくる。
「関係ないのは当然だって言ったでしょ。そんなに気に入らないなら殴りなさいよ。キスしたいならすれば? その先だってどうぞ。弘君に告げ口なんてしないから、久我先輩の好きなようにすればいい」
 花の顔に恐怖はない。
 あるのは怒りだけだ。
「前言の撤回なんてしないからね」
「……」
 八代は伊織から目を逸らし、俯いた。
「ごめん」
「あたしに謝っても何も変わらないからね」
 伊織は肩で息をついた。そして、今にも泣きだしそうな顔をする。
「そんな泣きそうな顔してるくせに、なんでひとりで寝てるの?」
 鏡を見るのが怖い。
 左目を見るのが怖いのではない。実母の面影が恐ろしいのでもなかった。
 それらは確かにまだ八代の心を(かげ)らせるものだったけれど、今大切なのはもっと別のことだ。
 鏡に映り込む弘が怖かった。
「次子のところ行きなよ。あたしよりずっと話聴いてくれるから」
 鷹羽ではなく次子の名前を出した伊織は、(さと)い。
 心の内側につくった世界のひびが大きくなる。ぱらぱらと()がれ落ちる。
 そこから覗く外界の空は、次子の空とよく似ている。



 美術部の活動は、土日はどのようになっているのだろう。
 進路を決定したこの時期に、さすがに授業を抜け出そうとは思わない。いくら内容が既に頭に入っているものだとしても、学校においては、出席していること自体が重要なのだ。なんとも不自由なものだと思う。フリースクールという単語が浮かんだが、それにしたって好き放題にできるわけではない。
 どこに行っても同じだ。社会で生きていくのなら、守らなければ(つぶ)れてしまうものがある。
 腕時計の秒針が動く。
 針が進んだぶんだけ、弘と会わなかった時間が増えていく。
 少し暮れていた。
 まだ暑い日が続くものの、もう真夏ではないのだと――時間は確実に進んでいて、けして止まってはくれないのだということが季節の移ろいで明らかになる。
 笑い合う生徒たちが、八代を通り過ぎて校舎から出ていく。笑声(しょうせい)が小さくなっていった。
 出てきたら呼び止めようと思ったのに、目的の人物はいくら待っても出てこない。
 だというのに、教師は出てきた。八代に気づかずすたすた歩いて遠ざかる。丸い背中を見送ってから、美術室の扉に手をかけた。
 次子は煙草を(くわ)えているところだった。木製の丸椅子に座って、イーゼルに立てかけたキャンバスを見つめている。
 部屋が暗い気がして電気を()けた。煙草を咥えたまま、次子が出入り口に顔を向ける。
「ああ、あんたか」
「煙草消さないなんていい度胸だね」
「シガレットチョコだよ。観察眼が足りてない」
「……煙草、やめたの?」
 落ち着かないから座ってくれと言われて、八代は次子に寄っていった。近くの椅子を引きずって、少し離れたところに座る。
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