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 ――今、何時……。
 腕時計を見ようとした。
 見えない。
 次々に落ちる水滴に打たれて、針は(ゆが)んでいる。
「服を着てシャワーを浴びるのはかなり特殊な状況なんじゃなかったのか」
 カーテンは開いていた。閉めた記憶がないと思ったら、そもそも閉めていないのだった。
「お待たせ、八代。今日部活なかったことに感謝した方がいい」
 土日は必ずしも部活があるとは限らない。(りん)が言っていた働き方改革の一端がここにも出ているのだろうか。八代はまったく明るくないし、興味もないので知らなかった。
 電話をする、という発想は抜け落ちていた。
 何故だか学校にやって来たのだ。道場から声がしないから(いぶか)しく思って、そこでやっと「もしかしたら」に至り、電話をした。
 鷹羽は、「おまえが来い」と言ってもよかったはずだ。用事があるのは八代なのだから、道理は鷹羽にある。
 なのに、彼は学校まで迎えにきてくれた。
「……鷹羽」
 呼んだわけではない。ただの呟きだった。シャワーのコックを(ひね)った鷹羽の手を(つか)むようにして握る。
 いつからシャワーを使っていたのか、八代の全身はずぶ濡れだった。制服のズボンの黒が重く、シャツは身体にはりついている。髪もしとどに濡れて、先から(しずく)が断続的に落ちていた。
 五分や十分の濡れ方ではない。鷹羽の手に触れた八代の手は、ひどく冷たくなっていた。
 鷹羽は目を伏せると、八代の手の中から自身のそれを抜き取り、そのまま(かが)んで落ちている眼鏡を拾った。
「八代。風邪ひくよ。弘君が心配する」
 緩く差し出したタオルに見向きもせず、俯いたまま八代はくちもとを片手で覆った。
「……鷹羽……っ」
 吐息が震えていた。
 タオルを差し出したまま、鷹羽は何も(こた)えられず黙ってしまう。単純な呼応すらできない。
 八代の震えが伝わってくる。胸が塞がれたように苦しく、狂おしいまでに熱いものが込み上げてくる。
 彼はきっと、鷹羽が弘に対して日常的に抱いている切実さを痛感している。
 もちろん完全に同じものではないだろう。八代と鷹羽ははじめから別の人間で、手を離したあの瞬間から完全に分かたれている。カテゴリは同じでも、ベクトルの方向はどうしても同じにはならない。向き合うことすらないかもしれない。
 でも、同じ想いを抱いているのだ。
 いくら走っても追いつかず、どんなに手を伸ばしても届かず、絶望の二文字が脳裏に浮かびそうになるのに希望が消えない。希望の輝きよりも絶望の鮮やかさが明らかならいいのに、どちらも等しくそこにあるから諦めきれない。
 引きずり倒してでも、壊れそうなくらい彼女をきつく抱きしめたいのに。
 それをできないもどかしさ。持て余す熱と、伝えられない息苦しさと、刻まれるような遠さと。
 弘はいつも遠い。
 そんな想いが不意に浮かび上がってくるとき、鷹羽も震える。涙が零れそうになる。聡く手に触れてくれる彼女のやわらかさが痛くて、自分の空虚を思い知る。
 八代の空虚はどんなものだろうと鷹羽は思う。
 きっと底知れない闇だ。
 八代は驚くほど何も持っていない。八代に温度がなかったときを知っていて、はらはらと零れるような温度を持った今の彼を見ているから、違いがわかる。鷹羽は想像することしかできないけれど、八代は、――彼の一部は確かに虚ろなのだ。
 今、彼に、どんな言葉が必要なのだろう。触れればいいのか。手を握り返せば八代は安心するのだろうか。
 足りないだろう。
 その程度のものでは、八代の孤独は安らぎを得られない。
 弘と八代の孤独は異なる。
 弘が誰に対してもやさしくあれるのは孤独だからだ。いつもひとりきりだから、彼女の前に特別はない。本人が特別と思っていても、行っていることはちっとも変わらないのだ。静かで、穏やかで、どんなものも受け入れる代わりにどんなものもすり抜けていく。
 過ぎ去っていったものを、弘は想い出として大切に扱うだろう。
 けれど、それだけだ。
 それだけだから、彼女のもとにとどまろうと思ったら、努力しなければ一緒にいられない。一緒にいることを選んでも苦しいのに、自分から手放してしまうにはあまりにも懐かしい。
 八代の孤独も平等だけれど、彼は忘却をもってすべてを受け入れている。受け入れると同時に拒絶もしている。
 誰も彼の深部には触れられない。
 八代にとっては死でさえ通り過ぎていく透明な陰影だろう。羽根ほどの重さもないに違いない。どうせいつかは巡り来るものだ。それが今なのだと思って文句のひとつもないだろう。死は現象として万人に平等なのだ。公平に重きを置かない八代の孤独は、どんなかたちの死も時間にして刹那のこと程度の認識でしかなく、それ以上でも以下でもない。
 この(へだ)たりはなくなるだろうか。
 ――馬鹿馬鹿しい疑問だ。ほんとうに。哀しいほど。
 なくなるわけがない。
「弘君のところ行く?」
 八代が弘を避けていることを知っている。理由は知らない。でも尋ねた。
「行けるわけない」
「……そうだね」
 ごめん、は言わない。言ったら傷つけるとわかりきっている。
「着替えは?」
「ない」
「じゃあ、仕方ないからそのまま。とりあえず顔と、あと髪ぐらい()いて」
「なんでタオル持ってるの」
「いつも持ってる。おまえだって持ってるだろう」
「……」
「凛(にい)に見られたくないなら頼むから。掃除と洗濯とアイロンがけ、一ヶ月全部僕が引き受ければいいだけだよ。その程度のこと気にしなくていい」
 ほら、と今度はやや強引にタオルを押しつける。八代はすぐには反応しなかったが、やがて受け取った。
 かすかな「ありがとう」という声が鷹羽の耳に届いた。



「ラブホテルに泊まる、って返信が来た。顔文字つきで。なんだろこの顔文字……小文字のb? あ、サムズアップかな? ラブホテルってひとりでも泊まれるものなんだね」
「ひとりって書いてあったの?」
 凛の背が高いのがありがたかった。鷹羽のサイズでは八代に間に合わない。
 ひとの服はやだとかいう我儘(わがまま)を言い出した八代は、もちろん鷹羽に一喝(いっかつ)された。仕方なく着替えて風呂を出たら、待ち構えていた彼に再び脱衣所に押し戻され、何事かと思う間もなくドライヤーで髪を乾かされた。
「いや、それはなかったけど」
 髪がふわふわあたたかい。
「誰かと一緒かもよ」
「ああ、そうかな? そういうの全然話さないから。そもそもこれもどこまで本当なのか……ラブホテルなんてどこにあるんだ?」
 鷹羽はスマートフォンをテーブルに置くと、キッチンに向かった。八代はその姿をなんとなく目で追う。
「なに飲む?」
 冷蔵庫を開けた鷹羽に質問された。
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