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 次子はスケッチブックを開いて、卵を見つめた。
 ――鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。
「あんた、鳥だったのか。それともなんだ、その、アプラクサスか?」
「……うん?」
 次子がスケッチブックをぱたりと閉じる。指で示された八代は、セカンドバッグを彼女に渡した。
「ああ、ありがとう。――だって、そうだろう。この卵見て、卵から出ようとしてるよくわからん鳥だの、アプラクサスだの思ったんだろ」
「うん」
「卵は世界なんだろ」
「そう」
「誰だって自分の世界は持ってるだろう。だから、……この絵を見て外に出ようとしてる鳥やら神様やら連想したなら、それはあんたが今まさにそういう状態だからなんじゃないのか」
「……そう、なの?」
 スケッチブックをバッグにしまいながら、次子はわずかに眉を(ひそ)めた。
「あたしに訊くなよ。あんたのことなんざ知らん。わからん」
「……」
 鳥。
 アプラクサス。
 ――神様。
 俺が?
 鳥なのだとしたら、八代はアプラクサスに向かって飛んでいる。八代が向かう先にいる神様といったら弘しかいない。
 ――柘植サンは神様じゃない。支配なんかしない。
 でも、
 ――俺を占拠する。
 ならば、弘はアプラクサスなのか。
 白い雲が浮かぶ青い空が広がるのは卵の中で、卵は世界で。それは八代がつくり上げた世界のように暗くない。八代の世界には青空などないのだ。
 ひびが入り、点々と剥がれ落ちている八代の世界から見える外には、やさしく青い空がある。
 自分は卵の外にいるのだろうか。
 内側だと思っていた外側から、青い空の広がる卵の中に向かっているのだろうか。
 けれど、八代は八代の世界を支配している。だから縛られているのだ。出られずにいる。外の世界があるのは知っているが、自分をしっかりと支配して守っていないと、自分の世界が崩れてしまうから。
 それはとてもこわいことだから。
 絶対的に支配していなければならない。
 ――支配しているなら、
「俺って支配者に見える?」
 次子は、
 ――次子は、まるで親しい者の亡骸(なきがら)を見るような顔をした。
「見える」
 ――塩の柱になって、砕けてしまいそうだ。
 顔を覆う。
 嘆息(たんそく)は深く、長かった。
「有馬サン、時々本気でキスしたくなる」
「何が本気だ」
 吐き捨てられた。
「やめとけ。あたしにキスなんて、鏡に映った自分にするのと同じだ」
 指を伸ばす。次子の(あご)に触れた。
 彼女は逃げなかった。
 細い顎だ。薄い気がする。『女の子』はみんなこうなのだろうか。
 すぐに壊れてしまいそうで、すぐに壊してしまいたくなるようなかたちをしているのか。
「もう一度言うぞ。……やめとけ」
 宵闇(よいやみ)が降りる。
 白い電光が美術室を浮かび上がらせている。
 音がない。
 ここには誰もいない。
 ――八代と、鏡に映った八代以外には。
「二度と弘に触れられなくなるぞ」
 指を離した。
 触ってごめんと言ったら、ローソンの肉まんで手を打つ、と返された。もちろん(うなず)く。
「……触れたら楽なのに、ねえ……」
 がたりと椅子に戻る。
「なんていうか、」
 八代は疲れた溜息をついた。
 弘に触れられないから。
 もしも誰かがいたら、触れるだろうか。慰みに?
 次子にすら触れられなかったのに。
 ――あたしにキスなんて、鏡に映った自分にするのと同じだ。
 次子は(はな)からノーカウントなのだ。ものの数には入らない。鏡にくちづけたとして、一体誰がその行為を咎めるだろう。
「遊び、っていうのも飽きたっていうか……我に返ると面倒くさいことでしかないなあと思っちゃったんだよね」
 いつからか離れた。
 いつだったかは覚えていない。
「女の子は気遣ってあげなきゃいけないから最初から面倒だし。男はわかりやすいけど、抱き心地なら断然女性の方がいいわけで」
「あんた最低だな」
「うん。現役女の子であるところの有馬サンにこんなこと言うのは気が引けるけど、女性って年齢問わず少なからず面倒だよね。割り切った顔して寄ってきといて、突然怒りだしたり泣きだしたり……男がそういうこと全然しないってわけじゃないんだけど、じゃあ付き合うかって言われると付き合いたくはない」
「各方面に対してろくでなしだな。背後から刺されるんじゃないか」
 笑みが()れた。
 自嘲(じちょう)に染まっていた。
 長年親しんできた笑い方だった。
「どうかなあ。愛し愛されてるいい子が『誰でもよかった』って理由で殴り殺されるのが世の中だから、案外俺みたいな公害ほどしぶとく生きるものなんだよ。……皮肉なことにね」
「弘に触れないのか」
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