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 欲しいと言ったから、やった。執着などなかったから。たかだか小学生が描いた、四つ切り画用紙に色を流しただけの絵とも呼べない作品だ。捨てるつもりだったけれど、捨てたいわけではなかったし、捨てようという明確な意思もなかった。つまるところ次子にとってはどんな扱いを受けようが構わなかったのだ。
 でも、次子は弘の横顔を写生した。
 なんとなく思い返した際に見てみると、当然技巧などない。そういう意味ではとんでもなく下手だ。それでも、そのときに自分が彼女に抱いた感情や自分にとっての弘の姿は、(つたな)いなりに純粋な陰影として描き落とされている。
 次子のちっぽけで稚拙(ちせつ)な空気を抱きしめて笑う弘はひどく幸福そうだった。
 ――なんて、愚か……
 ――おまえは、きっと。その愚かさのために必ず傷つくだろう。
 (こら)えられなかった。
 はじめて人前で泣いた。
 弘は驚いて、そして言葉よりも早く急いでポケットからハンカチを取り出した。
 どうすれば弘のようにひとの(そば)に寄り添うことができるのだろう。距離を縮めるのではない。(せば)めるのとも違う。弘の添い方は、風に誘われたたんぽぽの綿毛が不意に肩に落ち着くようなものだ。
 ――あたしはおまえをなんて呼んだらいい?
 涙に揺れる自分の声をはじめて聞いた。
 弘は微笑んだ。
 痛いくらいに。
 ――名前で呼んで。
 あのときから。
 あのときから、もう、ずっと。
 たとえこれから百年生きることになっても、次子は弘以上には出逢えない。恐らくは、鷹羽がそうであるように。
「『デミアン』……」
 八代が呟いた。
「ん?」
 上手く聞き取れなかった。馴染(なじ)みのない言葉だったから、耳から逃げてしまったのだ。
 八代がスケッチブックから顔を上げた。
「柘植サンって、いつもどんなジャンルの本読んでるの?」
 子どもみたいな顔をしている。
 きっと自分も子どもみたいな顔をしているのだろう。わかるから胸苦しい。次子は考えるふりをしてキャンバスに視線を向けた。
「なんでも読むぞあいつは。文字どおり片っ端から。これといった目当てがないときなんかだと、本棚の左端から順に全部読んでいく」
「……うん。訊いた俺が馬鹿だったね。鞄にいつも二、三冊文庫本入ってるのは知ってるけど、それが何かなんて意識したことなかったな」
「丁寧にカバーかけてあるからな。わからないな、確かに。洋書は外には持ち出さないし」
「洋書も読むんだ……ああ、読むね」
「本棚すごかったろ」
「すごかった。そういえばあの本棚もいい加減ちゃんぽんだったなあ。でも、そういうこと考えると、冊数は少ない気がする」
 見たことはないが、雅所有の大きな本棚があるらしい。収まりきらない何割かをそちらに並べているのだろうか。
「蔵書癖がないらしい。清武(きよたけ)仲平(ちゅうへい)なんだって雅さんが言ってたな」
 納得した。
 清武の仲平とは、(もり)鴎外(おうがい)の『安井(やすい)婦人(ふじん)』という作品に出てくる人物のことだ。『博渉家(はくしょうか)ではあるが蔵書癖はなく、書物は借りて覧て、書き抜いては返してしまう』とある。
「本は作者に敬意を払うって意味で買うには買うらしいが、物質だから置いておくにも限度があるだろう。本は場所取るからな。全部は置いとけない」
「売るの?」
「売る――んだろうな。……? 売る、のか? 古本の募金みたいなのがあるとか……」
「寄付とは違う?」
「さあ、どうだったかな。まあとにかく一応一定数は手放すんだよ。棚に残ってるのは精鋭だ。贈ってもらった本もある。で、なんだって?」
 八代は何を訊かれたのかわからなかった。次子が新しいチョコレートを出す。
「さっきなんか言ったろ。絵、見て」
「ああ――」
 ページが乱れてしまわないようきちんと押さえて、八代は次子に卵の絵を見せた。
「『デミアン』」
寡聞(かぶん)にして」
 手を出されたので、ページを閉じてスケッチブックを返した。
「ヘッセの著作だよ」
「どんな。一言で」
「どんな。しかも一言」
 新潮文庫の裏表紙にあるあらすじを脳内再生する。
「自分探し――なのかなあ。(あこが)れとか葛藤(かっとう)とか。半生かな。デミアンは主人公のシンクレールの友だちの名前」
「デミアンが主人公なんじゃないのか」
「もうひとりの主人公ではある。この作品がね、シンクレールの一人称」
 へえ、と感心したような相槌(あいづち)を打って、次子はぽきぽきとチョコレートを噛み砕いた。
「この卵とどういう関係がある。出てくるのか、こんなけったいな卵が?」
 けったいな卵という表現がおかしくて、八代はかすかに笑った。
 笑ったのは、久しぶりだった。
「出てくるっていうと語弊(ごへい)があるね。半身を暗い地球に入れた『するどい精悍(せいかん)なハイタカの頭をした猛鳥』が、大きな卵から出ようとするみたいに苦心して()け出そうとしてる、あとは――『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う』っていう章がある」
「悪い、想像力がないから、当然のことを言ってるように聞こえる」
 次子は至って真面目な顔だ。怪訝そうな表情でもあったから、八代は小さく声を立てて笑った。
「絵を描く人間に想像力がないわけがない。――シンクレールが『地球から出てきた一羽の鳥』を絵に描いてデミアンに送るんだよ。そしたら、彼から『鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという』って紙が届いた」
「……あんた全部覚えてるのか?」
 ものすごく不審そうに言われた。
「全部じゃない。印象に残ったところだけ。一回読むと大体覚えない?」
「覚えないな。アプラクサスって何語だ」
「ギリシャ語。Abraxasって書かれてるけど、新潮文庫の高橋(たかはし)健二(けんじ)訳ではアプラクサスになってる」
「どんなだ?」
 外はもう暗かった。
 送らないと、有馬サンって家どの辺だろ、と思いながら、八代は口を開いた。
「外見は結構独特というか(にぎ)やかというか……長いから省かせて。ヘレニズム時代にアレクサンドリア近辺で一部の人間に信仰されてた最高神だよ。地球だとか人類をつくった、いわゆる創造神でね。まあこの世の支配者」
「へえ」
「――なんだけど、天は階層実に三百六十五ある。アプラクサスはその最下層にいる神なんだよ。三百六十五層、上に行くほど完全だから、実際のところ彼は不完全といっていい。上がある以上、本当の意味での最高神じゃないしね。しかも姿があるから偶像崇拝なわけで」
「……キリスト教と、イスラム教……」
「と、ユダヤ教から見ればとんでもない」
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