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 手からペンが転がり落ちる。ノートと問題集を閉じた。(わき)に除けることもせず、そのままテーブルに突っ伏す。
 乾いた紙のにおいがする。
 笑顔で嘘をついたという弘の、そのときの笑顔を想像した。
 きれいだった。
 どうしよう、どうしたらいいのだろう、もしも彼女が本当にきれいな微笑でひとを偽ったのだとしたら。
 そんなことをしたら、
 ――そんなことをしたら、彼女はきっと壊れてしまう。
 いつもの穏やかな声音で嘘をふり()いたのだとしたら、彼女の唇は切れて血が止まらなくなってしまう。
 そうして、笑いながらぼろぼろ涙を零すのだ。
 ――俺はどうしたらいい?
 泣かないでほしい。
 笑っていてほしい。
 傷つかないでほしい。
 彼女は何か、やわらかいもの、やさしいもの、あたたかいものに包まれて守られていてほしい。
「――あ、」
 涙が一粒落ちた。
 弘をやわらかくあたたかいもので包み、やさしくして、たとえそれが現実的にどんなに不可能なことであっても、精一杯で守るのは八代がやることだ。『何か』などという漠然としたものに委託するものではない。
 弘は、八代を守ることを、ただの一度も他人任せにしたことがなかった。
 八代の手は汚い。裸足は過去の影にひどく(おか)されていて、未だに靴を履くこともままならないでいる。(いばら)(とげ)で傷だらけになっているのに、今なお素足をさらして誰もいない暗い道を歩いている。つま先が冷たいのは、身体を乱してきた(あかし)だ。
 自分は汚れていると思う。
 でも、本当にそれだけだろうか。彼女がいつもキスをしてくれていた額や左瞼は、今でもまだ罪に(まみ)れているだけだろうか。
 すべて(そそ)げたとは思わない。
 けれど、八代のてのひらの中には何かが戻ってきた。あたたかく、握ればほどけてしまいそうなやわらかいものだ。
 そのあたたかさ、やわらかさは、弘に触れても彼女を壊さずにいられる清らかなものだろうか。
 ぽたぽたと涙が落ちる。
 八代が泣くとき、弘はいつも抱きしめて、キスをくれる。今きっと彼女は泣いているのに、八代は抱きしめるどころか逃げていた。
 夜が()ける。
 東の空が白んで朝がやってくる。
 八代は思いっきり甘いミルクティーを淹れた。
 扉が開いた音がした。洗面所から水の流れる音が聞こえる。しばらくして、鷹羽が起きてきた。まだ早朝なのに、(なま)欠伸(あくび)の端っこすらない。しゃきっとしていた。彼は朝に強い。
「おはよう鷹羽。紅茶淹れた」
 卵焼きもつくった。ついでにサンドイッチもつくった。
 調(ととの)っているテーブルを見て、鷹羽が目を丸くする。次に八代の顔を見て彼は――
 ――ぽかんとした。
「……ありがとう。おはよう八代」
「なんでそんなびっくりするの」
 線の細い中性的な面差(おもざ)しの、やさしい瞳にじっと見つめられる。
「いや……きっぱりした顔してるから」
「きっぱり? すっきりじゃなくて?」
 マグカップに紅茶を注ぎながら訊く。鷹羽は(ほが)らかに笑った。
「きっぱりだよ。すっきりしたからそう思うのか?」
「……」
 マグカップをテーブルに置く。ことりと、硬いのにやわらかい音がする。
 あたたかい生活の音だ。
「俺の手ってあったかいんだよね?」
 ――おまえの手って、あったかかったんだな。……今まで、いつも冷たい手だと思ってた。
「あったかいよ」
「やさしくできると思う?」
 紅茶の湯気を吹きながら、鷹羽は小さく笑った。
「やさしくしたいと思ってるならできる。やさしくあるっていうのは努力なんだ。心がけだよ。常にそうあれるように、時間をかけて少しずつ身につけていく習慣だ。感情や感性ではあるけど、本能じゃない」
「柘植サンでも本能じゃないの」
「違う。限りなく最高に近い環境で育ってきただけだ」
 緩く手を握ってみた。ゆるく。
 力を入れたら、ほどけてしまう。
「俺は柘植サンにやさしくしたい」
 鷹羽は微笑んだ。
「おまえの手はあったかい。弘君は今寒がってる」
 この手でいいのだろうか。
 このてのひらで。
 弘のやわらかな頬に触れたとき、彼女は汚れたり壊れたりしないだろうか。
 ――柘植サンは、寒がってる。
 それなら、八代がやることは決まっている。八代の身体は、もう、これまでの身体とは違う。やさしい時間と確かな愛情に守られて(いや)された、新しい傷がついても生きていける身体だ。
 ――怖がってる場合じゃない。



 温室は懐かしい気がした。
 引退したから懐かしいのではない。
 大切な場所だから懐かしいと感じるのだ。
 天上がアーチを描く全面硝子(がらす)張りの温室、観音開きの扉はさすがに全開ではなかった。もう放課後となれば気温はずいぶん落ち着く。冷えた風が入ってしまってはいけない。
 扉は細く開いていた。有人ですよと示しているのだ。無人と勘違いされて閉じ込められてはたまらない。
 少しだけ開けてするりと身体を滑り込ませる。伊織に「お猫様」だの「黒豹って感じ」だのとからかわれたことを思い出した。
 話し声が聞こえてくる。
 寿生(としき)の笑い声が上がって、追いかけるように弘の穏やかな笑声が転がった。八代の耳をやさしく()でる。
 ノートを抱いて、少し前屈みになっている。(かたわ)らの寿生は(ひざ)をついていた。ジャージの腰にはタオルが挟み込まれている。作業している身には、やはりまだ少しばかり暑いと感じる日々なのだろう。
 弘は八代がこれまで見てきたのと同じ姿で、同じように白いレースのりぼんが巻かれた麦藁(むぎわら)帽子をかぶっていた。
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