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 怖いのかと問うて、返答が「怖い」だったから、予想はしていたのだ。確信も持っていた。でも、言っていいことではない。だから口にはしないようにしていたのに、零れ落ちてしまった。完全に無意識だった。
 失言だと謝る間もなく、八代が声はなく小さく頷く。
 哀しくなった。
 八代が言おうとしている『触れない』が、物理的なことではないとはっきりわかる。
 こころの問題だ。
 八代はきっと、自分をとても汚いと思っている。汚らわしいと。
 そして、弘をとてもきれいだと思っている。
 恐らくそれは以前から変わっていないことだろう。八代にだって、その点の自覚はあるに違いなかった。変わったのは、汚い自分はきれいな弘に触れてはいけないと思うようになった心だ。
「柘植サン、小さいんだよ。細くて……」
 (ささや)きのようだ。独り言のようでもある。ぽつりぽつりと落ちる雨垂れのような呟き。
 次子は相槌も打てない。身体の中で時間が止まる。(まばた)きすら叶わない。
 自身のてのひらを見つめる八代の瞳が濡れたように黒くて、まるで産まれたての星みたいで胸が苦しい。
「……やわらかいんだ。……あんな身体……」
 左の首筋に触れる指先の温度や、左(まぶた)にキスをしてくれる唇のやわらかさが鮮明によみがえる。八代の身体は、もう彼女を覚えてしまっている。
 弘の身体。
 小さくて、細くて、やわらかい身体。
 あたたかい身体だ。
 安らいで眠れるほどの甘い肌。
 シェアバターみたいな、あたたかみのある白い肌。指先はほんのりと色づいていて、いつもぬくもっている。
 思い出して息をつく。
 汚いてのひらをゆっくりと、緩く握って瞼を伏せる。
 触れたら壊れないだろうか。
 もし触れてしまったらどうしよう。
 愛情を持って誰かに触れたことがない。そのことに今さら思い至って居た堪れなかった。恥ずかしく、それ以上に寂しさと哀しみで胸が焼けた。
 弘とふたりで眠るとき、八代は弘に触れたことがない。
 弘が触れてくれている。
 愛情を持って。
 信頼と約束を持って、八代を抱いてくれている。
 だから駄目なのだ。たとえ指先だけのことでも、彼女に触れるには、自分の手は(ただ)れ黒ずんでとても(みにく)い。
 あの梅雨の日は幻だ。
「……俺が……」
 さわったらだめだ。
 弘はきれいで、自分はきたない。
 くちもとを覆って深い息をついた八代を見て、次子はすべての吐息を飲み込んだ。
「俺が触ったら、柘植サンなんかきっと即死する」
「どんな猛毒なんだよあんたは」
 泣きそうになって、次子は努めて素っ気ない口ぶりで返した。
 八代が近すぎた。
「柘植サンにとっては毒だよ。薬になれるはずがない」
「精製すればいいだろ。薬は毒を精製するんだから」
「薬だって用法容量間違えれば毒だ」
「つまり、あんたにとって弘は毒なんだな」
「薬、時々毒、ところによって猛毒」
 ――あたしにとっても、時々毒だ。
 弘の瞳は純粋すぎて、次子は時折つらくなる。
 次子は恵まれている。
 仲の良い両親と慕ってくれるふたりの妹がいて、かわいがっている猫がいて、友人はみな心やさしく、学ぶことを許されており、欲さえ掻かなければ不自由なく生活していける環境が整っている。
 どうしてなのだろう。
 そんな世界に生きているのに、次子は弘にしか涙を見せられない。ほかの人間を信じていないわけではないのに、それでも涙を自分に許せるのは彼女の前だけだ。
「苦労が絶えないな、あんたも」
「同情すらしてないでしょ」
 ――するわけない。
「してないな。弘の(そば)にいるなら誰もが通る道だよ。仕方ない」
 通る道。
 終着があるのだろうか。
 それはどれほど遠いのか。



 身体の奥が(うつ)ろだ。こころの奥底も。
 自分の髪が、指先が、今この瞬間も過去の記憶もまるで他人事(ひとごと)のように思える。自分の目から他人を見るように冷静に、冷淡に、時には冷酷に『八代』が見える。が、その自分の目さえ他人のものめいて感じられる。
 八代は、建物の陰でぼんやりと煙を揺らしていたとき声をかけてきた女たちに、いつも同じ言葉で応じていた。
 ――ああ、……別にいいよ。
 別にいいよ。
 相手のことを少しも意識していない言葉だ。どうでもいい対応の極みとも言える。
 確かにどうでもよかったのだ。
 顔はもちろん、自身の身体とは完全に異質な輪郭(りんかく)も肌の熱さも、我を忘れた声も、記憶にまったく残っていない。名前など聞いたのかどうかさえ疑問だ。たぶん聞いていない。どうでもいいのだ。身体を通り過ぎていくだけのただの影。
 それでも、満たされるだろうかと期待したのだろう。願いですらあった。
 期待など失ったはずなのに、期待の仕方など忘れたはずなのに、断絶はできていなかった。だからこそ、単純な性欲だと思うようにしていたし、同時に絶対に忘れてはならない心がけだった。断ち切ることのできていない幼い期待を認めた瞬間に、自分のすべてが砕け散ってしまいそうな気がしていたのだ。
 怖かった。
 ぬくもりに(すが)っていたのも事実なのに、自分の身体を適当に扱っていた八代は、それからすら目を逸らした。
 その一方で、あたたかくやわらかな身体に触れたら何かが得られるのではないかと。『何か』がなんなのか、どのようなものなのか少しもわかっていなかったのに、それでも何かを得たいと、いつも心の底で望んでいた。
 冷たいベッドでも、やわらかなぬくもりの深部に触れられれば、あたたかくなる気がしていた。
 そしてそれらは、ことごとく裏切られた。
 彼女たちに問題があったわけではない。何にも触れさせようとしなかった八代自身に問題があったのだと、今だからわかる。彼女たちの目に、自分はどんなふうに見えていたのだろう。行き場を見失って立ち尽くしている迷子のように見えていたのだとしたら、八代はもう立てない。
 頭の上からざあざあと、温水というには冷たく、冷水というには温かい水が局地的に降ってきている。ひとひとりが立てるだけの直方体、その一面は撥水(はっすい)加工のカーテンだ。
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