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「あんたがやめたのに、あたしだけ続けてるっていうのもな……(しゃく)だなと思ったんだよ。それだけだ。食べるか」
「食べる」
 箱を差し出された。一本取って咥える。軽く()むと、舌に乗ったチョコレートはすぐ溶けた。
「あんたはほんと礼を言わないな」
「ありがとう」
「遅い」
 ぽきり、もうひとくち砕く。
「有馬サンって美術室に住んでるの」
 ぼんやり訊いたら、次子は表情を変えないまま呆れた。
「あほか。コマ避ければ誰も来ないから頻度(ひんど)が高いだけだよ。今は昔の話だが、温室と違ってあんたも来ないしな」
「早く帰れって言われない?」
「言われる。知ったことか」
 声が、いやに響く。
 ざわめきがまだ残っているような美術室には、油絵の具のにおいが漂っていた。
「あんた、最近弘と会わないな」
「うん」
「弘が怖いか」
「…………うん」
 返事は喉の奥でくぐもった。怖いのは本当だ。弘にどんどん占拠されていって、それはきっと八代にとってはいい変化のはずなのに、変わっていくのに比例して過去の自分が遠のく。ただでさえ(けが)れていた時間がさらに汚れていく。弘の責任ではない。なんの努力もせず、その場しのぎで怠慢(たいまん)に生きてきた八代の責任だ。
 八代が抱えるふたつの秘密は、彼が(いだ)く闇でもある。どちらも彼女は受け入れてくれたのに、八代はその許容が、
 ……(ゆる)してくれる弘という存在が息苦しい。
 不安で仕方がない。
 弘が遠い。
「なんで俺が怖がってるって知ってるの」
「知ってるわけじゃない。それくらいしか思い浮かばなかっただけだ」
 次子の声は無関心だ。無感動だった。伊織とは大きく違う。彼女は大変な勢いで八代を殴りつけた。
 とても正しいことを口にして。
「そこのセカンドバッグ」
 唐突に次子が言った。
 (つぶや)きに近かった。
「開けて、いちばん古いスケッチブック出してみろ。黒い表紙のいちばん小さいやつ」
 次子のセカンドバッグは大きい。クロッキー帳やスケッチブック、水を乗せると水彩絵の具になる色鉛筆やコンテ、鉛筆――携帯しやすい画材一式が入っているからだ。ジャージやなんかはまた別のバッグに入れて持ってくるらしい。ご苦労なことだと思う。同時に、そんな面倒をしてでも持ち歩きたいものがあることに驚く。
 次子はいつも淡々としていて感情の起伏に乏しく、誰からも距離を取っているように見える。何を好きで何が嫌いなのか、もっとも大切なものはなんなのかを(とら)えるのが恐ろしく困難だ。
 そんな中で、彼女は美術室にいる。紙と画材、水、乾ききっていない油絵の具の独特なにおいの中にいる。
 強制されているわけではない画材を、授業に必ず必要なジャージなんかを差し置いてセカンドの位置に据え置いている。
 たぶん、次子にとって、好きとはそういうことなのだ。
 ひとの持ち物に触れるのに遠慮と抵抗はあったが、八代はおとなしく言われたとおりにバッグを引き寄せた。飾り気のない黒いバッグ。もしかしたら、紫外線対策なのかもしれない。
 目当てのものはすぐに見つかった。
 本当に小さい。表紙だけはさすがに硬く、しっかりしている。
 古いものだった。
「いちばん最後のページ」
 紙の擦れる、(はじ)けるような音がした。マッチを擦ったのだろう。
 ――マッチは持ってるのか。
 視界の(すみ)にちらりと入った彼女の手に煙草はない。携帯もしていないのか、持ってはいるが出さないのかはわからなかった。
 行き場のない一瞬の火だけが小さく揺れている。
 吹いてきた風に、あっさりとかき消えた。存在理由を与えられないまま。
 ページをぱらぱらとめくっていく。最後と言われているのだから裏表紙から開けばいいものを、何故だか表紙からめくっていった。そうするのが礼儀のような気がしたのだ。その代わり、一枚目から最後から二番目のページまでに描かれているものは流した。一応視界には入ってきているが、見る気を持って見てはいない。
 最後のページ。
 卵が描かれていた。
 写生だろう。日付は書かれていない。
 鉛筆でざっとかたちを取ったものだった。素描だと思わなかったのは、鮮やかな空色があったからだ。
 卵の表面にひびを入れて割り、窓を開けていて、内側を見られるようになっている。やわらかな白で雲が流れ、浮かんでいる空は、卵の内側に広がっていた。
「……柘植サン?」
「こんなのほかにやるやついると思うか?」
 次子がかすかに笑う。
「小学校のときのな、美術……図工か。そのときのだよ。卵の底に穴開けて中身出して、それ使って作品つくれっていうやつだった。思い思いの色をつけなさいっていう」
 窓を上手く開けられずに、何回か失敗したらしいよ。そう言ってまた笑う。
「普通は外側塗るだろ。イースター・エッグみたいに。でも少なくとも、あたしたちの学年でそんなことをしたのは弘だけだった」
「こんなのどうやるの」
「簡単だよ。中身出すのに開けた穴から色入れて、穴(ふさ)いで振るんだ。そしたら乾かして、窓開ける。そこから筆入れて雲を描く」
 簡単な種だった。
「方法は簡単だけど、方法までいかない。思いつかないから」
 声が少し寂しげだと感じたのは気のせいだろうか。
 次子は弘と並ぼうとしない。
「弘に言わせると、卵は円や球体を(しの)ぐ究極のかたちなんだそうだ。鉄球と生きた卵を同時に深海に下ろしていくと、鉄球よりも卵の方が深く潜るらしい」
「内側に空っていうのは?」
「好きなんだろ。写生大会のとき、きれいだと思うもの描けって言われて画用紙真っ青に塗った。……きれいなグラデーションだったよ」
 ――きれいな。
 きっと、淡い色合いだったのだろう。やさしい、哀しいくらい澄んだ美空(みそら)だったのだろう。『はつ恋』と題された次子のあの空は、弘が見た空とどれだけ近かったのだろう。どれほど遠かったのだろう。
 弘の部屋に飾ってある、額縁に丁寧に収められている絵のことを(たず)ねる気にはならなかった。次子の作品ではないかもしれないけれど、あんな色は次子にしか出せないだろうことだけが、わずかに色づいた(つぼみ)を見つけたときのような(ひそ)やかさでわかる。
 擦ったマッチの燃えがらを、未だに持っている携帯用の灰皿に落としながら、次子は八代を見た。どうして唐突に彼に弘が描いた卵を見せようと思ったのか、自分でもわからなかった。
 世界のかたちを、彼なりに見極めようとしているのだろう。しんと静まった中で、卵を、卵の中に広がるやわらかな青空を見つめている八代はとても幼く見えた。
 まるごと他人だと思えない。
 弘の存在がわずかでも心にある中で絵を描いている自分の姿は、きっと今の八代のように頼りなく幼く見えているだろうという確信があるから。
 次子は弘に半ば引きずられるかたちで描いた空気の絵を思い出す。
 捨てる気しかなかったのに、弘は「捨てないで」と言ってきた。こんなにきれいな空気、捨てないで。
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