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 ――悪いこと。
「……罪悪に、近い」
 左の首筋にある傷痕(きずあと)も、左目の色も。
「そうなのか」
「俺は罪悪だと思ってる」
 ――これは罰だ。
 こんな身体に生まれついた自分が悪い。
「俺が悪い」
 裏切りの象徴だから。
「でも、弘君は許してくれたんだろう」
「それが苦しい」
「……夏休みに言ってたのはそのことか」
 クレソンをもしもし食べる。肯定するのもつらくて、返事ができなかった。
「八代」
「なに」
 鷹羽が(はし)を置く。
「夏休みに言っただろう。女の子だからなんでも受け入れてくれるんじゃなくて、弘君だから受け入れてくれるんだって」
「うん」
「だからって、弘君が傷つかないわけじゃない」
 八代の指先でクロワッサンが乾いた音を立てた。さくりと少し沈む。
 鷹羽がマグカップに口をつけた。
「柘植サン、傷ついてるの」
 マグカップを離した鷹羽の瞳に、まっすぐ見据えられた。
 視線の強さに怯む。
「傷ついてる。みんなに嘘をついた」
「……嘘?」
「おまえと会ってはないけど、電話してるって。笑って言ったよ」
「柘植サンが?」
 ――嘘ついたの?
 それも、笑顔で。
「みんなすぐに気づいたよ。――八代。僕ははじめて弘君に嘘をつかれた。僕だけじゃない、宇佐美さんも名瀬さんも、……小学校のときから一緒にいる有馬さんも、嘘をつかれたのははじめてだった。無理してるときに、大丈夫だよってはぐらかされたことは何回かあったけど、嘘ははじめてだ」
「俺は、……」
「弘君は人間なんだ。おまえがそうなのと同じで、過度の期待や依存は重いよ。好きなひとに拒絶されたら哀しいし、傷つく。傷がついたら痛いんだ。あんまりにも痛かったら泣く」
「……泣いたの」
「さっき言っただろう」
 ことん、とマグカップがテーブルに戻る。
「弘君は、笑ったんだ」
 鷹羽の声は、苦々しかった。



「凛兄が、部屋使ってくれていいって」
「いい。どうせ眠れない」
 あんな話を聞いて、眠れるわけがない。
「横になってるだけでも違うだろう」
「そっちの方がストレスになる」
 八代は(かたく)なに目を逸らした。息が苦しい。呼吸が乱れる。
 弘が嘘をついたというのにも驚いたが、何より笑顔で言い放ったというところに驚いた。
 ――驚いたんじゃない。
 傷ついたのだ。
 八代はまた、新しい傷をつくった。
 弘のせいではなく、自分自身の脆弱(ぜいじゃく)のために。
「わかった。冷蔵庫の中のもの、なんでも好きに飲んだり食べたりしてくれていいから。ここも電気点けっぱなしでいてくれていいし。目覚ましは? 一応あった方がいい?」
 鷹羽の様子はいつもの穏やかで物静かな彼に戻っていた。垣間(かいま)()せた苦々しさは微塵(みじん)も感じられない。
「いらない。それより何か、教科問わないから問題集貸して。難しいやつ」
「おまえの頭で難しいと感じるような問題集を、僕が持ってると思うか?」
「じゃあなんでもいい。基礎中の基礎でいいから」
「二年次までのだよ?」
「それでいい。単なる復習だから、問題ない」
「待ってて。持ってくる」
 息ができない。
 咳き込みそうになる。
 喉が鳴った。痛い。奥歯を食い縛る。
 弘が今頃泣いているかもしれないと思ったら、ひとつの咳もするわけにはいかない気がした。
 八代は彼女を傷つけたのだ。



 貸してもらったノートに問題を解いていく。簡単すぎて思考は隙間だらけだった。頭の中が問題や問題を解くための知識で埋まらないから、どうしても弘のことを考えてしまう。
 彼女のことを考える片手間に、英語の長文を読む。おもしろくもない内容だ。味気ない。
 腕時計を見る。
 秒針が動いている。
 止まる気配はない。
 泣きたいという気持ちはなかった。
 でも、叫びだしそうではある。
 そして、一度叫んだら、もう止まらない。
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