back  |  next   
「いらない」
 即答する。
 鷹羽が苦笑した。どうしようもないなあこの我儘は、と顔に書いてある。
「それは選択肢にない。おいしい紅茶がいいなら自分で淹れてもらうしかないけど、とりあえず紅茶でいいなら僕にも淹れられるよ」
「おいしくないのに意味ある?」
「おいしくないとは言ってない。ただ、僕の舌はそんなに()えてないし、味覚も大雑把ってこと。知ってるだろう」
 八代は少し考えた。
「自分で淹れる」
 キッチンに行ったら、鷹羽は何故かパンを積み上げてある(かご)の中に手を入れた。パンの山の中から缶が出てくる。
「茶葉買ったよ」
「え、どこの。なに?」
「僕にはその質問自体がよくわからないんだけど、アールグレイ。言ってたやつ。あともうひとつは思い出せなかった」
「アッサム」
「……? そんなのあったかな? それってスーパーに普通に売ってるものなのか? 僕が見逃しただけかな」
 売っていないのだろうか。八代はスーパーの紅茶の棚など見たことがない。
 IHコンロの上の薬缶(やかん)が熱くなってくる。ティーカップはやはりないらしく、選びようがないものだからマグカップにするしかなかった。
「ねえ、鷹羽」
「なに?」
「セックスしよって言ったら」
「断る」
 ぴーっ、と薬缶が鳴いた。
「死にたいのかおまえは。浮気なんて、そんなことしたら帰ったあとで後悔して頸動脈切ることになるよ」
「……やだ」
「だろう。僕もいやだ」
「俺が死ぬのが?」
「おまえとするのがいやなんだ」
 睨まれた。
「次はどうするんだ? 僕に任せたらそのままお湯入れるだけで終わるよ」
「だめ」
 なんだか――
 ――部屋があたたかい。
 身体が少し軽かった。風呂に入ったから、気分が変わったのだろうか。
 上向きになった、まではいかない。とてもそこまではいかない。でも、呼吸はしやすい。
「ああ」
「なに? 僕、何か間違えた?」
「違うよ、そうじゃなくて」
 落ち込んでから、はじめて誰かとテーブルをともにするのだ。
 親しい誰かとテーブルを囲むのは、それだけで活力になる。実のところ、現時点では活力といえるほどの元気は出てこないから、今の八代をそこまで回復させてはくれないけれど、安心はできる。
 弘しかいないという恐怖から逃れられる。
 ――逃げることしか考えてない。
 だからといって、どう向き合えばいいのだろう。
 ――『ツラ突き合わせて』話せばいいのか。
 答えなら出ている。それをする勇気が出ないだけだ。
「生クリームある?」
「ない」
「買ってくればよかった……」
 と言いながら、八代はふたり分の卵焼きをつくった。
 テーブルにマグカップの紅茶を置く。ベルガモットの香りがやさしく漂う。
「あ、すごい。弘君の味がする」
 卵焼きをひとくち食べた鷹羽がすぐに言った。大雑把な味覚でも、弘の卵焼きの味はしっかり判別できるらしい。
「でしょ。直伝(じきでん)だからね」
「おいしい」
「もっと褒めてくれていいよ」
 卵焼きとクロワッサン、鷹羽がつくったサラダを夕食にする。
 サラダの胡瓜(きゅうり)は厚みがばらばらだった。
「ねえ、鷹羽」
「しないよ」
「わかってるよ。今のところまだ死にたくない。そうじゃなくて――」
 ――あのことは、言えない。
「俺の人生にものすごく影響を与えてる巨大な秘密っていうのがあるんだけど」
「うん」
「それについて柘植サンに話した。言わなくていいことじゃないから」
「で?」
「柘植サン、一瞬で赦してくれた」
 鷹羽のくちもとで分厚い胡瓜がぱきりと割れる。
 数拍の思案顔のあと、彼は不可解そうな顔をした。
「何か悪いことしたのか?」
 思ってもみないことを訊かれた。
「え?」
 尋ね返してしまう。八代も不可解そうな顔になる。鷹羽はやはりわかっていない表情のままだ。
「許してくれたって言ったから、何かしたのかと。――ん? 秘密だよね? 秘密を許すっていうかな。僕が知らないだけ? 慣用句?」
「……言わない?」
「僕は――」
 また思案顔。色々思い返してくれている。
 ぱっと視線が戻ってきた。結果が出たらしい。
「言わないかな。秘密が罪悪なら言うかもしれないけど、それにしたって秘密を許すとは言わない。僕はね。秘密にしてた悪いことを許してもらえたって言うよ」
 back  |  next



 index


>